温度師の物語


「蓮貴(れんき)!」



少女の声が聞こえて、池の水面(みなも)を見つめていた少年は、はっと辺りを見回した。



「まーた!こんな所に居て!叔母様に怒られるわよ。いつも居場所を聞かれる私の身にもなってよ!」



プンプンと怒りを顕にする栗色の髪の少女を、少年は楽しそうに見つめた。




「そんなに怒ると鬼になるぞ」



そう言って立ち上がった少年の髪は漆黒で、瞳の色もそれと同じだった。



これほど整った美しい者はこの田舎には珍しく、村中の誰もが彼を見て思わずうっとりと溜め息を吐かずにはいられない。




「全然懲りてないのね!叔母様が稽古の時間にまた抜け出したって困っていたわよ」




少女は腰に手を当てて、頬を膨らませた。



「悪かった。機嫌を直せよ。」



蓮貴はそう言うと、腰を上げて少女に白い花をひとつ、差し出す。



「翠(すい)によく似合うと思ったんだ」



優雅な仕草で、少女の髪に挿す。



「あ…ありがと」



翠と呼ばれた少女は顔を真っ赤にさせて俯いた。



「んー、じゃ、いくかー」



蓮貴は伸びをひとつして、母の待つ稽古場へと向かった。



その後ろを、翠がトコトコと付いて行く。



誰も居ない静かな畦道を、二人の小さな影がゆっくりと初々しい距離を保って、動く。



穏やかな、昼下がり。



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「…貴方は随分と能力を高く持って生まれたのね」



息切れする母を前に、蓮貴は汗ひとつ流さず、呼吸ひとつ乱さず、穏やかな笑みを湛える。



「そうでしょうか。それならば、光栄です」



一礼して、稽古場を後にする。



実際なら3時間続く筈だった稽古を10分で終了させた。



母に背を向けた瞬間に、貼り付けた笑みを解き、冷め切った感情で思う。



教える立場の母に、能力がないのだから仕方ない、と。



「…つまらないな」



ぼそっと口から零れた言葉が、ついつい本音になる。



力なんて、なくなってしまえばいいのに。



そうしたら、自分は何処へ行くだろう。



これさえなければ。



何処へでも、行けるのに。 


「蓮貴ー!おやつ、持ってきた!」



中庭をぼんやりと歩いていると、翠がこちらに走ってくるのが見えた。



蓮貴の顔が自然と綻ぶ。



「翠。そんなに甘いものばかり食ってると、デブになるぞ」



「ひどーい!蓮貴が稽古終わったら欲しくなるだろうと思って作ってきてあげたのに。っていうかもう終わったの?早いね?」



そう言って、翠は静かになった稽古場に、ちらと目をやる。



未だに体力が消耗して立ち上がれない母の姿が、蓮貴の脳裏に浮かぶ。



「…母の体調が悪かったらしくてな、稽古は無しになった。天気も良いし、裏山に行って食べないか?」



蓮貴は敢(あ)えて、外へ行こうと促した。


母を慮(おもんばか)ったわけではない。


自分の能力が彼女に伝わるのが怖かったからだ。



裏山は小さいが、意外と高く、景色も抜群だった。


空間の世界も、ここだけは昼と夜がある。


但し、ここに居る者達は特殊で、血統はひとつ。


それ以外の者は立ち入ることの出来ない土地だった。



「夕焼けはさすがにまだだなぁ」



翠の作った丸い焼き菓子を口に放り込みながら、蓮貴が呟く。



「ねぇ、蓮貴、訊いてもいい?」



そんな蓮貴の横で、遠慮がちに翠が言葉を発する。



「…?何を?」



いつになく、小さくなる彼女に一抹の不安を感じながら、蓮貴は平静を装って訊ねた。



「…温度師の稽古って、何をしているの?」



一族でも、温度師のことについて詳しく知る者は少ない。



特に翠は女でもあったために、無関係に等しい。



温度師は、男から選ばれるからだ。




「うーん…まぁ、なんて言うか、色々だよ。」



蓮貴は言葉を濁す。



「色々って?」



追求を止めない翠に、蓮貴は顔をしかめる。



「言葉で表わすのは難しいんだよ。」



「…ふーん」



納得してなさそうな返事だったが、翠が黙ったのでほっと胸を撫で下ろす。



「…じゃぁ、やっちゃいけない決まりごとってどんなのがあるの?」



少しの沈黙の後に、翠はまたとんでもない質問を投げかけてきた。



「…それも…色々だよ。」



蓮貴は段々不機嫌になりながら、先程と同じような返答をする。



「それじゃ、わかんないわよ。例えば?」



翠はぐいぐいと訊ねてくる。



「翠は何が知りたいの?」



とうとう蓮貴は我慢できなくなって、少し声を荒げてしまった。


「何よぅ、怒らなくたっていいじゃない、けち。」



翠は口をとんがらせてそう言うと、どこかへ行ってしまった。


その後ろ姿を追いかけることができずに、蓮貴は黙って空が色づいてくるのを待った。



温度師の禁忌を初めて聞かされた時、一体自分は幾つだったのだろう。



きっと擦り込みのように、母の胎に宿った時から聞かされていたのではないだろうか。



物心つく頃には、それは絶対となった。




その中のひとつが―





「…誰をも、愛すべからず」




温度師となる者は、生涯独身を貫く。


他者の存在によって、穢(けが)れることの無い為だ。


それだけでなく、自分の心を動かされることがあってはならない。


それがやがては世界を揺るがすことに繋がる。


ぱり、ぱりと音を立てて、翠の作ったお菓子をかじり、蓮貴は考える。



今の温度師の名前はなんだったか、と。



死期が近づくと、温度師は後継者を指名する。



温度師の寿命は大体、千年前後だ。



そして、その頃になると、温度師に見合うだけの能力を持った子が、一族のどこかの母の胎に宿る。



それを感じ取ると、温度師は自分の命があと少しで終わることを知る。




自分の任務も、終盤だとわかる。




温度師として村を出る者は、二度と故郷には帰らない。




では、どうやって指名するのか?



