忘れられた教会
凍りかけた雪に靴底が沈む。吐息はいつも以上に白く、吹き出た汗は一分と経たず霜に転じる。周囲は疎らな木々と雪ばかり、はるか遠き雪原に砂粒ほどの目的地。
「……おーい、マルセルー? 大丈夫かー?」
振り向けば、荷物を減らしに減らしたマルセルが唇を真っ青にして小刻みに頷いていた。
「ししししししししんぱいむようよ! ああああああとどれくらいっ!?」
「おーい……マジで大丈夫なのかよ?」
正直、見た目だけでもちょっと心配だった。マルセルが革鞄に詰め込んできたのは王都で通用する防寒具であり、本格的な雪国で使えるものではない。
おれは肩掛け鞄に振り回されるマルセルを見かねて、手を差し伸べた。
「ほら、それ貸せ。持ってやっから」
「いいいいいいいいって、いいいいいいっったでしょ!?」
「……んなこと言っても死にそうじゃんよ。つか、ぶっ倒れられたら運ぶのおれなんだが?」
「たたたたた倒れる、わ、わわわ、わけ、ない! じゃない!」
舌を噛みそうな単音の連打。本格的にヤバそうなので、おれはマルセルの振り回す手を掻い潜り鞄を奪った。手に食い込む重量感。なにが入ってやがるのか。
「ついでに手もつないでやろうか?」
「ざ、ざ、ざざざざざけんなっ!」
マルセルは両肩を抱いてブルブル震えながら悪態をついた。可愛げのない。
「だーから馬ぞりを借りようっつったんだ。あとオバーシュー! なんで買わねぇの? 金あんだろ? 足元見てみろ。オシャレな靴がぐっしょぐしょになってんじゃねえか」
「ほ、ほ、ほ、ほっとけ! って、てててて、ていうか、なんであんた――」
「なんで大丈夫か? 言ったろ? 足元を見ろって。記者なんだ、観察眼を養え」
言って、おれは爪先をあげた。見た目には無骨な黒革のブーツだが、
「デックス様のライター七つ道具のひとつ、ブギーマンブーツだ」
「ぶぶぶぶぶぎぎーまん?」
「そうだよ。王都の裏スジで手に入れた特別製だ」
ブギーマン――ベッドの下やクローゼットに隠れる怪物の名を冠したブーツは、ケルピーだかアハ・イシュケだかの革を使ったという。実態は知らない。調べようもない。
しかし、王都の下水道を走り回るに足る防水性と通気性を備え、ザラザラとした肌触りの靴底は凍った地面にもよく食いつく。しかも硬い床を踏んでも靴音がしない優れものだ。
「高ぇけど便利だぞ? 欲しいなら王都に戻ったとき紹介してやるけど――どうする?」
「か、か、か、考えとく……」
「寒すぎて素直になったか? いい兆候だ。ついでにもうちょっと素直になりな」
おれはマルセルの手を掴んだ。氷のように冷たくなっていた。振り払おうとはしてきたが、少し引っ張ってやったら歩かざるを得なくなり、すぐに抵抗を諦めた。
「そうそう。素直になんな。じゃないと死ぬのが雪国だ」
マルセルは何も言わなかった。その凍えた手は歩を進めるにつれ温まり、ついには汗ばむほど熱くなった。だが、おれの体温のせいじゃない。
「――っどうして! 誰も手入れをしてないのよっ!? 不敬でしょうがッッッ!」
マルセルの放った魂の咆哮が、痛みの激しい教会の石壁に吸い込まれて消えた。
礼拝堂らしき建物の中央からそびえる鐘塔は見上げんばかり。だが、なぜか扉が北向きにあり、陽光を遮られた小さなアプローチと壁が凍った氷雪に覆われていた。
一部、材質の違うところがあるのに気づき、息で温めた短剣で凍った雪をこそぎ落とすと、ホーヴォワーク解放記念教会の来歴を紹介するプレートがでてきた。
「……建設の決定が七年前、建立が五年前……このサイズで二年もかかるって、どんだけ」
「――違う! 七年前に決定したのは慰霊碑の設置!」
マルセルはずかずかやってきてプレートについた雪を素手で熱心に払い始めた。
「慰霊碑を建てるだけじゃ復興が進まないって、カーライル様が聖教会に訴えたの。それを橙色の君ラナンキュラス・ファビアーニ司教様がお受けして、郵便局と教会の建立に変更させたわけ。まったく! 来歴までいい加減とか……不敬にもほどがある!」
「……すげえな。頭の中に観光ガイドが詰まってんの?」
しまいには炎でも吹きそうなマルセルの剣幕に、おれは肩を竦めた。
「なんだかんだ言って、ようは公共事業を装った身内への利益誘導だろ? そりゃテキトーな仕事になるわ。そもそもフリーキー・ジョー自体が嫌われ――」
「フリーキーって言うな! アタマ引っこ抜くわよ!?」
「――アタマって。おっかねえな、せめて舌にしてくれよ……」
「いいから! お参りしてくわよ」
「マジで? 入るの? ここに?」
おれは顔をしかめた。梯子一本で届く高さの庇に、手首から肘に達しようという雪が積もっている。母屋の屋根も同じだろう。入ると同時に重みで潰れないといいのが――
警戒するより早く、マルセルが二枚扉のひとつを押した。カラッカラに乾いているわりに重いらしく、お洒落なブーツが成すすべもなく滑った。鼻を折られても困る。おれは素早くマルセルの背中を支えて一緒に押した。乾燥した戸板が軋み、赤錆びた蝶番が悲鳴をあげた。
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