呪われた力




闇だ。



真っ暗だ。



何もない。



何も見えない。




なのに、何かに追われている様な気配がする。




どこへ逃げればいい?



どの方角から追ってきている?



そもそも自分は何処に居るんだろう?




荒い、息遣いだけが聴こえる。




これは自分から発せられているのか?






それとも―




「はっはっはっ」




急に、視界が開けた。




過呼吸になりそうなほど、息が乱れて、上手く空気を吐くことができない。




全身を汗がびっしょりと覆っている。





先程は青い空だった筈だが、今は薄暗い天井が自分に迫ってきている。





どこだ。




「っつぅ…」




慌てて起き上がろうとして、激痛に声が上がる。





そうだ。




僕は怪我をしていたんだった。




どうしてかは、わからないけど。



「おやおや、お目覚めになられましたか。」



皺嗄れた声と共に、障子を引いたような音と、人の気配がした。



痛みに顔を歪ませていると、視界に老婆が入ってきた。




「まぁ、、少しは顔色が良くなったみたいですねぇ。だけどまだ身体は動かさない方がよろしいかと。ひどい傷を負っていらしたから…」




同情するように、顔を歪ませる。




「あ…の、、ここ、は…?」





自分でも驚くほど、ひどく小さな掠れた声だったにも関わらず、老婆はきちんと聞き取ったらしい。





「ここは、沙羅(しゃら)様の邸宅でございます。蓮貴様が貴方様をお運びになられたようですよ。」




「れん…き…?」




頭の隅にひっかかるような、名前だった。




「蓮貴様は術をお使いになられたので、まだ帰られてはおりませんが…」




老婆がそこまで言った所で、何やら遠くで物音が聴こえる。




察するにかなり広い建物にも関わらず、僅かな音もわかるほどに、辺りはひっそりと静まり返っていた。





「あら、ちょうどお帰りになられたみたい…ちょっと失礼致します。」




彼女はそう呟くと、いそいそと立ち上がって出迎えにいったようだ。



老婆の足音はパタパタとしていて、見た目と反し、軽やかだった。



遠退いていくその音、それ以外は確かに聴こえなかった。




それなのに、僕が瞬きを一度して開いた時には、男が覗き込んでいるのが視界に映っていた。




「ひっ!!!」




余りの恐怖に思わず息を呑む。



すると、男は不愉快そうに眉を寄せ、





「俺は、化け物か。」





と忌々しげに呟いた。





「あ…君は…」





よく見ると、気を失う前に脇で本を読んでいた青年ではないか。





「身体の痛みは、どうだ。治癒院の薬師に診てもらったそうだから、もう暫くすれば治まるだろう。」





不愉快そうな顔とは裏腹に、青年は親切な言葉をかけてくれる。




この青年、もしかして、、もしかしなくても、、、僕を助けてくれたのかな。




「ありがとう…」




感謝の気持ちを伝えると、仏頂面だった蓮貴の顔が一瞬だけ穏やかになった、気がした。




「礼は、要らない。ただの暇潰しだ。どうせこの屋敷には無駄な部屋が幾つもある。怪我が治るまで留まるが良い。」




そう言い捨て、青年はくるりと背を向けた。





「待って…君の、、名前、は?」





慌てて呼び止めると、青年は僕をちらりと見やってから、すぐに目を背け、





「蓮貴だ。」





とだけ言って、僕の視界から消えた。




蓮貴。




僕の中で、老婆の話と繋がる。




急な睡魔に襲われながら、ふと思う。




漆黒の髪と目が、印象的な青年だ、と。








次に目を覚ましたのは、真夜中のようだった。




薄暗かった室内は最早真っ暗で、ほぼ何も見えない。



微かな月明かりのようなものが、障子を伝って入るだけが頼りだ。





身体が大分軽い。



試しに指に力を籠めてみる。



ぴくっとぎこちないながらも、動いたのが分かる。