空間を飛び回る温度師にはそんなことは造作ない。




星を降らせるのだ。




星を降らせて、その中で一際輝く星が、次の温度師の家に落ちて光を散らす。




一族の誰の目にも明らかな、後継者の指名の儀式。


そして、指名された者は、指名した者を父と呼ぶ。



血の繋がりはないが、能力の繋がりとしての親というわけだ。



だが、その名前を今、連貴は思い出すことが出来なかった。




―故郷に帰ったところで、知ってる顔はひとりもいないんだもんな。




蓮貴は赤く染まってきた雲をひとつ、指でなぞる。




温度師の一族は、温度師以外は普通の者だ。




寿命は百そこら。



温度師の名前は愚か、その人と形(なり)すら、誰も覚えてはいない。



だが、一族の誇りと栄光だけは、皮肉なことに衰えはしないのだ。



隔離されているかのようにして住んでいるこの場所さえも、代々我が一族にしか使用されない、特別な土地だと思い込んで疑わない。


蓮貴の母もそうだ。



自分達は選ばれし一族だと信じている。



ふぅ、と小さいが重い溜め息を吐くと、蓮貴は座り込んでいたところから立ち上がり、服を軽く叩いた。



所詮、抗うことのできない運命(さだめ)だ。



幼い頃から、それが間違いだなんて思いもしなかった。



おかしいとは思わなかった。



けれど、近頃心が揺れる。



この揺れを抑えられなければ、温度師の後を継ぐことができない。




「呪われた一族だ」




吐き捨てるようにそう呟いて、蓮貴は沈む夕陽に背を向ける。



蓮貴が先程なぞった雲が、縦方向に、まるで剣のように、地平線に刺さっていた。



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池の水面に、草舟が気ままに浮かぶ。



その様子を、ぼんやりと眺めていると、もう慣れ親しんだ声がする。



「蓮貴ー!本当にお気に入りの場所なのね、小さい頃から必ずここに居るんだから。」



腰に手を当てて呆れたようにこちらを見る翠は、近頃とても美しくなった。



蓮貴はそんな彼女を、眩しそうに見上げる。



が。



「…翠。。何の用?」



いつからか、蓮貴は翠に冷たく接するようになった。



「村の書庫を整理していたら、蓮貴が好きそうな書物が何冊かあったから、持ってきてあげたの!図鑑もあるみたいよ?」



そんな蓮貴に気づいていないわけはなかったが、翠は昔と変わらず、明るく蓮貴に構い続ける。



「…ふーん」



翠が手提げ袋を広げて見せているのを、蓮貴は興味なさそうに一瞥して、また視線を水面に戻した。




「えっと…じゃ、ここ、置いとくね?またね!」




手提げを蓮貴の傍にドサリと下ろし、翠は足早にその場を去った。



少しの間、水面を見つめ続けてから、小さくなった彼女の後ろ姿を探した。



それから、傍に置かれた袋に目をやる。




「…重いのに。馬鹿だな、アイツ。」




中に見える本の数の多さに、翠の健気な様子が伺えて、辛くなる。




蓮貴は、ここで毎日ぼんやりと水面を見つめ、心を無にすることが、日課になっている。



能力がある余り、自分にはやることがなくなってしまったから。



家でも、村でも、自分と同い年の者はせっせと働いているのに。



一族から特別扱いされている自分は、稽古以外は何もしなくていいことになっていた。



その稽古さえ、とうの昔になくなってしまった。



とりあえず袋の本を全部出してみる。



翠の言ったとおり、図鑑が多かった。




「?」



そして、ひとつ。



大分埃を被っている小さな本が、蓮貴の目に留まる。



軽く息を吹きかけると、濃紺の布が張ってあることがわかる。



その布の上に、インクのような赤い染みがあった。




「なんだ?」



何かの言葉のようで、蓮貴がごしごしと袖で表面の埃を拭うと文字が出てきた。




「持ち出し禁止?」




翠は本当に馬鹿だな。と思った。



書庫から出してはいけないものを、持ってきてしまったらしい。


ぺら、ぺらと分厚いその本を、興味本位で捲った。



「!」



そして一瞬で理解する。



これは、温度師の為の本であり、温度師に見られてはいけない本でもある、と。



載っている事柄は、あってはならないことであり、考えも及ばない事だった。



だが、しかし。



駄目だと思いながらも、読み耽ってしまう。




頭では、こんなことあるわけないだろうと馬鹿にしながらも、書かれている言葉は一字一句、記憶に刻み込まれていた。




本を持つ手が震えた。




結局陽が沈むまで、蓮貴は池のほとりに座して、一冊の本を読むのに没頭した。



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それから数週間経ったころ。




「本当に覚えていないのか?」




翠は書庫を管理する書士から問い質しを受けていた。



翠の住んでいる家は、決して大きいわけでも、一族の中で目立つものでもない。


その上古いが、大事に手入れされてきたのであろう。


佇まいはしっかりとしていた。



その中の一室、大きな机のある座敷に、父と母、そして翠が書士と向き合う形で話し合っていた。



「はい。お掃除を手伝った時にいただいた書物は全て図鑑だったと思います。他にそんな古い本があったかどうか…」



翠は怒られている子供のように、しょんぼりとしている。



「私達も、見かけていませんから。我が家にはないと思うのですが…」



翠の父も同意するように首を傾げた。


「うーん。そうか。しかし、困ったな。リストには載っていたからな。しかもかなり重要な本だそうで。もし、見かけたら私の家まで報せてくだされ。」



そわそわしながら、書士は立ち上がる。


翠の家を訪問した時からずっと、書士は落ち着かない様子だった。



「その本ってなくなったら大変なものなんですか?」



母親が、書士の上着を掛けてやりながら訊ねると、書士は大きく頷いた。



「…私や、奥さんや、娘さん、、ほとんどの人間には害もないし、関係もない。ただ、温度師の手に渡ると困ったことになる。そういう本らしいです。持ち出し禁止の温度師禁止。この村に伝わる呪われた本ですな。どこの誰が書いた本なのかも不明だし、何度焼き捨てようとしてもいつの間にか元の場所に戻ってきてしまうそうですよ。かくいう私も、実際に目を通したことがないのだが。」




