ヒーロー


―騙された


違う、そんな言葉は適切じゃない。


―嵌められた


うん。こっちの方が合う。ぴったりだ。僕の今の状況に。





「卓!あんたったら、ほんとに今頃起きてきて!早くごはん食べなさい!」



二階から降りてくると浴びせられるいつもの台詞。


それに加えて―


眠気でぼうっとする頭をはっきりさせるのには十分な朝の光景。



「右京ちゃんはもうすっかり準備ができているっていうのに。転入初日で遅刻させんじゃないわよ!」



おかんは、新品の制服を身に纏い、ずずっとお茶を啜る美少女をびしっと指差した。




「いい…朝飯、今日いらない…」



げんなりしながら、断る。



だって、食欲がわかない。



しかし次の瞬間丸められた新聞紙でパコンと頭を叩かれて、



「黙って食べる!」



怒られた。



絶対どっかで歯車が噛みあっていない気がするのだけれど。


朝早くても、夏の日光はじりじりと容赦なく焼き付けるように降り注いでいた。





―なんでこんなことになってるんだっけ。




駅までの道のり。数歩先をはしゃいで歩く右京を目の端に捕らえつつ考える。







結局あの日、右京はこんなことを話した。




自分は地球という空間を支配・コントロールしている世界の住人だと。



けれど傷だらけの地球の存続がこのままだと難しいという問題に加えて、応急処置を行うための重要物の紛失と、それを作り出す者の失踪がダブルパンチで起こってしまったと。



さらに、監視する役目の者が、王の失脚を狙っていることが判明。知らずに鉢合わせしてしまった右京は襲われて地球に落とされ、今に至る。



そういうわけらしい。



…………



いや、どういうわけだよ。



自分で自分にツッこむ。




暑さのせいか、納得しかける自分も頭がおかしくなったみたいだ。



―だからまずは鍵師を探さないといけないの。



右京は言った。



自分が落とされた場所と同じ場所から、鍵師というキーパーソンも落とされたらしく、地球にいるのではないかと睨んでいるらしい。



右京とは違って、人間に似たような風貌ではないことから、そのままの姿でふらついていることはないだろうとのことで。



地球という場所に疎い右京は、僕というこの地に詳しい案内人が必要なんだと言う。



病室で目が覚めた時、ここがどこで僕が何者だかわからなかった右京は、僕と握手した際、情報をある程度引き出したらしかった(よくわからないけど)。そして瞬時に理解した。自分が異端者であり、受け入れられないということを。



―それで咄嗟に嘘を吐いたのよ。



ふふふと彼女は不敵に笑った。



―だけど、クミは大丈夫だと思ったの。



何故?と訊いた僕に、右京はこともなげに答えた。



―クミは地球がなくなってもいいって言ったから。



確かに、言った。


自分自身の言葉が、こんな形で返ってくるとは思いもよらなかった。


思わず電信柱に頭を打ち付けたくなる衝動に駆られる。


僕のバカヤロウ、と。



つまりは、僕は人間だけど、脱人間とも取れるわけで、そういう人間は空想の世界の住人ともやっていけると判断されたらしい。



断固違うと言ってやりたい。


僕は地球が大好きですよと。


でももう遅い。


後悔は先に立たず、だ。



僕は何か力になれることがあったら、とつい言ってしまい、右京はおおまかな空想を語った最後に、



―クミには色々協力してもらうけど。さしあたり、住居と食事提供とそれから人探しの手伝いをお願いしたいの。



あまりにも遠慮のない要望を突きつけてきた。



でも僕はヘタレなので。



拒否権なんてないわけで。



なんとなく流れで、家に帰るのに彼女も連れて行き、留学生だと親に紹介し、ホームステイを頼まれたと言うと至極呆気なくおかんは快諾した。



娘が欲しかったのよね、とかなんとか言って。



かなり、可愛がっている。



実際右京は大分美人だし。



「右京、電車に乗るから、こっちだよ」



朝の準備に取り掛かっている八百屋のおばちゃんの顔をじとーっと見ている彼女を引っ張って改札に連れて行く。



「ねぇねぇ!クミ!あのおばちゃん!氷細工のおばちゃんにそっくりなの!」



目を輝かせて言うが、僕にはさっぱりわからない。



誰なんだ、それは。



軽く眩暈を覚えつつ、右京を待たせて右京の分の切符を買ってやると、彼女の好奇心は『電車』というものに移り、先程とはまた違う輝きを顔から出しつつ、ホームに入ってくる電車を待っている。