久々の感覚過ぎて、自分の身体だと認識するまでに時間を要した。




次に腕、足、首、背中と順番に恐る恐る力を入れていくと、思ったよりすんなりと起き上がることができた。






時折鈍い痛みは走るものの、歩くには造作ない位だ。



床に足をついてみようと試みた。





「うわっとと…」




寝かされていた場所は床よりもやや高い位置だったらしく、予想に反した足が反動でよろめく。





「ふー…」




なんとか踏みとどまり、転ぶのを避け、安堵の溜め息を吐いてから、障子に手を掛けた。



ソロソロソロ、と小さな音を立てながら、障子を開けると、廊下を挟んだ奥に中庭がそこにあった。



月光に照らされたそれは、入念に手入れされているらしく、美しかった。




片足をやや引き摺る形で、部屋の外に出ると、すこし肌寒い。



廊下の続く先を目で辿ってみるが、平屋がどこまでも果てしなく続いているように見える。



想像通り、大きな屋敷のようだ。




こんな夜更けに歩き回るのは、常識が無い。




ゆっくりとした動作で縁側に座り込み、暫く庭を眺めることにした。




そして、考える。




一体、自分は誰だったか、と。




いつまでもここに厄介になることはできない。




早々に帰らなければならない。




「何を、している?」





静けさを裂いて響く声に、驚いて肩を震わせ、いつの間にか俯いていた顔を上げた。





「蓮貴…さん」




闇に紛れるような漆黒の髪の青年がすぐ傍の柱に寄りかかって、こちらを見ている。




「そこまで動けるようになるとは、大分回復したようだな。」




「すごいんですね。薬師って…一日でこんなに良くなるなんて…」




感心しながら言うと、蓮貴がふん、と鼻で嗤(わら)った。





「一日でそんな直ぐに良くなるわけないだろう。あれからお前は三日間眠ったままだった。」






「え?!」





驚きの余り、夜分なのも忘れて声を上げ、慌てて掌で蓋をする。




僕は、そんなに眠りっぱなしだったのか。





「途中もう目覚めないのではと心配していたが、大丈夫だったようだな。」




言いながら、蓮貴は僕の横に並んで腰を下ろした。


「すみません…ご迷惑お掛けしました。」




申し訳ない気持ちでいっぱいな僕は、横に居る蓮貴に頭を下げた。




「顔を上げろ。最初に言ったろう。礼は要らん、暇つぶしだ、と。」




なのに、蓮貴は不服そうに横目で僕を見る。





「でも…」




「五月蝿い男だな。それより自分がどこの誰だか思い出したのか?」





痛いところを衝かれて僕は言葉を失った。




「その様子じゃ、まだ、みたいだな。」




呆れたように、蓮貴は溜め息を吐いた。




「すみません…」




僕は項垂れる。




「で、あのぅ…」




「五月蝿い、今度は何だ?」




やや面倒くさそうに蓮貴が先を促す。




「…暇潰し…って…?」




てっきり一蹴されるかと思ったが、意外なことに蓮貴は嫌な顔をしなかった。

 


だが。



「俺は、やることがないのだ。」




とってもシンプルに、蓮貴は答えた。




「え?」




僕にはその意味がわからない。





「この村の若者たちは皆働かなければならない。だが、俺は免除されている。だからやることがない。暇なのだ。」




端的にまとめてくれているようだが、わかりそうでわからない。



でも、免除されてるってことは…



「何か、病気でも…?」




そう訊ねると、蓮貴はふっと笑った。




「そうだな。ある意味で、病だ。それも不治の、な。」




蓮貴の目は真っ直ぐに庭を見つめているようだが、その瞳に映るものは庭ではなさそうだ、と思った。




「だから、お前が気にすることは無い。それにこの村に入ることができるのは、この村の血を受け継ぐ者のみ。つまりは恐らくお前は遠い身内だろう。記憶を取り戻せなくとも、案ずることは無い。」




