別れがあるから詞がある

水の、流れる音がする。



暖かい太陽の匂いがする。




「…ん」




ここは、一体どこだろう。



心地良い、場所だ。




あー、公園かな?




ずっとここで昼寝をしていたんだっけ。



なんだか、夢を見ていたような気がする。




途中現実かと思ったけど、やっぱりあれは、夢だったのね。



あ、そうだ。


もう、予備校終わっちゃったかもしれない。



寝て居る暇なんかなかったのに。


小テストの為に、徹夜で勉強したからかな。



あ、卓毅を呼びにも行かなきゃ。




それにしたって、変だわ。




真夏な筈なのに、春みたいな気候。





ゆっくりと瞼を開ける。



「あれ、どこ、ここ…」



起き上がって、慌てて見知らぬ辺りを見回した。




瞬間、だった。





「蓮貴ー!!」



「きゃあっ!!」




高い声と一緒に、知らない女の子が駆け下りてきて、そのまま滑ったらしく、勢いよくぶつかった。





「いたたたた…」




覆い被さるように転んだ少女に顔をしかめつつ、呟く。






「あ、ごめんごめん…ってあれー??すみませんっ!!」





ガバッと顔を上げた少女は、顔をサッと青くし、仰け反った。






「知り合いかと……あの、お姉さん…どなたですか?」





栗色の髪の、まだあどけない少女は、恐縮しながらも、好奇心を隠せないようだ。


さて、何といえば良いだろう。



やはり、さっきまで起きていたことは、夢ではなかったらしい。



と、すると、自分は今どこに居るのだろう。



皆はどこへ行ってしまったのだろう。



考えることは沢山ありそうだ。




「実は…私も迷ってここに来てしまったの。ここが何処か教えてもらえる?」




至極真っ当な質問だと思ったのだが、目の前の少女はおかしそうに笑う。




「迷ってここに来る方なんて、いませんよ。ここは、温度師の村で、その一族しか入ることが許されていないのですから。」





温度師、か。



自分の中で、このワードは新しい。



確か、卓毅のお兄さんが、そうだったとか、なんとか…



よく、わかんないけど。



その村に、来てしまった。



そして、自分は確かに温度師とは何の関わりもないのだから、この村には恐らく入れない筈だ。



でも、現に今、ここに居る。



暫く情報を集める必要がありそうだ。



じゃぁ、そうするにあたって、賢い方法は。





「そうなの?実は…私……思い出せないのよ…」




物悲しそうな空気を纏いながら、俯く。




「え!お姉さん、どうしたの?思い出せないって、どういうこと?」




少女はその丸くて大きな目で、心配そうに自分を見つめて居る。


罪悪感が全くないわけではないが、背に腹は変えられない。



早く土地勘を手に入れて、卓毅や淳くん達を捜さなくちゃ。




「頭を打ったのかしら…気付いたら、ここに横たわっていたのよ。その前の、記憶が少しも思い出せないの。」



========================







「お姉さーん!!こっちこっちー…もう少し速く歩かないと、陽が沈んじゃいますよ」





自分も充分若いと思っていたけれど、やっぱり年はとったのね…




数メートル先で立ち止まってこっちを見ている少女に対して、尭は軽いジェラシーを感じていた。



少女の名前は翠と言った。記憶がなく、自分の家さえないようだという尭に、翠は暫く自分の所へ居るといいと、提案してくれた。この流れは狙い通りだった。勿論、翠の両親が承諾してくれなければならないが。



