塗り替えられた過去
―そろそろ、陽が沈むな。
僕は開けておいた障子の間から見える景色に、ぼんやりとそう思った。
やがておもむろに腰を上げると、廊下に出、柱に寄りかかって空を見上げた。
すっきりと晴れた一日だった。
今見ても、雲はほとんどない。
穏やかな橙色が、濃くなっていく。
ふと、腹の虫が鳴いた。
「そういわれてみれば、お腹が空いたな。」
蓮貴は朝早くから出かけてしまって、話し相手が居なかった僕はつまらなくて死にそうだった。
空腹も気付かないほどに心を無にしていたらしい。
―玄に何か分けてもらおう。
そんなことを思い立って、僕は長い廊下を厨房の方へと向かい、歩き出す。
廊下に光があたっていたせいか、裸足に温もりを感じる。
「まだ帰ってないのかな。」
蓮貴の部屋を通り過ぎようとして、少し障子が開いていたので気になって覗いてみる。
やはり、人の気配はなく、空っぽだった。
右左にきょろきょろと目を動かして確認すると、僕はその場を離れようとした。
が。
ある場所に、視線が釘付けになってしまって、身が固まる。
―あれは。
僕は門の方と、後方に誰も居ないのを確かめてから、そっと障子を開けた。
ここでの生活に慣れた僕は、蓮貴の足音ですら聞き取れるようになっていた。
少し、少しだけ。
なんだか悪いことをしているような気分だったが、ちょっと見るだけだからと蓮貴の部屋の中に足を踏み入れる。
夕刻な為に、中は薄暗い。
以前と同じように、広すぎる部屋には、沢山の書物と机があった。
今日も隅にある一輪挿しには白いあの花が元気に咲いている。
ただひとつだけ、違うのは。
僕は一直線に、机の上に置かれた書物に眼をやった。
濃紺の、古びた書物。
それは、いつも蓮貴が肌身離さず持っている本に違いなかった。
いつか、池の辺(ほとり)で蓮貴が読んでいるのを見かけてから、ずっと気になっていた。
ただ、彼が人目を憚(はばか)るようにして読んでいるように思えた為に、訊ねるのも気が退けたのだ。
―一体、何の本なのだろう。そんなに面白いんだろうか。
少しだけ、見てみよう。
何故だか手が震えたが、僕はその場にしゃがみこんで、じっとそれを見つめた。
そして、朱色で書かれた表紙の文字を指でなぞった。
「持出し、、禁止…?」
未だに記憶が戻らない僕は、自分に学問があったのかどうかがわからない。
そのため、もしかしたら字が読めないかもしれないと懸念していた。
「読めた…」
ほっと安堵する。
表紙を開けると、そこに濃紺の墨で、細かく前書きのようなものが記されていた。
達筆過ぎて、読みにくい。
随分と昔の本みたいだな、と思った。
「ええと…ここに記すことは、定めに反すること、、、である???」
どういうことだ?
いつしか大きな本を抱え込むようにしながら、僕は首を傾げた。
定めって、、何の定めだ?
所々文字が潰れていてはっきりわからない言葉がいくつかある。
「いいや、もう、次行こう。」
前書きを諦めて、僕は次のページを捲った。
一体この本の何処が面白くて、蓮貴は読んでいるんだろう。
「なんだ、これ。」
次に出てきたのは、文字ではなく絵だった。
左のページには丸くて青いもの。
真ん中に雪の結晶みたいなのがある。
「きれいだな…ええと…」
僕は、線で引っ張った先に、説明なのかメモなのかわからない書き込みがしてあるのを見つけた。
すごい細かい。
僕は段々うんざりしながら、なんとか読み取れる文字だけを抜粋してみる。
「絶…零…鍵…。材…泪…。駄目だ、少しもわからない。」
溜め息を吐いて、右の絵にも目をやる。
こちらもやはり丸いのだが、燃えるような赤で、中に雷のようなものが見えた。
「熱…雷…鍵…。心…?」
両方の絵のどちらもどんな解説が付いているのかわからなかったが、共通して右上に王冠のマークがあった。
最高のものってことか?
僕は勝手に解釈して、次のページを開いた。
次のページにはびっしりと文字が書き連なっていた。
今度はまぁまぁはっきりとしているので、大分マシだ。
僕は指で慎重になぞりながら、小さく呟きつつ読み上げた。
「それぞれの鍵、最高峰であるその二つの鍵を十ずつ揃えよ…」
ん?さっきの絵、もしかして鍵っていうのか?