気を取り直すように、蓮貴が呟いた。



「…でも、思い出せなかったら、嫌だな…」




頭の中に蜘蛛の巣のように張りめぐらされている靄が薄気味悪い。





「記憶など、無くても生きていける。」





僕を見る事無く、蓮貴が呟いた。




「…そんなもんでしょうか。」




本当に大したことなさそうに言うものだから、僕はなんだか気が楽になった気がした。




だが、青白い光に照らされた蓮貴の表情は暗い。





「下手に記憶なんかがあるから、色々と面倒なのだ。」





「…?それって、どんな―」




聞き掛けた所で、蓮貴がぱっと僕を見て、立ち上がる。





「さ、身体を冷やすと良くないぞ。もう、寝ろ。朝になったら、食事を出すよう伝えておくから。」





「あ、はい。…おやすみなさい。」




音も無く、廊下を歩いていく蓮貴の背中を見つめながら、今のは訊かれたくないことだったのかな、と、ひとり反省した。




==============================




「ん…」




眩しさに目を覚ます。



真夜中と打って変わって、部屋の中は明るい陽射しに満たされていた。





「あぁ良かった。蓮貴様の仰っていた通り目が覚めたのですね。今朝からとろを煮込んであります。空腹でしょう?運んでまいりましょう」




いつかの老婆がにこにこと覗き込んだと思ったら、直ぐにパタパタと部屋から出て行く。




同時に、腹の虫が鳴り、慌てて手をやった。




確かに、僕はものすごくお腹が空いているらしい。






けれど。





「とろって…なんだ?」





得体の知れない食べ物の名前に、少し構える。




もし、食べれなかったらどうしよう。




失礼のないように、ギリギリ食べれるものでありますように。



運ばれてきたものは、温かいとろみのある汁のようなもので、粥に煮ていた。





「お代わりは沢山用意しておりますゆえ、ご遠慮なさらずに仰ってください。」




食べさせてくれるという老婆の親切をやんわりと断り、僕は盆に載せられたブツを観察する。






なるほど。




とろとろするから、とろ、なのか。




美味そうな匂いが、食欲をそそる。




食べれそう。



深い安堵感を覚えながら、蓮華のようなものを手に持つ。





「いただきます。」





少し冷ましながら、口に入れると、すぅっと溶けて弱った身体に染み込んでいくような気がした。





「美味しい…」





自然と、言葉が出てくる。






「そりゃ、ようござんした。」





嬉しそうに老婆が頷いた。




「でも、本当に良かったですねぇ。蓮貴様に見つけていただいて、正解でしたよ。」





僕の食事の世話をしてくれつつ、老婆が言う。




「…どういうことですか?」




もう三回目になるお代わりを待ちながら、訊ねる僕の手に老婆が椀を渡した。





「蓮貴様にお聞きになられていないのですか?」





意外なことを聞いたとでも言うように、彼女は軽く目を見開く。





僕が首を傾げると、老婆は自分の口に手をやる。





「あら、じゃあ言わないほうが良かったかしら…」





「いや、そこまで言われると気になるので教えていただけませんか?」





「そうですよねぇ」




老婆は自分の中で葛藤があったようだが、暫くして口を開く。





「実は貴方様の傷の治療は、治癒院の薬師では限界があったんです。」



「え、でも―」



じゃ、僕は死ぬ可能性の方が生きるより高かったって事か?