毎日の通勤通学に疲れきった人々でごった返す中、わくわくしながら新品の制服を着て立つ美女は見ていておかしかった。



かなり急いで作らせた制服は、兄貴から届いた。(おかんには学校から貸与されていると話しておいた)



兄貴には留学生と説明したことをメールで伝えると、高校の手続きもなんとか終わったぞと返ってきた。



そんなこんなで右京は僕と同じ高校に通うことになったのだが―




「卓毅!」




右京を眺めながら思いを巡らしていると、背後から聞き覚えのある声が僕を呼んだ。



「尭…」



これは、まずい展開かもしれない。



僕は右京の後ろに並んでいたのだが、右京とは他人のフリをしようと決めて、尭に身体ごと振り向く。



色々説明しなきゃいけないのが面倒くさい。




「なんで先行っちゃうのよ!?」



僕の傍まで来ると、膨れっ面で尭が言った。



別に約束したわけじゃないけど、朝、尭とは大抵一緒に行くことが多かった。


でもだからといっていつもってワケでもなく。


こんな風に僕が勝手に早く出る日もあるんだけど。


その時は必ずと言って良い程、尭はこうやって怒る。



僕には意味がわからない。



「…ごめん」



だけど、とりあえず謝る。



「それに!なんで土曜日来なかったの?予備校!先生呆れてたよーまたかって。」



あ、そういやそうだった。



「怪我してたから」



頬に貼ってある湿布を指差して見せた。



その瞬間尭は、あ、と口に手をあてた。


「やだ、気づかなかった!どうしたのよ?!」



急に尭は心配そうに僕を覗き込む。



そこへ―



「回転椅子からおっこっちゃったんだよねー!」



ひょっこりと僕の背中から右京が顔と口を出した。



固まる尭。



タイミング良く(悪く?)ホームに入ってきた電車。



「ほ、ほら、乗るよ。」



僕は2人を急かしてぎゅうぎゅう積めの電車に押し込む。



とりあえず僕は高校の最寄の駅に着くまでの時間は、平和な日常を送れるとほっとした。



今日ばかりは満員電車万歳だ。



この際、脇にちらっと見える尭の刺すような視線には、気づかないフリをしておこう。




電車を降りてから、学校までの間。




「で、誰なの?この子」



今の僕を世間が見るならば、ぱっと見両手に花って所だろう。



だけど皆さん、物事には二面性があるということを、どうか知ってください。



あなたが羨ましいと思う誰かも、実は苦労をしているかもしれないということを。




「卓毅!きいてんの?」




意識を遠くにとばして、聞こえないフリをして学校まで過ごそうとするものの、尭はそれを許してくれない。




「クミ!このうるさい女、何?なんか、ちょっとだけ邪魔だね?」




尭の神経を逆撫でしている原因は勿論この女である。



右京は僕の右腕をがっつり引っ張り、尭は僕の左側にぴったり付いて歩いている。



「黙って!アンタ何様なのよ。卓毅にくっつかないでよ!」



「うるさいぶーす」



「何ですって?!」



僕が一体何をしたと言うのでしょうか。



「あっれー?何騒いでるのかなと思ったら。卓じゃん。あ、おはよー田中。」



校門を目前に、背後から聞こえる、またしても馴染み深い声に僕はがっくりと肩を落とす。



面倒なのがまた増えた。



少し早足で僕らと並ぶと、溝端は首を傾げた。



「誰?その美女」



そしてニコリと笑って、右京の隣につくと、



「俺、溝端淳(みぞはたじゅん)。よろしくねー」



手をとってぶんぶんと振った。



「どーも!」



右京は楽しげに溝端に答える。




「どーりで、登校中の生徒たちや道行く人たちの視線を奪ってるわけだ。こんだけ美人ならなぁ」



溝端はにやにやしつつ、僕に眼で何かを訴えている。



「お前の知り合い?紹介してよ」