ふーむ、考え込むように書士は顎を掴む。




「まぁ、ずっと忘れ去られていて。こないだの整理で私も気づいたようなものなので。では。」




書士は軽く会釈をして、座敷から出て行った。




「全く、いい迷惑だ」




書士を見送ると父親が、やれやれと言う様に、肩を竦めて見せる。




「本当ね。私、ちょっと畑に行ってきますね」




母親も忙しそうにパタパタと走っていってしまった。




「温度師…」



取り残された翠が、ぼやりとその言葉を呟いた。




「もしかしたら…」




座敷にぽつんと座りこんだまま、翠は嫌な汗をかいていた。




蓮貴に渡した本の中に混じっていたかもしれない。と考えたからだ。




すぐさま立ち上がって、翠は家を出て走る。




蓮貴に訊いてみよう。もしかしたら知っているかもしれない。




もしかしたらまだ目を通していないかもしれない。




蓮貴だったら、万が一読んでいても大丈夫かもしれない。





様々な希望的観測が、頭の中に渦を巻く。




慌てて走ったせいで、足が靴にちゃんと入っていない。



まどろっこしくなって、翠は途中から靴を手に持って、裸足で走った。


ちょうどその頃―



蓮貴は裏山に来ていた。



そして一人、沈む夕陽を見つめ、昔のことを思い出す。 

 