そして、翠の自宅へ向かうことになったのだが、さっきの場所から正反対の所らしくて、意外と距離があった。



それなのに、だ。




歩いているだけですっかり息が上がっている尭と違って、先導してくれる翠は飛んだりはねたりよく動くのに、全く息切れしていなかった。





「すっ、こし…休、憩させて…」




尭はやっとのことで、そう言うと額の汗を手で拭う。




緑の多い、土地だった。



極寒の国とは大違いだ。


少ししかいなかったからよくは知らないが、外の景色は雪国そのものだったから。



今歩いている道も、畦道といえるような田舎道で、おばあちゃんの家を思い出す。




のどかで、暖かい。



「お姉さん…若く見えるのに、体力ないんですね!」



ケラケラと笑って翠は、尭のことを見ている。



悪気がないのは充分わかっているのだが、心に刺さる。





「悪かったわねぇ…」




届かないと知りつつも、掠れた声で翠に呟いた。





なんで、こんなことになったのだろう。



尭は注意深く記憶を手繰り寄せる。



元より、混乱はしている。



歪み、と呼ばれる場所で、最初は悪い夢でも見ているのかと思っていた。



広漠としている大地。


見知らぬ人間が沢山居た。



心細く感じ、早く目が覚めないものかと願っていると、知っている顔を見つけた。



ほっとしたのも束の間、すぐに知らない者達に知らない場所へ連れていかれて…そして、卓毅と右京に会った。


二人から聞いたことは、夢の延長かと思った。


到底信じられる話ではなかった。


どちらも真剣な顔をしていたので、半信半疑で居たけれど。


それから地震に突風、雨と、空中に浮かぶ人達。



そして、透さん、もとい、温度師が現れたと思ったら…



見知らぬ場所に寝転んでいた。



頭の中を、どこから整理すれば良いのかわからない。なんなら発狂したい気分だ。




「ほらー?もういいでしょう?お姉さん、行きますよ!」



痺れを切らしたかのような翠の声に、尭ははっとする。




いつの間にか、陽が大分落ちてきていた。




「あー…ごめんごめん!今行くから!」




少し急ぎ足で、翠がいる場所まで向かった。



そろそろ、足が限界だ。




尭がそう感じ始めた頃、翠がとうとう立ち止まった。




「着きました!ここが家でーす!」



じゃじゃーん、と効果音がついてきそうな程、翠は明るく両手を広げて見せた。




尭は息切れの為に、頷くだけ頷いて意思表示する。




「大丈夫ですかー?少し待っててくださいね、両親を呼んできますから」



翠はくるりと向きを変え、あっという間に家の中に消えた。




ー益々おばあちゃん家みたい。



尭はまじまじと翠の家を見上げながら思った。




古びてはいるが、丁寧な管理で大事にされてきたことがわかる、木造の平屋だった。



こじんまりとした外装ではあったが、温もりが感じられる。



なんか、疲れたな。


皆、どうしてるのかな。



急に心細く感じて、慌てて振り払うように首を振る。



気を取り直して、門の傍に灯されている明かりを暫くぼんやりと見つめていると、物音と共に女の人が顔を出した。




「あらあら、遠い所まで歩かせてしまったようでー翠から話は聞きました。さ、どうぞ、中へお入りください。」



恐らく翠の母親だろう。人の良さそうな笑顔で尭を手招く。




「いいってー!」




その母の後ろから、ひょっこり顔を出した翠が嬉しそうに指で円を作って見せた。




「あ、ありがとうございます…」



尭が深く頭を下げて御礼を言うと、翠が飛んできて尭の腕をひっぱった。



「そんなのいいからー!早く入ってください!」



翠の母親も頷きながら、微笑ましく見守っている。



「わかった、わかったから!」




尭は翠にグイグイ引っ張られて、転びそうになりつつ、家の中へ足を踏み入れた。



時代劇のセットのような家だった。


比較的裕福であることは、外から見てもわかる。


ただ、ここへ来る時に桁違いに大きな屋敷の前を通ったので、それに比べるなら翠の家は控え目な感じがした。



案内された部屋は座敷で、翠の帰りを待っていたのか、食卓が手付かずになっていた。



その奥に、穏やかに微笑む男の人が座っていた。




「我が家にようこそ。翠の父です。大したものは用意できませんが、良かったら夕食を一緒にどうですか?」



翠が付け加えるようにして、




「お母様のご飯は美味しいですよ!」




と、尭を振り返った。



同時に母親もいそいそと支度を始める。



「あ…っと…。この度はご迷惑をおかけして申し訳ありません。その…」



