ジョー・マングスト

 今日まで残されているジョー・マングストの歴史は勇者カーライルが街に訪れた前後から始まる。だが、当然ながら彼の人生はそれよりずっと前に始まっていた。


 ジョー婦人の一族は代々森に生きてきたという。

 人が集まれば生活のために燃料や建材としての木々を欲し、また獣たちから身を守らなければならない。


 しかし、はじめからいた人々と、後から来た人々では、できることが違った。

 マングストの一族は、雪国の中でもさらに過酷な森での生活を、自ら買って出たのだ。


 今日、魔王軍と呼ばれている統率された魔物の群れが北の大地に生まれたとき、ジョー・マングストは齢三十になろうかという雪原と森を見張る狩人だった。人当たりがよく、弓の腕前は一族の歴史で頂に迫る。ホーヴォワークは彼のおかげで平穏を保っていた。

 だが、魔王軍が南下を始めると、ジョーは神経質になっていった。


「山に森に雪原に、どうも様子がおかしいって言うの」


 ジョー婦人は苦しげに言った。


「でも私はもう街に移り住んでて、あの子が感じていた不安をわかってあげられなかった」

「不安とはつまり――魔王軍の襲来?」

「そう。あの子は森に罠を張り巡らせて、街の人達に入らないように言った。その頃ね、あの子がフリーキー・ジョーだなんて呼ばれるようになったのは」

「あの頃はまだ、脅威を知らせる術が人の足以外にありませんでした。ですが、その点、魔王軍は巧妙でしたよね。道を塞がれてしまってはどうにもなりません」

「……詳しいのね。デックスさんはもっと北のお生まれ?」

「そうです。今はもう地図にも残ってませんが」


 ジョー婦人は穏やかな顔で頷き、窓の外に目をやった。夕陽を浴びる記念教会をマルセルがじっと見つめていた。


「最初の襲撃はあの子が防いだ。あの教会が立っているのはね、あの子が立てた見張り台の上なの。他に誰も手伝ってくれないからって、あの子の奥さんが昇ってたんの。膝を悪くしてるんだからって私まで気遣ってくれて。でも、私が昇るべきだったと今でも思う」


 ジョーは街の住人を森に匿い多くの命を救った。息をつく間もなく二度、三度と昼夜を問わず襲撃が続き、魔王軍が一時的に引いたとき、彼は最愛の妻と子どもを失っていた。

 しかし、悲しんでいる暇はない。

 東に広がる雪原のさらに奥、魔王軍が砦を築き始めていた。日に日に形をなしていく砦の威容に、人々は疎開を主張する者と抗戦を求める者に分かれていく。

 そんなおり、ジョー・マングストは森の中で罠にかかった魔物と出会う。


「――すごく大きな狼だった。立派な毛並みでね、息を潜めてこっちを見てたの。でも、不思議と怖くはなかった。疲れたような顔をしてたからかもしれないわね」

「……ちょっと待ってください。まさか――」

「ええ。嘘みたいな話でしょう? あの子が魔物を助けたとき、私もいたの」


 ジョー婦人は柔らかく笑い、温くなったカップを両手で包んだ。

 当然、森で抗戦しようとしていた人々は気味悪がった。言い争いにもなった。しかし、ジョー・マングストと、その叔母であるジョー婦人には確信があったのだ。


「彼らが砦を築いたのは、街を奪うためじゃなくて、そこを拠点に南下をつづけるため」

「やっぱり、そうでしたか」

「残念、驚かないのね」


 ジョー婦人は嬉しそうに微笑みながら手を振ってみせた。


「でも、そうね。デックスさんはもっと北の生まれだものね」


 おれは小さく頷いた。


 北の大地に生まれた魔王軍は、道中の街を破壊しながら南下した――と、されている。

 実態は違う。人々が防衛に成功すると、魔王軍は人里を避けるようになったのだ。

 そもそも魔王軍は膨大な種族の連合体だ。繁殖力や生命力に富んだ種もあれば、特殊な環境に適応できる種もある。人が暮らすような狭い土地を命賭けで奪う必要はない。


 獣の縄張り争いと同じだ。


 防衛力が低い土地であれば奪い、戦力の消耗率に見合わなければ回り道をする。ときに玉砕を命じた王都の将兵たちには見習ってもらいたいくらいだ。ひとりの王の号令に多種族が従う様は、同種族内で争いを繰り返す人間よりも洗練されていると言っていい。


 今では口に出せば異端と罵られる評価だろうが、おれの目にはそう見えていた。


「魔物と言うか、魔族と言うか……エスリン語を話せるのもいたでしょ? だから――」

「魔王軍と停戦協定を結ぼうとした。おれの村でもそうでした」

「ひとりで交渉に行ったのは知っているけど、うまくいったのかは教えてくれなかったの。でも、ひとまず猶予ができたのはたしか」


 完璧な一枚岩ではない。指揮系統の外にいると思しき極小規模な襲撃はあった。そんなのは魔王軍が立つ前から同じだったのだが、人々はそれ見たことかとジョーをなじった。


 そんな頃、勇者カーライルの報せがやってきた。

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