―昔、翠とよく二人でここにきたな。



焼ける空が自分の心を少しだけ感傷的にさせた。




―稽古がなくなった日も、ここで陽が落ちるのを見た後だった。




あの日は翠が温度師について色々訊いてくるものだから、つい苛々した返答をしてしまい、気を悪くした翠はどこかへ行ってしまった。




釈然としないまま、自宅に帰ると母が門の所で自分の帰りを待っていた。





『明日から、私が貴方にお教えできることはありません。』




母の話し方が、親のそれから、自分に敬意を表するものに変わったことを、直ぐ悟った。



それ以後。


自分はひたすら自分と向き合うことになった。


と、いっても。



「さらに暇になっただけだったな―」



蓮貴は陽から目を逸らして、伏し目がちに呟いた。



そして、両方の掌を椀の形に、例えるなら水を掬うような仕草をした後で、くるっと引っ繰り返し地面に撒いた。




と。




陽に焼けた空が、みるみるうちに黒い雲に覆われ、ぽつり、ぽつりと雨が降り始める。




しとしとと静かに落ちる雨に構う様子もなく、蓮貴はただ自分の手を見つめる。



漆黒の髪が、水分を含み、益々黒味がかった。







ゴーン…ゴーン…ゴーン




蓮貴がはっとして、顔を上げる。





村に鐘が響く。






千年に一度の鐘が。








―温度師が、死んだ。






次の温度師は自分だ。




世代交代の鐘の音。





身を翻し、蓮貴は家に走った。






ちらちらと―






雨が、音も無く。





粉雪に、




変わる。





「誰かが、泣いているみたい…」




翠は赤くなった素足で、蓮貴の家からの帰り道をとぼとぼと歩いていた。



蓮貴は家には居らず、翠は途方に暮れていた。



雨に降られ、それが雪に変わり、大気の様子が不安定になっていることが翠にもわかった。



この村で、気候の変化はよくあることなので、そんなに気にすることはないのだが、



その様子が余りに寂しげに翠の目に映り、心を揺さぶる。




更に、聞いたことの無い鐘の音に理由のわからない焦燥感が沸き起こる。




「なんの知らせだろう」




寒さに肩を震わせながら、翠は首を傾げた。



「蓮貴、、池に居るかな…」






翠が唇を噛む。



昔は何処にいるか、なんて直ぐにわかったのに。



翠は蓮貴との間にできてしまった溝が嫌で仕方ない。



でも、一方的に向こうから遠ざかってしまえば、どんなに追いかけたって元に戻すことはできない。





「本、大丈夫だったのかな…」




池に向かって歩きながら、翠は書士の言葉を思い出していた。




蓮貴はまだ正確には温度師じゃないから、もし読んでいても大丈夫なのかも。



とにかく訊いてみないと。



実はそんなに大した本ではないのかもしれない。



書士自体読んだことがないと言うのだから、尚更だ。




池が見えてくる手前の道に、ちょうど書庫が視界に入った。




「…え?…」




翠は直ぐに異変に気づく。




チロチロと赤い何かが、村の書庫に纏わりついている。




それは―




「火?!」




翠は粉雪舞う中を裸足で全速力で走り、書庫へと向かった。




酸素を喰らい、炎はみるみるうちに成長を遂げる。



バン、と大きな音を立てて翠は書庫の扉を開けた。





「きゃぁっ!」




開いた扉から炎が噴き出され、翠を襲う。



煤に汚れながら、翠は様子を見ようと猛烈な熱さの中、必死で目を凝らした。



「書士、さん…」




先程、翠の家を訊ねてきた書士が、炎の渦中に居た。



書庫には沢山の本が納められている。



それを管理するために、村には書士が居る。



そのため書庫には一組の机と椅子が用意されている。



書士はいつものその場所に腰掛け、目を瞑っていた。




「逃げないとっ!!早くっ!うっ、けほっげほっ」




煙を吸い込み、翠の肺が焼け付く。




それでも翠は奥の書士の元へと走り、腕を力の限りに引っ張った。




「早くっ!立って!書士さん!」



それなのに、書士は一向に立ち上がろうとしない。




「…いい…もう、オワリなんだ…」




そして、囁くように呟いた。




「…え?」




「書の紛失なんてことすらなければ…こんなことにはならなかったのに…色々と隠蔽しようとして整理したのが仇になったか…」




書士が薄らと開いた目は虚ろで、どこか遠くを見ているようだった。




「千年に一度の鐘の音が、、、聞こえたかい?」




唐突にも聞こえる問いに、翠は答えることができない。




「温度師が、死に…後継者が出る鐘の音……」




書士の言葉に、翠は言葉を失くす。



書士はそんな翠に構うことなく、今度こそ固く目を閉じ、二度と口を開かなかった。



その間にも、煙は充満し、炎は棚と書物を次々と喰らって行く。





「鐘…げほっ…」




朦朧とした翠の頭には、書士の言葉が響いていた。




後継者の出る音…?




蓮貴…



蓮貴が行っちゃうの?



書士から腕を放して、翠はふらつきながらも、外への出口を探した。



だが、燃え盛る炎はとっくに翠の周りを囲っていて、逃げ道は残されていなかった。




「れ…んき…」




翠は叫んだつもりだったが、その声は掠れてほとんど音になってはいない。




次第に熱さもわからなくなり、翠はその場に座り込んだ。



火は次々と周囲の物をなぎ倒して、一際大きな棚が翠の前に激しい音と共に崩れ落ちた。



―あぁ。



こんなことになるなら。



蓮貴がどんなに冷たく私を突き放そうとしても。



ちゃんと伝えればよかった。




たとえ、叶わなくとも。



私の気持ちを打ち明ければ良かった。




蓮貴―



私、貴方のことが―




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「さぁ、今から温度師としてその手腕を振るわれてください」