これから、少しの間でいいから、ここに留まれるよう、なんとお願いしようか、尭は必死で頭を働かせる。



と。



「翠から話は聞いています。こんな所で良ければ、いつまででも居てやってください。さ、遠慮なさらず座ってください。」




翠の父親が、にこにこと手を差し出して席をすすめる。




どうも、素晴らしく良い家族に出会えたようだ。



「ありがとうございます…」




尭は本心からそう言って、勧められるままに座った。




料理はどれも見たことのないものばかりだったが、自分の家で食べる物とどこか味が似ていた。



余りに突拍子もない出来事が立て続けにあったせいで感じなかったが、空腹だったのだと今更ながらに気付く。




「…どこか、怪我をされたり、痛む所はないんですか?」




尭が、ふわふわと薄桃色に膨らむ物を箸の様な棒でつまんだところで、翠の母親が心配そうに訪ねた。



一通り自己紹介は済んでおり、翠の母親の名前は碧(ひゃく)といった。




「それが-」



「ないんだって言ってました!」




尭が口を開きかけると、すぐ脇に居た翠が元気良く代わりに答えた。




「そうですか…それは良かった。何か、少しでも思い出せるようなことなどは、ありますか?」





今度は父親が訊ねる。




父親の名前は玖李(くい)と云う。





「あ、その-」




「尭っていう名前以外は思い出せないって言ってました!」





またもや代わりに答えた翠に、両親は同時に顔を顰めた。




「こら、翠に訊いているんじゃないだろう。」



「翠、少し大人しくしていなさい。」




それぞれに注意された翠は、すぐにしょんぼりと肩を落とし、「はい…」と返事をした。



そんな彼女を横目に、尭は考える素振りをしてみせる。




「翠の言う通りで…名前以外全く思い出せないんです。私を知っている方がこの村に居れば、もしかしたら何かわかるかもしれないのですが…」




卓毅や右京などもこの村に来ているなら、目立つだろうし、わかる筈だと思った。




「…そうですね。恐らく、この村に入れたということは、私たちと全く無関係という訳ではなさそうだ。もし、体調が良いようだったら、明日翠にこの村を案内させましょう。」




「ありが-」



「え、いいの!?やったぁ!!」




大体外見からすると10歳位の少女は、先ほどまで沈んでいた表情をどこかへふっとばし、無邪気に手を叩いて喜んだ。




「翠っ!」




案の定、碧から咎められていたが、もうその顔に憂いは見当たらなかった。



========================






「そろそろ、お部屋へご案内しましょうか。」





夕食が終わり、デザートなるものまで出してもらって、胃袋が満足を越えた頃、碧が言った。





「あ、片付け手伝います!」




尭が腰を上げようとするのを、碧がやんわりと手で制す。




「ここは大丈夫ですから。」




「いや、それは駄目です。お世話になりっぱなしでは…」



そんなわけには行かない、と思うので、尭と碧は暫く押し問答を繰り返すことになったのだが。





「あのぅ…」




二人を見ながら、小さな女の子は何か言いにくそうに俯いて、指をいじりはじめる。



翠に気付かない二人はまだ押したり引いたりをしている。





「あのっ!!!」




突然聴こえた大きな声に尭と碧は驚いて、翠を見やった。


少し剥れた顔をして翠はじっと二人を見つめて、おずおずと口を開く。




「その…おねえさん…は、翠の部屋で寝てもらいたいんです…けど…」




段々と小さくなっていく声に、それまで黙って見ていた父親の玖李が呆れたように溜め息を吐いた。




「翠、いい加減にしなさい。尭さんも翠の所にいたんじゃ、疲れがとれないだろう?」




玖李の言葉に、翠は悲しげにまた俯いた。




「あ、私なら構いませんよ…むしろ」




その方が良い、と尭が言いかけた所で、




「やったー!!!決まりですねっ!!」





翠が飛び跳ねて喜んだ。





「こらっ」




碧が困ったように叱るも、意味を成さない。




「…却ってご迷惑をお掛けして申し訳ないです。何分、一人っ子なものですから―」




玖李が恐縮して謝るので、尭は慌てて首を振った。




「わかります。私も―」




途中ではっとする。尭にも兄妹はいなかったが、ここでは記憶がないことになっている。




「…今、一人ぼっちな気分で、とても寂しいので。」




気の良い夫婦は疑う様子もなく、同情するような面持ちで頷いた。