ちょっと謎が解けた気がした。
最高のものっていうのは間違いじゃなかったんだな。
「そして、、、雲を呼ぶように…水を呼ぶように…そうすればそれは―」
そこまで読んだ所で、急に冷たい風がひゅっと部屋に流れ込み、僕の髪を揺らす。
「うわ、なんだ?」
驚いた僕は本から目を離し、顔を上げる。
見ると、障子の隙間から風が吹いてきたらしい。
「おかしいな。さっきは暑い位だったのに…」
不思議に思って、僕は本を閉じ、立ち上がって廊下に出た。
「あ…」
先程とは打って変わって、外は灰色掛かっている。
雨だった。
しとしとと静かに降る雨は、橙色だった世界を蒼く染めていく。
「急だな。」
他の人たちがどうかは知らないが。
僕はこの村の謎の答えを知っている。
温度師の村の天気や温度の変化はジェットコースターのようにコロコロと変化する。
それは何故か。
「蓮貴、、、裏山に行ってるんだな…」
僕がぽつりと呟いた言葉は雨と一緒に地面に落ちる。
僕と蓮貴はしょっちゅう裏山に行って時間を過ごしていた。
そして在る時、蓮貴が、ここは力を試すのに最適の場所なんだと教えてくれたのだ。
『どうして?』
と訊ねた僕に、蓮貴は、
『村全体が見えるのに、村から俺は見えないから。』
と答えた。
『もしも、自分が次代の任命の為に星を降らす時には、こっそりとこの裏山に戻ってきてしようかな。』
毎日飽きもせず、暮れる夕陽を見つめながら蓮貴が言うから。
『じゃ、その時の為に、僕はこの木にでもメッセージを彫っておこうかな』
すぐ近くにあった、一際大きな木の幹に手を当てて僕はそう言った。
そんな会話をしてからというもの、天気の変動に村全体がおろおろする度、僕はまた蓮貴の悪戯か、と笑っていた。
だけど―
「今日のはなんだか…」
柱に手を掛けながら、静かに降る雨を見て胸が締め付けられるようだった。
「…泣いてるみたいだ…」
何か、あったのかな。
帰ってきたら、慰めてやらなくちゃな―。
そう思って、門の方へ出迎えてやろうかと足を向けた。
寒い、と身を縮めながら門を出ると、裸足のままの翠が、雨に打たれて突っ立っていた。
「あ…」
翠は僕に気付くと、少し気まずそうに唇を噛む。
「どうしたの?なんで靴を手に持ってるのに裸足なの?身体冷やすよ?」
翠と僕はあの時以外会話をすることはなかったが、蓮貴と一緒に居る時に、たまに顔を合わすと視線だけで挨拶し合う仲だった。
「ちょっと…急いでて…」
翠は僕と目を合わせることなく、呟いた。
「蓮貴…居る?」
「蓮貴なら、今ちょっと出かけてて居ないんだ。もう帰ってくるかなとは思うんだけど、、、中に入って待ったら?」
僕が提案してみたが、翠は首を振った。
「ん、じゃあ、いいや…」
そして踵を返そうとして、ぴたりと止まった。
「もし…帰ったら―」
========================
「遅いなー」
蓮貴の奴、どこほっつき歩いてるんだろう。
まだ裏山に居るんだろうか。
翠が帰った後、僕は門の近くの屋根の下で雨宿りしながら、欠伸をした。
「捜しに行ってみるか…」
その時、だった。
ゴーン…ゴーン…ゴーン…
「何だ?」
僕がここに居る間、一度も聞いたことのない音がする。
「鐘…?」
村中に響くかのようなそれに固まっていると、何やら屋敷中が騒がしくなり始めた。
寂しくなるほどいつも静かなのに。
どうしたんだろう?
バタバタと使用人達が集まって廊下を駆けていく。
奥からは蓮貴の母親までもが飛び出して、全員が稽古場に向かっているようだった。
僕は邪魔にならないように見守りながら、そのうちの馴染み深い一人を呼び止める。
「玄さん!」
名前を呼ばれた親切な老婆は、ピタリと止まると辺りを見回し―
「ここです。」
声の主の僕を見て、合点のいった顔をした。
僕は屋根の下から出て、屋敷に上がる事無く、廊下で止まっている玄を見上げる。
「どうしたんですか?何かあったんですか?」
訊ねると、玄は何度も頷いた。
ベテランである彼女ですら、やや焦っているように思えた。
「温度師が―お亡くなりになられたんです。」
一瞬、僕の頭は完全に動きを止めた。
「蓮貴様の任命式が行われるのです。」
何も言わない僕に、玄は小さくお辞儀をすると、他の者の行った方角へと小走りに向かった。
庭に立ちすくんだまま、僕は雨が雪に変わったことを知った。
温度師が、死んだ?