衣擦れの音と共に、蓮貴は役人の前に立つ。





―温度師の命とは儚いものなんだな。





余りの呆気無さに、同情すら覚える。



どこでどうして息絶えたのか、それすらも自分は知らない。



葬られることもない。



哀しむ者も居ない。



自分もそうなるのだろうか。




自分の家で温度師としての任命を受けているにも関わらず、どこか現実ではないかのように感じていた。



高価な材質の袈裟が、やけに安っぽく見える。


目の前の役人が箱から鍵をひとつ、取り出すと、蓮貴の足元に跪(ひざまず)く。




丸くて固いそれは、何の色も映し出してはいない。



空間の王座への道を作り出す、始まりの鍵。




「どうぞ」




コトリ、音を立てて役人がその鍵を転がすと、薄暗く歪んだ扉が絨毯のように蓮貴の目の前に広がった。




蓮貴は一歩、足を踏み出す。




そこへ―





「詩尉(しい)様!」





静かな場が一変し、騒がしい音が乱入してくる。




「不届き者めが。今は師の任命式であるのだぞ!」




鍵を使った役人がいきり立った。





「申し訳ございません!されどお聞きください!」





恐らくこの役人の下に使えている者なのだろう。




その必死の形相から非常事態なのが伺える。




蓮貴は、自分の動きを止めて事の成り行きを見ていた。




「火事が!あの問題にあげられていました書庫が燃えております!」




「なにぃ!?」




詩尉と呼ばれた役人が、困惑した表情を浮かべた。




「あそこは重要書の紛失で、今日これから調査が入る所だったろう?元々あそこは悪い噂の絶えない場所でやっと立件できる可能性がでてきたというのに!」




書庫?