「早く、記憶が戻ると良いですね。」



=========================





翠の部屋は、食事をした所からさらに奥の方にあるらしい。





「離れのちょっと手前なんです。」




廊下を翠の後について歩いていくと、ちょうど向こうから人影が一つこっちに来るのが見える。




「あ、じじ様!」




翠がそう言うと、人影は一瞬立ち止まり、ゆっくりとまた近づいてきた。




「翠か。」




仄かに灯された光の下で、姿を現した人物は、70を過ぎた位の小柄な男だった。




目を細めて翠を見つめる様子が、玖李と似通う所があるように思える。




「じじ様、どうして食事にいらっしゃらなかったのですか?素敵なお客様がいらしたのに。」




翠が軽く口を尖らせて訊くと、老人は視線を尭に向けたので、尭は小さく会釈した。





「ちと、用があってなぁ、今からいくとこだったんさぁ。客人かぁ…」




「尭と言います。暫くご迷惑お掛けします」



老人はにこにこと頷き、




「何、狭い所でさぁ、大したことはできないが、好きに使われてくだせぇ。」




翠の頭にぽんぽんと手を置く。




「じゃあ、ちょいと碧さんに食べ物をもらってくるでのぉ」




「はい!!今日はじじさまの好きな蜜草の煮浸しがありましたよ!」




「おぉ、それは楽しみじゃぁ―」




そう言うと、老人は相変わらず笑顔のまま、通り過ぎていった。




「翠の家族は知らない者を珍しがらないの?」





後ろ姿を見送りながら、尭はずっと疑問に感じていることを口にした。



翠もそうだが、翠の両親も、今のじじ様も、尭に対し、余りに無防備に見える。





―もしも、私が危険な犯罪者とかで、悪さをしようとしていたらどうするんだろう。




幾ら仮定の話とはいえ、逆に心配になる。





「そりゃ、珍しいですけど…」




翠はそんな風なことを訊かれると思ってもみなかったというように首を傾げた。





「うちの家族がっていうよりも…この村全体がそうなんだと思います。この村に来る者は家族みたいなものですから。」





そう言った所で、翠が立ち止まる。





「ここです。」




翠の部屋は十分広く、和室のような所に低くて黒い机と、朱色の座椅子があった。



隅には化粧台だろうか、長い鏡がついており―布が被せてはあるが―黒地に朱の模様が入っている。





「この奥が寝室になってます。お姉さんが薬湯に入っている間、お休みになれるよう支度を整えておきますから。」





翠は先に入って、部屋の境のようになっている引き戸を開きながらこちらを振り向いた。




翠の向こうに見える部屋には、敷き布団を低い台の上に載せたようなものがあり、ベットと呼ぶべきか、それとも敷布団という方が正しいのか、尭にはわからなかった。




それでも、和の雰囲気の方が色濃くあることは言うまでもない。




もっと近くに行こうとして、机の傍を通り過ぎた時、ふとあるものが目に付いた。





「…押し花?」




机の上にいくつか置いてある栞に貼ってある押し花だ。



薄らとクリームのような色が着いているが、恐らく元の色は―




「かわいいでしょう?」




立ち止まって一点を注視している尭の傍に翠が寄ってきて言った。




「私の好きな花で、ユキバナって言うんですよ。」



翠は得意げに語る。




「ユキバナっていうのは、寒い朝に少しの時間だけ咲く花なんです。ここは寒かったり暑かったり、一定の気温にはならないので、すっごい寒い朝にうんと早起きしていかないと見れないんですけど。」




翠の説明を聞きながら、尭はあることに思い当たる。




「これ…」




「お姉さんも欲しいんですか?仕方ないですね…明日の朝、もしも寒くなったら一緒に見に連れて行ってあげますよ。そうとなったら今日はもう寝ましょう!ささ、薬湯に入って疲れを癒してください。あ、あと…」




翠は張り切ってテキパキと抱えていた荷物を解いた。




「これ、着替えです。お姉さんの格好、少し変わってますし、目立つので。どこか、外の世界に行かれてたんですかねぇ…」




翠に言われて初めて尭は自分の服装に気付く。




半そでのブラウスに薄手のカーディガン、クロップドパンツだった。




思い切り、ここのものではないと主張しているようだ。




これでよく不審者扱いされないものだと逆に呆れる。




余程、平和な土地なのだな、と。



=======================




「………さん………さん」





遠くで何かの声がする。



身体はふわふわと揺られているよう。





誰?