蓮貴の任命…。
頭の中を、玄の言葉がぐるぐると繰り返されている。
そして、繋がる。
いつか、蓮貴と二人で歩いた畦道。
『今の温度師が死んだら、千年に一度の鐘が鳴る。それで、世代交代の時が来たことを知るんだ。』
『…じゃあさ、かなり突然なんだね?』
あの時の、会話。
鐘の、音。
文を握り締めた手の甲に、冷たい雪が舞い落ちる。
―やっぱり、蓮貴は、泣いてるんだ。
果たして、別れの言葉を伝える時間は、残されているのだろうか。
門に近い庭に立ち尽くしたまま、蓮貴を待っていると、見知らぬ男がやってきたのが見える。
痩せてはいるが、かなりの長身だ。
黒い服に身を纏い、鞘を腰に提げている。
彼は中に入らずに、誰かを待っている様子で、道のある方を見つめてじっとしていた。
暫くして、片膝を地面に付け、頭を垂れたので、僕は首を傾げながらその様子を伺った。
すると、走ってきたのか、息を切らした蓮貴がやってきたのが見えて、僕は思わず叫ぶ。
「蓮貴!」
しかし。
門の内側で二言三言、長身の男と何やら交わした蓮貴は、そのまま僕を見る事無く、廊下を進んで行ってしまう。
「おいって、蓮貴!」
再度呼びかけるが、一瞬だけちらりと横目で見ただけで、蓮貴は僕から顔を背けた。
その後ろを歩く長身の男も、僕のことを一度だけ振り返ったけれど。
「…なんなんだよ?」
僕は少し腹が立って、かといって追い掛けることもできず、中途半端に取り残されたような気持ちになった。
二人の後ろ姿を、雪が所々隠す。
表面では余り感情を出さない蓮貴が、空に心を映すことを僕は知っていた。
無表情に見える彼の内奥もまた、この雪と同じように震えているに違いない。
これが、蓮貴が言っていた『突然』なのか、と今更ながらに思い知る。
僕は放心しきって、ふらふらと廊下に上った。
これで、終わるわけがない。
心のどこかで、淡い期待を持っている自分が居る。
だから、稽古場に向きかけた足を途中で止めて、蓮貴の部屋で待っていようと決めた。
悪足掻きだ。
意地っ張りだな、と自分でも少し呆れる。
だけど、蓮貴が、僕に何も言わずにいなくなるわけがないと思いたかった。
こんなことになるなら、一緒に朝出かければ良かった。
後悔の念が押し寄せる中、障子を開けると。
「……ない」
確かに僕がさっきこの部屋に居た時にあった筈の、濃紺の書物がなくなっていた。
「くっそぉ…」
悔しさの余り舌打ちする。
きっと、稽古場に向かう途中で蓮貴が立ち寄ったに違いない。
多分、もう、戻れないから。
「友達より、本かよ!」
自棄になりながらも、蓮貴らしいなと感じて、自然と笑えた。
「あーあ」
そのままゴロンと仰向けになって、天井を見上げる。
呆気ないもんだな。
別れ、なんて。
僕、これからどうすればいいんだよ。
蓮貴が居なくなった、この村で。
記憶もないのに。
「旅に、でるかぁー」
自分を慰めるかのように、少し明るめに声を出し、腕を伸ばした。
―翠を幸せにして欲しい。
掌のカサ、という感触に気付くのと、蓮貴の言葉を思い出すのとは、同時だった。
「あ、そうだ。翠…」
僕は慌てて起き上がって、握り締めていた文を見つめた。
まずい。
さっき、翠に蓮貴が戻ってきたら渡すように言われていたんだった。
「うーん…どうしよう…」
蓮貴が居なくなることを知ったら、翠は哀しむだろうな。
それとも鐘が鳴ったから、もう知っているだろうか。
「そういや、何の用だったのかな。」
翠の様子が、ちょっとおかしかったな、と僕は考え込む。
「急ぎの用だったら、困るし―でも、蓮貴はもう居なくなっちゃうし…」
悩む。
文は封がされてない状態で、読もうと思えば読めた。
ひとしきり迷った挙句。
「翠、ごめん。」
そこには居ない彼女に一応謝罪してから、僕は封筒の中から折りたたまれた用紙を出した。
とても薄い、紙だった。