蓮貴の頭に何かが引っかかる。





「書士はどうした?」





「それが―」





詩尉の問いに、後からやってきた男は一度言葉に詰まる。





「中に居る模様です!」




とうとう、詩尉は立ち上がる。


「いいか、私もこちらの式が終わり次第急いで向かう。お前は火を食い止め、書士の安否を確認しろ!」



詩尉の指示に、男は短く返事をすると、すぐに立ち去った。




「…書士め…極刑よりも自害を選んだか…」




低く呟いた詩尉の言葉を、蓮貴は話が見えないまま耳にした。



蓮貴の心にひっかかる何かが、大きくなるのだが、それが何なのか、まだわからない。




「…申し訳ございませんでした。では、再度お願い致します。」




詩尉は先程と同じように跪き、異空間への扉を見つめた。




蓮貴は、再び足を踏み出す。




その中に入ると、一瞬で自分は王と謁見することになる。




二度と、この村には戻ることが出来ない。





薄暗い空気に触れると、少しひやりとした。




あぁ、そうか―




引っかかっていた何かが、今わかる。




書庫という言葉を聞いて思い出したのは、翠の事だったのだと。




ゆっくりと、空間に身を任せながら、目を閉じ、蓮貴は呼びかける。




翠。



あの時、答えなかったけど。



温度師って言うのはね。




膨大な力を持つものほど、



自由からかけ離れていくものなんだ。



君を愛していると言うことすら、許されないんだよ。





せめて、最後に―







さよならを言いたかったけれど。





別れを告げることすらできないみたいだ。





二度と逢うことはないだろうけど、





どうか、笑顔で。





できるなら、




君だけを、




守る者になりたかった。



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「温度師が故郷に帰らぬのは何故だ?」





灼熱の国の王に現状の報告をし終わり、一礼した後背を向けると、声が掛かった。




王の気まぐれな一言だ。



見つからぬように、こっそりと溜め息を吐いてから、蓮貴は後ろを振り返る。




「はい。私は多忙ゆえ、故郷に帰る間も惜しいので。村を出てからもうどのくらいの年月が経ったのかも忘れてしまいました。」





本当は、しっかりとカウントしている。




村を出てからまだ17年。



母は元気で居るだろうか。



池のほとりには変わらずに白い花が咲いているのだろうか。



陽が綺麗に沈む様子が、あの山から見えているだろうか。




あの子は誰かと一緒になって、子供を産んで幸せに暮らしているだろうか。




時間が少しでも空くと、そんなことばかりを考えてしまう。


だから、蓮貴は常に忙しく、空間から空間へと飛び回っていた。





「そうか―。しかし、たまには荷を下ろしてゆっくりする時間も必要だろう。お前は働きすぎではないか?」




「さぁ―、どうでしょうか。」





どう返したら良いかわからずに、曖昧に笑う。



首からぶら下げているいくつもの空間の状態は至って正常だった。



今の所大きな問題は起きていない。




「今宵宴が執り行われるのだが、どうだ、出席してみないか。美味い酒と料理が振舞われるぞ。…まぁ、無理にとは言わないが。」




王の誘いは、蓮貴にとって良いことのように思えた。