「薬師は、痛みを取り除くことで精一杯のようでした。なので、蓮貴様が術をお使いになられて―」




「ちょ、ちょっと待ってください。術って何のことですか?」





遮った僕の言葉に、老婆は先程よりも驚く。





「なんと、術を知らないのでいらっしゃいますか?記憶をなくしていらっしゃるから、なのですかね…こんな大事なことを。」





何やらぶつぶつと言っている。




「では、ここが次期温度師の家と言っても、おわかりになられないのでしょうか。」





やがて返された質問に、僕は頷いた。




いつもにこにこしている老婆だったが、この時ばかりは呆れたような表情を少しだけ覗かせた。






「まぁ、良いです。そのことは、追々分かるでしょう。兎に角、簡単に言ってしまえば、蓮貴様がご自分の力で貴方様の命を救った、ということでございます。」





========================




「蓮貴さん!」




食事を終えて少し風に当たろうかと部屋を出ると、ちょうど中庭に佇んでいる蓮貴を見つけ、声を掛けた。




新緑を愛でるように、撫でていた蓮貴は、はたと手を止め、こちらを振り向く。





「…蓮貴で良い。随分と顔色が良くなった。」




ふ、と笑んだようにも見える柔らかい表情に、僕は続けて御礼を言うことにした。





「はい!あの…蓮貴…のお陰で命が助かったのだと、、聞きました。本当にありがとうございました!」





深々と頭を下げると、蓮貴が呆れたように息を吐いた音がする。






「玄(げん)か。あの婆さんのおしゃべりにも困ったもんだ。言わなくていいことを…顔を上げろ。」






しまった。




言ってはまずかったのかと、恐る恐る顔を上げる。





「お前は気にしなくて良い。」





予想していたような、怒った顔ではなく、どちらかといえば呆れたような、諦めたような、そんな顔だったので、僕は安堵した。





「…ところで、お前のことは何と呼ぼうな?」




「…へ…」




突拍子もないことを訊かれ、間抜けな声がでた。




「へ、ではない。いつまでもお前と呼んでいる訳にはいかんだろう。」




「あ、そうですね…」




確かに。



蓮貴の言う通りだ。



だけど、僕には名前が思い出せない。




どうしろというのだろう。





暫く沈黙が流れる。




そよそよと流れる風と、暖かな陽射しは、時の流れを縫いとめているかのように思えた。






「…星(せい)と呼ぼうか。星のように、降ってきたから。」





やがて、蓮貴がゆっくりと呟いた。



「ええ!僕、降って来たんですか?」




初耳の事実に、僕は驚きの声を上げた。




「そうだ。俺があの池のほとりで本を読んでいたら、昼間なのに一際明るい光が見えたと思って眩しさに目を閉じ、開けたらお前が倒れこんでいた。」





なんてことはないように、淡々とした口調で蓮貴が説明する。




僕が自分が一体何者なのか、皆目検討がつかない。




「ところで星。歩けるんだったら、散歩に行かないか?」





言葉を失っている僕のことなんて、少しも気にしていない様子で、蓮貴は言った。





「星も暇だろう?」





そう付け加えると、返事を待たずに蓮貴は僕に背を向けてスタスタと歩き出してしまう。





「ちょ、ちょっと待ってください…」




慌てて僕は彼の後を追った。



蓮貴の家の廊下はどこまで続くのかと思うほど長く、途中部屋は数え切れないほどあった。



中庭も、僕の部屋の前だけではなく、所々に幾つかあって、一際広く思える庭には池もあった。




ただ、全体的に人気はなく、ひっそりとしている。




その癖、手入れは丹念にされているため、塵ひとつ落ちてはいない。




玄と呼ばれた老婆を初め、この家に仕えている者が多い証拠だろう。




なのに、気配を殺しているかのように思える程、静かだった。




この相反する空気が、どことなく僕を落ち着かなくさせた。




足音を立てない蓮貴の歩き方も、僕のそんな気持ちに拍車をかける。




僕一人の足音と、風の音しか、この邸宅には物音の存在がないようだった。






「…静か、ですね。」






たまらず、僕が蓮貴の後ろ姿に声を掛けると、蓮貴は振り向く事無く答える。






「いつものことだ。」




会話が続く期待を粉砕する、素っ気ない返答に僕はこっそりと落ち込む。




そのまま無言で進んでいくと、大きい部屋がひとつ、障子が開け放された状態で広がっていた。



無数の書物と、大きな机と細かい筆がいくつか使いかけたままにしてあったが、それを気にさせない桁違いな広さだった。




脇を通り過ぎる際、必然的に足が止まると、蓮貴も立ち止まって僕を振り返った。





「珍しいか?」




「あ、いえ…」




なんとなく、人の部屋を覗くというのは罰が悪いように思えて、恐縮してしまう。




「俺の部屋だ。」





慌てて目を逸らした僕に、蓮貴は咎める様子もなく教えてくれる。





「帰ったら家を案内しよう。」




蓮貴はそう言って、また歩を進めた。




慌てて僕はその後を追う。




部屋の隅に置かれていた一輪挿しに挿された白い花が、何故か無性に気になったが、やがて見えてきた門の外に出た頃には、すっかり忘れてしまっていた。


のんびりとした、世界だった。



蓮貴のゆったりとした歩調に倣い、僕も隣に並ぶ。





「つまらない、所だろう?」




「―え?」




息と共に落ちた呟きは独り言のようで、一瞬反応が遅れた。



うららかな陽射しと、田んぼ道。



時々、働いている者を見かける。




蓮貴が通りがかるのを見かけると、誰もがお辞儀をした。




蓮貴はそれを受けて、軽く頷く。





「…静かな、良い所だと思います。」





僕がそう言うと、蓮貴は馬鹿にしたように笑った。





「それを、『つまらん』と言うのだ。」




蓮貴がつまらないという度に、自分のことやこの場所のことを蔑んでいるように聴こえて、僕には正直居たたまれなかった。




なんて、言葉をかけてあげればいいか、わからなかったからだ。



「あ、蓮貴ー!」




あてもなく歩いているように思えて、どこか目的地はあるのかどうか、ないなら、倒れていた場所へ連れて行ってもらいたいとお願いしてみようと決意した所で、前方から声が掛かった。