残念なことにこれをなんというのか僕にはわからないけれど。
「ええと…」
僕は丁寧に書かれた翠の文字を、さっきの変な本と比べて、何て読み易いんだろうと感動する。
「これ…」
文章は、短いもので。
けれど、僕はこれを蓮貴にどうしても渡す必要があるということを悟った。
「行かないと」
慌てて立ち上がり、部屋を出ようとし、異変に気付く。
文を掴んだまま、僕はたじろいだ。
背筋を、冷たいものが伝う。
―花が。
蓮貴の部屋に咲く、一輪の白い花が。
「―燃えてる」
静かに。
一筋の煙と炎を纏って。
少しずつ、白い花弁が失われていっていた。
戸惑っている時間はない。
僕は弾かれたように乱暴に部屋を出て、廊下を走る。
無性に長く感じて、若干苛々した。
稽古場まで行くのに、僕の使っている部屋を通り過ぎ、渡り廊下を抜けなければならない。
―時間が、ないのに。
急いだところで、僕自身には何の力もない。
だけど。
だけど、蓮貴ならきっとなんとかしてくれる筈だ。
そんな確信の籠もった期待が、僕にはあった。
だから、僕には伝える義務がある。
もしかしたら―
僕は全速力で走りながら、ある可能性に思い当たる。
もしかしたら―
僕はその為にここに居るんだろうか。
この時の為に―
いや。
ペースが落ちそうになる自分を、首を振って制した。
今、そんなことはどうでもいい。
とにかく、一刻も早く蓮貴の所に行かなければ。
外は凍える程寒いのに、僕の身体は熱かった。
稽古場の大きな両開きの門の前に着くと、使用人たちが外で待機しているように立っていて、ただならぬ様子の僕に驚いた顔をしている。
「なりません!今入ってはなりません!」
制止を振り切って、僕は息を整えることもせず、一気に門を押し開ける。
バン!
余りに勢い良く押したせいで、激しい音がした。
「はぁ、はぁ…」
冷たい空気が肺に入り込み、キリリと痛む。
「誰だ?!お前は…」
さっき蓮貴の後ろを歩いていた長身の男が、跪(ひざまず)いた格好で振り返って僕を見た。
その向こうに、蓮貴が僕と対峙するように立っていた。
蓮貴は白い袈裟を着ていて、片足を踏み出した所で、驚いたように僕を見つめている。
想像していたのとは違う、実に殺風景な場所だった。
それに―
この場に居合わせているのは、蓮貴と、振り返ってこちらを見ている男、の二人だけだった。
「部外者の立ち入りは禁止だぞ!」
長身の男は立ち上がると、いきり立って僕に向かってくる。
僕は構う事無く奥に向かって叫んだ。
「蓮貴!!!」
細い身体に、どこにそんな力がと思うほど、軽々と男は僕の胸倉を掴んで持ち上げる。
「翠の所にっ!」
喉が、苦しい。
が、退くわけには行かない。
「翠の所に行け!!!」
なんとか言い切るのと、男に投げ落とされたのはほぼ、同時だった。
翠、と言った時点で、蓮貴の瞳が揺れたのを僕の目はちゃんと捕らえていた。
ズシャァァァ
丁寧に描いてあった枯山水に叩き付けられて、砂が腕と足にすり込み、鋭い痛みが走る。
使用人達の悲鳴が上がった。
いってぇ…
僕は我慢できずに顔を顰める。
「何をふざけたことを言っている!!出て行け!二度とこんな真似するな!」
男は大分憤っているようで、忌々しげに言い捨てると稽古場の扉を閉めようとした。
「駄目だ!!!」
僕は起き上がり、叫びながら閉まりかけた扉に手を掛けた。
「蓮貴!!!お前っ、絶対後悔するぞっ!!!」
「往生際の悪い奴め!」
内側から閉めようとしていた男がそう言うが否や、扉の隙間から足が飛んできて、僕は吹っ飛ぶ。
まずいな。
僕の頭の中で警告が発せられる。
このまま行ったら、頭から落ちてしまう。
空が近くなって、遠退いていくまで、スローモーションのようにゆっくりと感じられた。
あれ。
この、感じ。
前にもどっかで―。
―『馬鹿じゃないの?!』
誰だ?