なんとなく、今は一人になりたくない気分だったからだ。





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熱気が広間に溢れていた。



ある者は飲み、ある者は歌い、ある者は楽器を演奏していた。



王はとっくに休みに入っていたが、無礼講でそれぞれが楽しく宴を続けている。



陽が沈むことの無いこの国は、時間感覚がないためわかりづらい。




蓮貴も先程から何度も、今は夜なのだと自分に言い聞かせていた。



自分の生まれ育った村は昼と夜の区分があったために、出てから17年経っても身体は慣れてくれはしない。




離れてみて思う。




意外とあの村を、自分は好んでいたのだと。




「貴方様は、温度師かね?」




物思いに耽っていると、しわがれた声が自分を呼んでいる。




「え?」




声の主に顔を向けると、腰の曲がった白髪の老人がぎょろっとした目でこちらを見上げていた。



「…そうですが、何か?」



蓮貴は内心驚いていた。



広間の窓際、カーテンの脇という目立たない場所に立っていた自分を見つけたことすら不思議なのに、温度師という職業まで言い当てられたからだ。



上からマントを羽織っているため、道具は全て隠れて見えない筈だった。




「新しい温度師様ですな?いやいや、ご出身をお聞きしたかっただけのこと。私もかつてあの村にいましたんでさぁ」




老人は懐かしむように微笑んだ。



蓮貴はこの老人のことを知らないが、『あの村』という言葉に心惹かれた。




「そうだったんですか。私もちょうど今日、あの村のことを思い出しました。今もあそこの夕焼けは綺麗なんでしょうね。」




老人も嬉しそうに頷く。



村に居たということは、この老人は一族の中の一人な筈だ。



「いつまで、村にいらっしゃったんですか?どうして村を出たのですか?」



液体の入ったグラスを傾けながら、蓮貴は訊ねる。



「いつまでだったかは忘れてしまいました。ただ、花が咲かなくなってしまったもんで…」




「花?」




口に流し込もうとした手を止め、老人の顔を見つめる。




老人は、どこか遠くを見るような眼差しで、前を見ていた。



「かわいいかわいい白い花でさぁ。」



蓮貴の頭に、いつかのあの花の映像が浮かぶ。


「それは…何処に咲く花ですか?」



頬を緩ませて、老人は答える。



「池でさぁ。小さな花でさぁ。」




蓮貴の予想が確信に変わる。





一年中あの場所に咲く花が、突然どうして咲かなくなったのだろう。





「池を潰されてしまったのですか?」



蓮貴は心底残念に思いながらまた訊ねる。



「いや―そうじゃないんでさぁ…」



老人の顔が辛そうに歪むのを蓮貴は見逃さなかった。



「ある日を、境に。。。みぃんな、枯れてしまったんですわ」




「ある日?」




「…変な天気の日で。いやまぁ、私らの村にはそんなことはいつものことだから、大して気にも留めていなかったが、綺麗な夕焼けが途端に雨雲に覆われてその後雪に変わった日でしたなぁ。」




何か、嫌な予感がする。




その日のことを、蓮貴は今でも鮮明に覚えている。



千年に一度の鐘が鳴り、自分が温度師に任命された日だ。



力を使い、雨を降らせたのは自分だった。粉雪に変化させたのも。






一体あの日に何があったというんだ?