もう少しだけ…




あと少しだけ…このままでいさせて…





「お姉さんってばぁ!!!!!!」





「はっ」





急にボリュームを上げた声と、痛いくらい強く揺さぶられた身体に驚き、尭はぎょっとして目を開ける。




飛び起きて見ると、すぐ傍で翠が頬を膨らませてこちらを見ていた。




部屋の中はまだ薄暗い。





「……翠…、どうしたの?」





重く圧し掛かる瞼を擦りながら、翠に問いかけると、彼女は眉間に皺をぐっと寄せる。




「どうしたの?じゃないです!昨日言いましたよね?今朝はすごい寒いです。きっとユキバナが見れますよ!さ、起きてください!」




「えー…?」




翠の言葉とは反対に部屋の中はちょうど良い暖かさで、尭は不思議に思う。



しかし。




「さ、ほら!!花が枯れますよ!」





「わ、わかったわよぉ…」





翠に掛け布団をめくられ、尭は黙って言う通りにすることにした。




昨晩渡された作務衣のようなものに袖を通した尭に、翠は分厚い上着を手渡す。





「すーっごい寒いので、絶対これ!必要です!」





斯く言う翠も、頭まですっぽりと覆われるような衣を着ている。





やっと目が覚めてきた尭は、ぱちぱちと瞬きしてそんな翠を見つめた。





「そんなに?」




「ええ!絶対!」




「でも…ここは寒く感じないけど…」




翠はあぁ、という顔を一瞬したが、すぐに溜め息を吐いた。




「とにかく急いでください!ついてくればわかりますから!」



なんなんだ、と内心少しだけ不服に思いながらも、急かされるまま着替えを済ませ翠の後に付いて、部屋を出た。



瞬間。





「さ、さむっ!!!!!!」




余りの寒暖の差に、尭は身を縮こませる。






翠の家は日本家屋に近い造りで、廊下は庭に面している。



つまり、部屋から出れば、外というわけだ。




それにしたって、余りに寒かった。



部屋の中が春なら、廊下は真冬、しかも雪が降ってもおかしくない様な寒さだった。




その上、陽はまだ昇っていない。





「わかってくれましたか?」





翠もその白い肌を赤くさせながら、尭を見る。





「部屋の中は優柔不断な外気に左右されないよう、簡単な術がかけてあるんです。だから、いつでも快適な温度が保たれるんですよ。」




そう言って、翠はすたすたと門の方へと歩き出す。



その姿を追い掛ける前に、一度だけ空を仰ぎ、尭は思う。





ここに居る者達は、普通の人間に見えたけど、やっぱり普通じゃないんだわ、と。




二人して言葉を交わす事無く、門の外に出て、まだ寝静まっている村を歩く。




「は、花って、、、どこにあるの?」




寒さに震えながら、もういいだろうと尭が口を開いた。




虫の音もしないほど、辺りは静かで。





鳥のさえずりもまだない。




必然的にひそひそ声になる。





「お姉さんが、寝てたところです」




翠が答えたので、尭は驚愕する。




「えー!」



「しー!!」




翠に口をふさがれ、尭はもごもごと謝った。




「ご、ごめん…ちょっと驚いて…」




遠い。




この寒さの中、あの距離を歩くのかと思うと、尭はげんなりした。




「ねぇ、、一個、訊いてもいい?」




昨晩とは違い、尭も翠も横に並んで歩く。



息を吐くと白くなる現象に、こうも気温の差が激しいなんて砂漠みたいだ、と尭は思っていた。




「え、なんですか、改まって。いいですよ」




頬を緩ませて、にこにこと翠は尭を見た。





「あの、さ。その、、、これから見にいく、ユキバナ、なんだけど。」





尭は唇を舐めてから再度口を開く。





「どうして、そんなに好きなの?」




栞に貼り付けてあった花は、恐らく、元は白。



尭の見覚えのある花に、よく似ている気がしていた。




「えぇ?だって、キレイでしょう?」




翠は少し驚いたように笑って、尭に同意を求める。




栞に貼ってあった小ぶりなその花は、特徴という特徴は何もなかった。



むしろ自己を主張しない、控えめな花だった。



それを思い出してか、翠は、




「あぁ、そういえば、咲いている所を見たことがないんでしたね。」




と手を打つ。




「あれの咲いている所は、きらきらと輝いて、それはそれはキレイなんですよ。」




「…でも、その花のこと、翠はどうして知ったの?」




翠はまだ小さな子供だ。



他の家の者が寝ているこの時間帯に、一人で歩いていることなどあるのだろうか。





「あー…」




尭が真っ直ぐに翠を見つめると、彼女の視線が泳いだ。





「大人ってなんでこんなに色々わかっちゃうんですかねぇ…」




やがて、観念したかのように呟いて、べっと舌を出す。




尭は決して自分が大人だとは思っていなかったが、このくらいの子からすれば、なるほど自分は大人なんだな、と内心苦笑した。




「あの花がね…間違えて昼間に顔を出しちゃったことが、あったんです。」




少し、照れくさそうに目を伏せると、翠は尭より少し先を歩く。




「勿論、私はその場にちょうど居たわけじゃなくて―、たまたまそこに居た友達が、それを私の髪に挿してくれたんですよ。」




その時を思い出しているのだろうか、恐らく無意識に翠は自分の髪を撫でた。





「似合うって言って。初めて見た花だったし、すごくきれいだったから、その後も探したんですけど…見つからなくて…調べたら、本当は寒い朝方にしか、咲かない花だって知ったんです。」