この村では初めて聞く、底抜けに明るい声だった。



それに付け加え、蓮貴にこれほど親しげに近づく者も初めてだった。





「ちっ…」




なのに、当人はあろうことか舌打ちし、くるりと向きを変えると、来た道を戻りだした。





「え…あ…え?」




女の子は、嬉しそうに振っていた手を、ぴたりと止めると、力なく下ろす。




「ちょっと、、蓮貴?…」





僕はその場に立ち止まったまま、行ってしまう蓮貴と、その姿を切なげに見つめる女の子を交互に見ながら、戸惑いの声を上げた。


女の子は暫く蓮貴を見つめていたが、ふと気付いたように僕を見る。




「あ、れ?あなた…誰?」




当然の疑問だ。



「あ、えっと…」




「星!!!」




どう答えようか思案していると、蓮貴が僕を呼ぶ。




「っと、、ごめん、いかなきゃ…」




僕は慌てて女の子に会釈だけして、身を翻して蓮貴の後を走って追いかけた。





「…はぁっ、はぁっ、、、ちょっと…待って…っ、へぇっ」




思いの外、蓮貴が速い。



そして、僕は本調子じゃないために体力が続かず、すぐに息切れして、蓮貴を見失わないでいるのが精一杯だった。




声を掛けているにも関わらず、届いていないのか、無視しているのか、蓮貴は立ち止まってくれない。




その内、追い討ちをかけるかのように、蓮貴は小さい山に入り、道は必然的に上り坂となる。





藪を掻き分け、踏み均されただけの獣道を行く。




当然、蓮貴の足取りも遅くなり、僕はやっと追いつく。


けれど話せる元気などもう残っておらず、早く一息つける場所に着かないものかと思う。



僕の荒い息と、がさがさと草にひっかかる音、虫や鳥の声がする。



多分に漏れず、蓮貴が息を切らしていない。




やがて、開けた小高い場所に出ると、蓮貴の足が止まる。



時間で換算してみれば、大した山ではない。



小山、と言い表すのが正しいくらいの山だ。




だけど、僕にはちょっとまだキツかった。





「裏山だ。その名自体は別にあるんだが。」





淀みない声で蓮貴が僕に言った。



黒髪が、気持ち良く吹いた風に揺らされた。





僕は呼吸が落ち着かないので、頷くだけで返すと、蓮貴はにやりと笑う。





が、何も言う事無く、少し先の崖になっている辺りに腰を下ろした。





僕もそれに続いて、蓮貴の隣に座る。




小高いその場所からは、小さな村が、そしてその向こうまで良く見えた。




やっと息を深く吐けるようになった頃、僕は口を開いた。




「さっきの、女の子…良かったんですか?」




栗色の髪の、かわいらしい子だった。



蓮貴はじろっと僕を横目で睨む。



あれ。聞いちゃ駄目だったのかな。




「だって、蓮貴のこと、呼んでましたよ?がっかりしてましたし…」





僕の言い訳に、蓮貴はふんと鼻を鳴らした。




「あいつが女の子って年かよ。いいんだよ。幼馴染みだ。」




片手を振って、面倒臭そうに言うもんだから、あの子に同情してしまう。




親しい間柄でも、あの態度はかわいそうだ。





「でも…無視、したらかわいそうじゃないですか…何か言いたげでしたよ。」




「どうせ、いつまでも一緒には居られない。居なくなるなら馴れ合いは無いに越したことはない。どちらにとってもな。」





憂いを含んだ言葉に、僕は思わず蓮貴を凝視する。




「どこかに、いかれるんですか?」




僕の質問に、蓮貴があれ、という顔をした。




「そういえば…星はこの村がどんな村なのか、知らないのだな?」





「どんなって…?」





僕は瞬きをする。



どういうことだろう?