自分でも理由がわからない胸騒ぎがする。





これ以上聞いてしまうと、取り返しがつかなくなるような、そんな気がした。





だが。





「何が…あったんですか?」





気づくと蓮貴は訊ねてしまっていた。





「書庫で火事が…起きたんでさぁ…。何でも書士が色々手広く悪さしていたらしく、見つかりそうになって自分で火を放ったそうで…」





蓮貴の脳裏に、任命式の途中に慌てて入ってきた男が浮かんだ。



そういえば、そんなことを言っていたな。



だが、しかし…それが、あの花になぜ繋がる?…もしかして…。




自分の中でこれ以上考えるな、これ以上聞くなと警告が発せられている。




でも。




あの花がなくなると言う事は。




だって。





あの花には…





「運悪く女子が一人、道連れになったんですわ」





あの、





花、





には。





「その…子の…名前、は?」





喉が、からからで声が上手く出ない。



もう、老人がどんな顔をしているかを伺う余裕もない。



最悪の結果だけは、どうか耳に入ってこないで欲しいと、ひたすら願った。





「―翠」





少しの間の後、老人は愛でるように呟く。






「私の、、孫です」





蓮貴の手から、青いグラスが落ちる。




パリン、と音がすると、直ぐ人が片付けにやってきた。




「大丈夫ですか?」




老人が、驚いたようにこちらを向いたが、気遣うことはできなかった。



蓮貴は首を振りながら、よろよろと後ずさり、そして、方向を変え、広間から走って出て行った。



「っ嘘だ」





うだるような暑さの中、城の中庭まで来ると、蓮貴は立ち止まった。



頬を温かい雫が伝う。



拭うこともせずに、いや、泣いていることすら気づかずに、蓮貴は嘘だと繰り返し自分に言い聞かせていた。




思い出すのは、幼い時、彼女の栗色の髪に挿した白い花。




老人の話が嘘じゃないことは分かっていた。





だって、あの花は―




翠と共に成長し、翠が元気で居れば居るほど美しく咲くよう、術をかけておいたもの。




それは逆を言えば、彼女が消えれば花も枯れるということ。






翠が―





もう、居ないなんて。





そんなこと。





あるわけないだろ?




信じたくないのに、皮肉にも自分のしたことが、それを裏付けている。




「嘘だよな?」




無駄だとわかっていながら、蓮貴は土を思い切り殴る。



「嘘だっ!!」




自分の思いの丈をぶつけるように。






あの時。





もしも、自分が気づいていれば。




知っていたら。




動いていれば。




温度師が、死ななければ。





自分が、





温度師で、





なかったら。





翠の傍に、居られたら。





「ちくしょ…」





ぼたぼたと黒い染みが殴った土の上に出来ていく。




「何が温度師だ…」




温度師は―



世界に必要な者なのだ。



温度師が不在になると、空気は揺るぎだし、均衡は保たれなくなる。



小さい頃から言い聞かされてきた。




『お前は、世界を守る選ばれし者』と。





「違う…」




土をぐっと握り締め、蓮貴は力なく首を横に振った。




自分の守りたかったものは、そんなものじゃない。




そんなものを守りたかったわけじゃない。





ただ、一人。




ただ君だけ。




君の笑顔だけを。




守りたかったのに。




この手で。



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空っぽになった頭で、見るともなしに空を見上げると、鳥が数羽飛んでいくのが見えた。




自由に、なりたい。




温度師は、そう思った。



今更、もう遅いことは十分にわかっていた。



どんなに自分に能力があろうとも、



時間は、取り返すことができない。




ならば、いっそ―




17年間、肌身離さずに持ち歩いていた、一冊の古びた本を取り出し、それを眺めた。



やがて、呟く。




「温度師という呪われた者など、なくなればいい」




何かを決意したかのように、いや、諦めたかのように、冷めた目をして、温度師は空間を切り開くと姿を消した。




後に残るのは、灼熱の陽の光。




何事も無かったかのように、穏やかに流れる、風。

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