少し嬉しそうで、でもその中に切なさを含む表情は、尭にはピンとくる物があった。





「その、、友達って、男の子でしょう?」




微笑ましく思って訊ねると、少し先を歩いていた翠が急に立ち止まる。





「お姉さんってすごいですね。なんでも分かっちゃうんですね。ついでに教えておきますけど、ここの家の子ですよ」




彼女が小さく指差した先には、昨晩の桁違いの豪邸があった。





「でも、今、喧嘩中なんです。」




くるりと向きを変えて歩き出しつつ、翠が呟く。




「え?」




豪邸に奪われていた意識を慌てて取り戻しながら、少し急ぎ足で翠の隣に追いついた。






「その子、才能があるんですよ。次期、温度師ですから。」





「温度師?次の?」




尭の頭がまた混乱してくる。



あれ、温度師って今いるんだっけ。



王の任命とかなんとかって言ってた気がする。



自分は一体なんの世界にいるのだろう。




「私は、女だから…温度師のことって正直よくわからないんです。それで…色々訊ねたら怒らせちゃって。」





難しい顔をしている尭に気付かず、翠は喧嘩の原因を話し始める。





「それから、避けられているみたいなんですよねぇ…」



そんな風にしながら歩いていると不思議なもので、昨日感じたよりも早くに目的地に辿り着く。



少し手前で、翠が「ほら」と言って走り出したので、尭もそれに倣った。




「わぁ…すご…」




まだ薄暗い中で月の光だけを浴びて、白い、いや銀色にさえ見える花がびっしりと池の周りを囲んでいた。




きら、きら、と。



輝きを含んだ花畑。



その美しさに、思わず足取りもゆっくりになり、恐る恐る花の傍へと近寄る。





「…触っても、、平気かな…」




もしかして、たちどころにしぼんでしまうのではないかと懸念して、尭が翠に訊ねるが。




プチっという音と共に、翠が頷いてこちらを見たので、尭も頷いて花に触れた。




花の光の反射で、二人とも顔が青白く照らされる。




一輪一輪の光の強さは、ちょうど蛍くらいか。



けれど、これだけの量が密集して咲いているので、かなり明るい。




「冷たい…」




花弁の感触は頼りないが、触るとひんやりとした。



「ね、きれいでしょ?」




同意を求めるように翠が隣に寄ってきて、二人でその場に座り込む。




「うん、とってもキレイだね。」




尭はそう言いながら、目の前に広がる花が、果たして自分の記憶の中にある、公園の小山にあった花だったかどうか思い出そうとしていた。




尭が見つけた時間帯は昼頃だったからか、こんなに輝きを放ってはいなかったような気がする。




それに、この花は薄暗くて寒い月明かりの下でしか咲かないんだとすれば。




―やっぱり、違うかしらね。




そんな風に思いながら、尭は翠の真似をして命の短い花を手折った。




すると、急に卓毅のことが強く思い出され、尭は切なくなる。





「翠はさ、その―さっき言ってた子のこと、好きなの?」





気付けば、言葉が口を衝いて出ていた。




尭が卓毅のことを意識し出したのも、ちょうど翠と同じくらいの年齢だった。




「…うん。」




目の前の美しい光景が、翠の心を素直にさせるのか、あっさりと隣の少女は頷く。




そんな彼女がかわいく思えて、尭はお節介を焼きたくなった。




「…いつ、好きって伝えるの?」




「えぇ??」




さすがに立ち入った質問で、翠は驚いて尭を見つめる。





「そ、そんな、まだ…そんな…」




しどろもどろになりながら、翠は頬を赤く染める。




そして、すぐに抱えた膝に、顎を乗せ、項垂れた。





「て、いうか…、そんなの、、、きっと、ずっと無理だから…」





元気を失くした翠に、尭は首を傾げる。





「どうして?恥ずかしい?」




自分にも経験があるので、強くは言えない。




中々すんなりと言える言葉ではない事を、重々知っている。




それは想いが募れば募るほど、そうだ。



「んー…そうじゃなくて…」




言葉を濁す翠。



どうやって言えばいいか、考えあぐねているようだ。




「彼は、、才能があるから…温度師になる人だから…」




やがてぽつり、ぽつりと話し出す。





「どうして?それでもいいじゃない!彼も翠のことが好きかもしれないよ?」




