カルチャー・ショック

 会話を聞き取れる距離まで近づいたとき、一行は殺気立っていた。婦人は雪山の天辺に伏せて目と耳を研ぎ澄ました。


『ジョー……もう終わったんだ』

『終わった!? 違う! お前たちが始めたんだ! お前たちがやったことは――』


 人影が倒れ、やや遅れて微かな打音が聞こえてきた。殴ったのだ。誰かが、ジョーを。


『ジョー、お前は砦でカーライルの勇姿を見た。そうだろう?』

『ふざけるな! たとえ戦争であってもあんなことは――』


 一際大きな人影がジョーの顔面を蹴り飛ばした。


『お前が黙っていると誓うなら、王都で暮らせる身分にしてやる』


 ジョーの返答は、婦人の耳をもってしても聞き取れなかった。

 カーライルと思しき人影が、ジョーの傍に立った。

 月明かりを受け、夜闇に反り浅い銀閃が走った。


『……名誉の戦死だ。お前の名はホーヴォワークに残してやる』


 婦人は必死に涙と悲鳴を堪えた。どういう事情があったのか、ジョーが砦で何を目にしたのか、まったく分からない。分かるのはただひとつ。

 勇者カーライルが、ジョー・マングストを殺した。


「弓を持っていたから、射掛けることもできたかもしれないわね」

「でも、そうはなさらなかった。それはなぜです?」

「聞く必要がある? 私の後ろには、カーライルたちがつくった死の世界があった。獣を前に勝ちの目が見えない。そんなときのために、私たちの一族には長く伝わる教えがあった」

「――逃げろ、ですね?」

「そう。デックスさんも、狩人の血筋ね?」


 語り終えた婦人は昔を懐かしむように微笑み、両目を押さえた。おれはペンを置きカップをとった。冷たくなっていた。口中に微かな甘味と苦味が広がる。


「残念だけど、証明する物は何もないわ。私は先に戻らなくちゃいけなかったし、彼らはあの子の亡骸は焼いた言って……私には問い詰める勇気なんかなかった。怖かったのかもしれないわね」

「恥じることはありません。相手は存在そのものが正義ですから」

「でも、デックスさんは名前を晒して戦おうとしていらっしゃるでしょう?」


 老婦人は穏やかに微笑みながら椅子を揺らし、勢いをつけて腰を上げた。


「砦を見ていくといいわ。デックスさんが来るまでに教会が建って、すっかり観光地になって、街は聖教会の信徒だらけになった。あの子は英雄になったけれど、英雄譚はあの子を語らないでしょう? 今の街の人たちも、街を捨てた人たちも、あの子を知らないのよ」

「お辛いですね」

「いいえ。辛くないし、悲しくもない。悔しいとも思わない。でも――」


 少しだけ寂しい。


 ジョー婦人はそう言った。

 くしゅん! と、窓の外から小さなくしゃみが聞こえた。


「あらあら、可哀想に。いい加減にしないとマルセルちゃんが風邪を引いちゃうわね」


 言って、婦人は歪んだ窓ガラスを叩いた。

 そして。

 しばし暖を借り支度をすると、婦人は玄関先で薄着のマルセルに服と靴を渡した。


「突然お訪ねしたのにこんなに良くしていただいて……光栄ですよ」

「どう? デックスさん。私のお話したこと、記事になりそうかしら?」

「――どうでしょうか。色々と考えてからになりそうです」


 おれはマルセルの手前、言葉を濁した。詳細に語れば名を特定できるネタだ。覚悟を決めての投書だったとしても、婦人の居場所だけは絶対に守らなくてはならない。

 ジョー婦人は小さく頷き、おれの躰越しにマルセルに言った。


「――ごめんなさいね、マルセルちゃん。あなたの取材に応えられなくって」

「いえ! 私はお会いできただけで嬉しいです! 服と靴まで借りてしまって――」

「貸したんじゃなくて、あげたの。そう言ったつもりだけど……覚えてない?」

「そんな! いただくだなんて! 必ずお返ししますので――」


 ジョー婦人は穏やかな笑みを浮かべたまま、ゆっくりと首を左右に振った。


「私、聖教会の信奉者は大っ嫌いなの。だから、もうその服と靴はいらないわ」


 ――辛辣。

 マルセルの笑顔がひび割れた。

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