ほんと、どいつもこいつも面倒くさい。



僕はみんなの声を無視して、右京をとりあえず職員室に連れて行った。



「じゃ、あとはよろしくお願いします」



右京を先生に任せて職員室を出ると、尭と溝端がふたりとも相反する面持ちで待ち伏せていた。



もちろん尭はむすっとしている。


溝端はにやにやしている。



「…なんなんだよ、お前ら。もうすぐ予鈴が鳴るぞ」



げんなりしながらそう言うと、2人は口を揃えて、



「あれ、誰?」



僕に問いかけた。



「…留学生らしーよ。俺の家ホームステイ受け入れに応募してたらしい。」



完璧出任せの嘘を吐く。




「えー、じゃあ、卓ん家住んでるの?」



表情は真逆なのに、ハモる2人。


息ぴったりだな、とちょっと感心した。


僕が答える前に、予鈴が鳴る。



「とりあえず、転入生ってことで、ウチのクラスらしいから、仲良くしてやってよ」



鐘が鳴り終わるのを待ってから、それだけ告げると僕は教室へ向かう。



尭はぶすっとしたまま、僕の後ろに付いてきて、



「私はクラス違うもん。」



口を尖らして呟いた。



ひゅー、と溝端が口笛を鳴らす。



「だいじょーぶだって、田中。あんな美人、卓の手には負えねぇーよ」



お前にもな。



僕は前を向きながら、心の中で悪態を吐いた。



いや、悪態じゃないか。



本心だ。



むしろ、右京のことを手に負える奴がいるなら、誰か教えてくれ。



一瞬だけ、僕は天(正確には天井)を仰いだ。



「モテる男は辛いねぇ」



席に着いた途端に溝端が冷やかした。


机の脇に空の鞄を掛けると、僕は呆れ顔で奴を見る。



「俺がモテてると思ってるワケ?」



自慢じゃないが、僕はそんなに良い顔はしてないと思う。


背も170ちょっとで友達の中じゃ低い方だ。


髪も兄貴みたいに真っ黒じゃなくて、少しだけ茶色で癖っ毛。


猫みたいにはねる。



成績も良くない。


運動だけは胸を張ってできると言える。


告白なんてされたことないし、騒がれたことだってない。


去年の文化祭でも、他校からお声が掛かる、なんてことはなかった。


バレンタインは毎年尭とおかんはくれるけど、他からはない。


ラブレターだって小学校で一度、何かの間違いでもらったきりだし。



つまりは、僕のモテ要素はゼロだ。


「モテ期はいつ来るかわからないからなー」



茶化すように言う溝端を少し憎らしく思う。



何故なら、こんな僕とは違い、溝端の顔は整っている。



背だって僕より10センチ位高いし、ストレートの灰色がかった髪は僕にとって喉から手が出るほど羨ましい。


勉強だって出来るんだよ。悔しいけどスポーツも大方こなせる。


今人気の眼鏡男子だし。


しかもおちゃらけた性格だから、男女問わず好かれるタイプ。


去年入学して同じクラスになって知り合ったが、今年のバレンタインはすごかった。


だけど、甘いものが嫌いな溝端。


そんな面もちょっとかっこいいかな、なんて同姓でも思ったりする。


僕は、こいつが女に困っている場面を見たことがない。


来るもの拒まず、去るもの追わず、だ。


ま、要はタラシだ。


入学から今まで一体何人と付き合ったか…いやそもそも付き合っている、なんて定義はコイツにはないんじゃないかな。


言い返す言葉も見つからず、完敗な気分ではぁ、と溜め息を吐いた所で、



「おはよう!ホームルームを始めます」



担任の須美子(すみこ)ちゃん(52歳)が、元気良く教室に入ってきた。



「えーっと、今日はまず転入生を紹介するわね。」



転入生、というワードに、クラス中がざわざわ騒ぎ出す。



「静かに!ちょっと時期はずれなんだけど、色々事情があって。留学生の子で日本語はぺらぺらだから安心してちょうだい」



須美子ちゃんはふふふと笑うと、教室の扉の向こうに手招きをした。