懐かしい、声。
僕はこの声が、すごく好きだったような―
―『クミは大馬鹿だね!』
パチ、と反射的に閉じられていた僕の瞼は開く。
僕は。。
そうだ、僕は―
ガサァッ
僕の身体が少し先の庭にある植木の上に落ちたために、葉が派手に飛び散った。
幸い、怪我といえば、枝で引っ掻く程度で済んで、少しほっとする。
「なんで、今まで忘れていたんだろう。」
植木の間から、なんとか這い出して、僕は自分の頭を軽く殴った。
僕は本当に大馬鹿者だ。
使用人達がパニックに陥っている中を掻き分けて、僕は再度稽古場に向かう。
ドンドンドンドン!!!!
固く閉じられているため、僕は力の限り、拳で扉を叩いた。
「蓮貴!!!!よく聞けよ!!!」
僕は生きてきた限り、こんなに叫んだことはない。
酸欠になりそうだ。
あらん限りの声で、僕は叫ぶ。
「書庫が火事なんだ!!!翠が危ない!!!」
さっきの枝で、手を切ったらしい。
滲んだ血が、扉に黒く痕を付ける。
自分の中に渦巻く感情が、星の物なのか、卓毅の物なのかわからない。
「蓮貴!!!!!」
今の状況がどうしてこうなったのか、混乱していてよく理解できていない。
だけど。
やっぱり、僕は蓮貴を嫌うことが出来なくて。
せめて、夢なのか何なのかわからないこの世界だけでも。
蓮貴の傷が、癒えたらいいのに、と願うんだ。
だって。
僕が聴いた物語は、悲しすぎると思うんだ。
「翠は逃げないで、会いに来たんだ!!ちゃんと、伝えようとしてたんだぞ!!!!」
いつの間にか、嗚咽交じりになっていることに気付く。
熱いものが目から零れ落ちる。
せめて、想いを伝え合えたら良かったんだろ?
お互いが、生きていたら良かったんだろ?
なぁ、兄貴。
「お前のその力は守るためにあるんだよ!!!!」
過ちを繰り返さないで。
「あの、白い花がっ!!!!」
僕はどうしようもなく出来の悪い弟だけど。
「咲かなくなるんだぞ!!!!!!」
普段余り感情を表に出さない兄貴が、本当は何を思っているか、位は読めてたんだ。
バン!!!
大きな音と共に、叩いていた扉が突然開いて、僕はよろめいた。
「蓮…貴…」
漆黒の瞳の彼と目が合った。
「蓮貴様!お待ちください!」
長身の男が後ろから慌てて呼び止める。
蓮貴は何も言わずに、その場に袈裟を投げ捨てると、藍色をした中着だけで走り出そうとする。
「待って!」
僕は必死で片手に握り締めていた文を、蓮貴に差し出した。
「翠から預かった…」
僅かに首を傾げていた蓮貴にそう言うと、彼は小さく頷いて受け取った。
そして今度こそ、走り出す。
雪はとっくに止んでいたが、日が暮れて居る為に、辺りは薄暗い。
傷がじんじんと痛むのを我慢しながら、僕は無言で蓮貴の後ろ姿を見つめた。
すると、彼が走りながら人差し指を左右に振ったのが見えた。
ザァァァァァッ
途端に大量の雨が、バケツをひっくりかえしたように降ってくる。
―良かった。
記憶が戻ったものの、僕の頭は靄がかかっているように、物事を明確に捉えることが出来ない。
ただ、安堵した。
きっと、これで、蓮貴は翠を助けられるだろう。
そう思ったら、身体中の力が抜けていくように感じた。
大粒の雨に打たれながら、僕はふらふらとその場にしゃがみ込む。
―あれ、おかしいな。
じわじわと染みている水の感触が、幾ら待っても感じられない。
急に視界が真っ暗になって、あぁ、きっとまた意識を失うんだなとわかった。
もう慣れ始めたその過程の中で。
僕は、あの文(ふみ)に書かれていた、短い文面を思い浮かべていた。
蓮貴へ
別れがあるから詞がある、と
昔、誰かが教えてくれました。
だから、いずれ来るだろうさよならの為に
私が貴方を愛していることを、伝えさせてください。
翠
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