「そうだったら、嬉しいけど…でも、どうせ、叶わない…」





どこか暗い表情の彼女に、尭は小さな胸騒ぎを覚えた。





「温度師って、、なったら村から出て行くらしいので…」




「え?」




「普通とは違って…ずっと、お別れなんです。二度と…帰ってこないんです。」





だから、いつ来るか分からない瞬間の為に、今のままで過ごしたいと翠は話した。




駄目になってしまったら気まずいし、上手くいったとしてもいつかは壊れてしまう。




どうすることもできない淡い恋心は、少女の心を蝕み続けているらしい。




尭には翠の気持ちが手に取るようによく理解できた。



けれど、今の自分はその選択を後悔し始めていた。




―私も。



こんなことになるんだったら、伝えておけばよかったな。卓毅に。




ぎくしゃく、とか、上手く行く行かないとか、そんなこと考えずに。




小さな頃からずっと一緒だった幼馴染みは、いつからか何を考えているかわからない男になった。




時折つまんなさそうに歩いている姿を見ると、苦しくなった。




頑張れば何でも持っているのに、適当にゆらゆらとしていた。




中でも泳ぐことは大好きだった筈なのに、高校でも部活に入らなかったし、スクールも辞めていた。




気になって気になって仕方なかった。




なのに。




突然の転入生が―右京が来てから、少しだけ、卓毅が変わった。





ほんの少しだけど。




楽しそうだった。



天真爛漫に振舞う右京に、尭はちょっとだけ、嫉妬した。



自分にはあんな風に周囲に接することはできない。



でも。



少し位、自分の気持ちに気付いてくれたっていいのに。





だけど。




都合よく生きていたのは、自分も同じなのかもしれない。





現に今、言えばよかったと思った。




もしも、この村に卓毅が居なかったらどうしよう。



元の世界に戻れなかったらどうしよう。




このままさよならだったらどうしよう。





人は、いつでも傍に居てくれるなんて限らない。





そんなことは、わかっているつもりだったのに。




当たり前のように、毎日が来ると思っていた自分が居た。




毎日は、いつもあるものだと思い込んでいた。




当たり前のことなんて、何一つなかったのに。



「ねぇ…、翠。」




お互い視線を交わすことなく、足元にある草や花をいじる。




「明日、世界が終わるとしたら、どうする?」




「…え?」




翠は顔を上げたのが気配でわかった。




「例えば、明日―私が突然居なくなる。そう知ったら、どうする?」




月明かりが、薄らいできた。



花の光も和らいでいく。




「私は、翠に、『ありがとう』って伝えるな。」




そろそろ、陽が昇ることを感じながら、尭は続けた。





「詞(ことば)って、だから、あるんだと思わない?」





「…どういうこと、ですか?」





秋のような風が、池の辺の草花を揺らしていく。







「さよならが、あるから、詞があるんだと、私は思うの。」




そこまで言うと、尭も顔を上げて、翠を見た。




「別れがあるから、詞があるんじゃないかなって。」





自分の口から零れた言葉は、尭自身へ言い聞かせているものでもあった。





「伝えておけば良かったって思う時が、絶対来ると思うの。だから、後悔しない為にも、私は翠にそれを教えておくね。」





もしも自分に妹が居たなら、やっぱりこういう風に恋の話をしたんだろうか、とどこかで思った。





「少し、難しいですけど…」




翠がおずおずと口を開く。




「お姉さんの言葉、覚えておきますね。」





「ん。」




少し照れ臭い気持ちになりながら、尭は小さく頷いた。





「っと、いけない。お姉さん、早く家に戻りますよ!朝ごはんの席に居なかったら、内緒で外に出たことがバレて怒られちゃう!」




「え!内緒って…!もしかして言ってないの?!」




突然の告白に、尭はぎょっとした。




「お姉さん!走って!」




「ええぇぇぇぇぇーー!!」




やだぁーもう。と言いながら、尭は自分がこの状況を案外楽しめていることに気付く。




上着はもう要らない位、陽射しが暖かく降り注ぎ始めていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る