興奮気味な声があちこち飛び交っていたのに、右京が教室に入った途端、水を打ったような静けさになった。



「自己紹介をしてくれる?」



須美子ちゃんの指示に、右京はこく、と頷き、花が咲き誇ったような笑顔で、



「右京です。よろしくお願いします」



と言った。



僕は自分の中でツッこむ。



名字は何ですかー?って。



だけど、うちのクラスには誰もそれを質問してくれる人がいない。



それ位、右京は人間離れして美しいってことだ。



男だろうが、女だろうが、右京の美しさは見惚れてしまう。



だけど、夢見る少女ちゃんで、怪力だぜ。



半ばヤケクソになりながら、非現実的な現実を受け入れる他、選択肢はないんだな、と今更ながら思った。



何故か物事の流れが、右京側にあることを、僕はとっくに気づいているのだ。



次の休み時間。



「えー、じゃあ右京ちゃんって今望月くん家に住んでるの?」



「右京ちゃんって何処の国から来たの?」



「なんで日本語ぺらぺらなの?」



「日本に来るのは初めてなの?」



「食べ物何が好き?」



「彼氏居るの?」



右京の机の周りは人だかりができていた。


季節外れの美しい転校生に、他のクラスや学年からも、見物客が覗きに来ている。


廊下側の前から3番目の僕は、窓際の前から5番目になった右京の席があるだろう場所を肩肘を突きながら眺めていた。



「すっかり人気者になっちゃったなぁ」



僕の前の席の溝端が、感慨深げに言う。


右京は人を寄せ付けない程の美人だから、孤立するのかな、なんて予想していたら大間違い。


持ち前の底抜けに明るい性格で、あっという間に皆を魅了した。


しかし、あれだけ地球について知らないと言いつつ、色々詳しい情報を持っているようで、人だかりからは笑い声が度々聞こえる。



やっぱり厄介な妄想壁の女かなぁ。


僕だけからかわれてんのかな。


そーだよな、普通地球滅亡とかってないよな。



一体何が正しくて何が間違っているのか。


何が現実で何が夢なのか、段々わからなくなってきたぞ。


こんな風にして、人は現実離れして、いつしか右京のような浮世離れした存在になるのかもしれない。



「望月ー羨ましすぎるぞお前ぇ。」



人生の悟りの境地に入ったような面持ちで僕が物思いに耽っていると、廊下から野太い声が掛かる。



「小松。」



僕の代わりに、溝端が返事をした。



小松、と呼ばれた男はがっしりとした体格の大男で、柔道部に入っていて、隣のクラスだ。



余り仲良くはないが、ちょっと面倒な知り合いだ。



頭が悪いせいか、力ずくで何でもかんでも解決しようとする傾向がある。



「何の話かわからねーよ」



ここは、軽くかわしておいた方がいいだろう。



「とぼけたって無駄だぞぉ。あの美しい転校生、お前んとこにいるってきいたぞぉ」



あーめんどくさい。



内心舌打ちしながら、自分の腕を見る。



僕は腕力には自信がない。



お世辞にも太いとは言い難く、その上生っちろい自分の腕に思わずがくっと項垂れた。



「まぁまぁ、ホームスティだし、な。付き合ってるわけじゃないんだし、しょうがねーじゃん、な?」



溝端が鼻息荒い小松を宥める。



「ふん!まぁ、そうだよなぁ。しかし、この俺はあの百合の花のような子と付き合いたい。望月、お前なんとか協力してくれないか?」



溝端はあらら、と絶対面白がっている顔で僕を見た。



くっそー、偽善者め。



思いっきり冷たい一瞥を溝端に向けてから、今度は引き攣った造り笑いで小松に向き直る。




「協力なんてできねーよー。俺は右京のことはよく知らないんだ。母親とはよく話しているみたいだけど、俺はほとんど話したことも無い。それに、小松は男前なんだからさ、俺の協力なんてなくたって十分イケるって。」