「ここは温度師の一族が住む村だ。」




蓮貴の言葉に、老婆が言っていたことを思い出す。




「あぁ、確か…玄、さんが、、術とか、次期温度師の家とかって言ってましたけど…」




蓮貴が頷く。



「皆少なからず、力を持っている。大体は役に立たん。とりわけ女はな。」




言いながら、蓮貴は近くに落ちていた木切れで地面に何か書き始める。




「だが、一際力を持つ者がある一定の期間で母親の胎に宿る。それが温度師として、選ばれる。」




つまり。




「今度は蓮貴が選ばれたってことですか?」





蓮貴はそうだ、とまた頷いた。





「すみません…僕、わからないんですけど…温度師って、、一体何なんですか?」




てっきり玄にされたように、呆れ顔をされるのかと思ったが、蓮貴は地面に顔を向けたまま、




「温度師には、空間から空間に移動し、様々な場所の秩序を保つ勤めがある。」




淡々と答えた。




「じゃあ…蓮貴は凄いんですね。偉い人なんですね。」




とにかくすごい力を持っているのだということはなんとなくわかった僕は、思わず呟いた。




「一体、どんな力なんですか?術ってどんな…」




再度質問しかけた所で、蓮貴の手から枝が落ちた。




カラリと乾いた音がした。





「……欲しくて、手に入れたものじゃないんだ。」




遮るようにして、落とされた言葉は、少し物悲しく聞こえて、僕は立ち上がった蓮貴をはっとして見た。





「蓮貴?」





無言になった蓮貴が地面に書かれた線に向けて、手の平を翳すと、線が吸い付くように伸び上がる。




それを掴むようにして取り上げ、ゆっくり崖の向こうに放すような仕草をした。




その途端、だった。




今まで、ぽかぽかと晴れていた空は一変して濃紺に染まり、冷えた空気がたち込める。




バラバラバラと固いものが落ちるような音と、自分の肩に何かがぶつかった小さな痛みに首を傾げて見ると。




白い塊が降って来ていた。





「雹…」





唖然として、呟く僕を尻目に、蓮貴はさらに手を引っ繰り返した。




と。



一瞬にして雹が消える。




先程までの天気の変化が嘘だったかのように、春らしい天気に逆戻りしていた。




けれど、雹は確かに原型を留めたままで、僕の周囲に散乱していた。




そのうちの一粒を取り上げると、あっという間に溶けた。




僕は驚きの余り、暫く声を失う。




目の前の、青年の力が、空間を制御するということの意味を悟ったからだ。




「…凄い…」




やっとのことで、それだけ言うと、座り込んだままの僕を蓮貴が見下ろした。



が。



彼は達成感や、優越感など微塵もない表情をしている。




「どうしたんですか?普通それだけの力があったら、見せびらかしたくなりませんか?」




僕は自分の中の興奮を抑えることなど出来ずに、蓮貴に同意を求めた。




しかし、返って来た答えは、僕と彼の間には温度差があるということを示していた。




「普通って…なんだ?」




悲しげに吐かれた言葉に、僕は首を傾げる。




「普通じゃないんだ、俺は。」




余りに忌々しげに言うので、僕は二の句が次げない。




「こんな力、要らない…普通の者で良かったんだ…。誇り高き力じゃない…」




言いながら自分の右手を左手で掴む。



爪がくいこんでいるのではと思うほど、強く。




「呪われた、力だ…」




青年の抱える大きな痛みが、何故か僕には、手に取るようによくわかる気がした。





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