うん。完璧な答え。


優等生だ。


人の良さそうな望月を演じられた筈だ。



「お、そうかぁ?」



真っ赤な嘘だよ、ばーか。



そのまま引き下がって、はいさよーなら。



ノってきた小松を前に、僕は嘘くさい笑顔を貼り付けたままでフリーズ。



3、2、1…



「クミー!!!」



明るく響く、うるさいくらいにでかい声。



「クミぃ???」



あぁ。


しまった。


この大男が反応してしまった。



「クミって誰だぁ?」



僕は引き出しの中に入ってしまいたい。


なんで高校の机には小学生の頃使うようなプラスチックの引き出しは入っていないんだろう。


もしあったなら、僕は間違いなくそれをかぶって教室を出て走って理科室の掃除用具要れにでも隠れただろうに。


うん。身体ははみでるよね。それはしょうがないよ。



「クミって…?」



フリーズドライになった僕に気づかないまま、溝端も右京の方を見ている。



「クミ!」



人だかりをかきわけて、なんの嫌がらせか右京は僕の方へ笑顔を向けた。



ざざっと周囲の視線が僕に集中する。


い、居心地悪っ。



「もしかして…」



溝端が口元に笑いを湛えているのが目の端に映る。



静まり返った教室内で、右京は音もなく僕の目の前まで歩いてきた。



もとい、僕は廊下の大男こと小松を見て固まっているので、右京は背後に立っている。



それを僕は背中の眼で感じる。



冷や汗という名の僕の涙。



どなたかかばってくださいませんか?



「ねぇってば。今日さ、一緒に帰れる?」



純粋無垢なこの発言は、僕にとってある意味人生にピリオドを打つことに等しい。



「なんだと?」



僕の視界いっぱいに映るゴリラは、はっきりと僕を見てから拳を作った。



お願い。これ以上僕を不良品にしないで。


「望月ぃ…お前、今なんつったっけ?」



「落ち着けよ小松。望月は彼女のホームステイ先なんだ。一緒に帰ってもおかしくなんかないだろ」



溝端…。お前、わかってるだろ。



僕は微動だにしないまま、心の中で自嘲気味に笑う。



小松は馬鹿だ。



頭で考えることが大の苦手だ。



つまり、理屈は通じない。



だから、一緒に帰る=付き合っている=恋仲という方程式しか持ってないコイツに、当たり前の事を言ったって通じない。



それをわかっていながら、この場においてわざとらしく偽善者ぶるお前の心は真っ黒だな。



相手を小ばかにしながら、面白がっているだけなんだろう。



「そんなことは、どーだっていいんだよぉ!」



案の定、小松は話の半分も理解しないまま、右の拳をパンッと自分の左手の平で受ける。



「勝負しろコルラァァァ!!!!」



出た。



小松の雄たけび。



意味不明の決闘。


「ほらー、何やってるんだ?散れ散れ。」



人畜無害な僕が、予想外(通り?)な展開で注目の的になっていると、予鈴と共に数学の前田が迷惑そうに教室に入ってきた。



「望月ぃ、ちょっとの間、命拾いしたな。放課後、体育館裏に来いよ。逃げたら許さねー」


けっ、と悔しそうに小松が僕に背中を向ける。



だから、何の戦いなんだって。


そしてそのベタな捨て台詞おかしいって。



僕はまださっきの姿勢を崩さず、小松の去り姿を微動だにせずに見つめた。



「お前、苦労を背負い込んだらしいな」



溝端の面白半分の同情に、今更気づいたんですか、と言いたくなる。



「ねぇ、今の何?クミ」



落ち着きを取り戻した教室内。



教師が来たことで周囲の生徒たちはそれぞれ自分の席に着こうとしている。



呪いが解けた僕が振り返ると、元凶の右京はきょとんとした顔で僕を見つめていた。



「男同士の決闘、みたいだよ?」



げんなりした表情をした僕が、何も言えないでいると、溝端がクスッと笑って右京に教えた。



「なにそれ!面白そう~!」



異世界の住人は、きゃらきゃらと笑った。


席に着きなさいと、前田に注意されるまで。


おかげで僕の耳には右京の笑い声が授業中ずっと耳について離れなくなった。


ほんと、ツイてない。


どうも右京と出逢ってからというもの、僕の平穏な生活はブチ壊しにされて、いろんなとばっちりを食うことがやたら多い。


実質まだ3日位しか経っていないけど、心なしかやつれた気もする。



「どーすんの?放課後、おまえ行くの?」



昼休みになると溝端が購買の列に並びながら僕に訊いた。



「…行かなかったら、どーなると思う?」



焼きそばパンとわかめおにぎりという組み合わせに、我ながら呆れつつ訊き返すと溝端はさらに呆れた顔をする。



「最悪の結果だよ。」



卓って馬鹿?という、有り難くない言葉を付け足した。



自分から訊いた癖に。



「…確認だよ」



深い溜め息と共にぼそっと呟くと、前に並んでいる溝端の肩が震えているのがわかる。



笑ってる…



一応クラスで一番仲の良い友人は溝端だが、自分の選択ミスだったんじゃないか。



もう一度去年の4月に戻りたい。



非現実的な願望が生まれた瞬間だった。


教室に戻ると、また人だかりができている。


右京は弁当をおかんから持たされていたみたいだけど(なんでか僕のはいつも通り作ってくれなかった)、貢物が沢山あるらしい。



「右京ちゃん、イチゴミルクあげる!」



「右京ちゃん、これ購買のコロッケパン!中々手に入らないんだよ!」



食べきれないだろうって思うんだけど、右京はにこやかにそれを受け取っている。


そうだった。


右京の胃袋は半端ない。


育ち盛りの僕なんかよりずっと食べる。


食べなくなるのはお腹がいっぱいになったからではなく、他のことに興味が移った時だ。


結論。


彼女の満腹中枢はイカれている。



「卓毅!」



入り口の引き戸に寄り掛かってその光景を眺めている所へ、特進クラスの尭がやってきた。



「一緒に食べよ!」



手にはお弁当の包みとマイボトルを持っている。



「お、田中じゃん。お前も健気だね。特進クラスは校舎も向こう側なのに遥々こっちにくるなんて、さ。友達いねぇの?」



溝端がからかう。



「そんなわけないじゃない。淳くんは黙ってて」



尭がギロリと睨んだ。


「あー、悪ぃ、尭。淳と食ってて。俺、ちょっと行くとこあるから。」



僕はそんな2人にはお構いなしに、教室に背を向けて今来たばかりの道を戻る。



「え!?ちょっと、卓毅?!」



心なしか焦ったように僕を呼ぶ尭の声に、僕は振り向きもせずただ片手を上げてばいばいと振った。



「…はーあ」



ポケットに手を突っ込みながら、僕は図書室までの道のりを一人、歩く。


うちの学校の図書室は地下にある。


1階にある購買を通り過ぎて、その奥にある階段を下るとそこが図書室だ。


7月の真っ盛りな今、校舎の地下はひんやりとしている。


図書委員の子に言って借りた鍵で合鍵を作って持っている僕は、いつでも勝手に入ることができる。


ま、昼休みは大抵開いてるんだけど。


そう思って、扉に手を掛けると。



「…?あれ」



開かない。


珍しいな。


首を傾げて、慣れた手つきで立て付けの悪い扉に鍵を差し込み、少し浮かせてやると、鍵が奥まで入ってカチリと回った。


開けると、カラカラ音が立つ。



途端に、締め切っていた埃っぽい匂いが、鼻に纏わりついた。



僕は周りを見渡すことなく、一直線にカウンター脇にあるドアに向かう。



重たい鉄のドアを開けると、さらに外へと通じる階段があり、それを上りきると見えてくる風景。




内鍵を外して、外に出ると水面に反射する光が眩しい。




ツンと鼻を突く塩素の匂い。





そう、図書室は、突っ切るとプールに通ずる、知る人ぞ知る近道なのだ。




誰もいないプールに早くもワクワクし出して、僕は更衣室に入ると直ぐに制服を脱ぎ、勝手に常備してある自分の水着に着替えた。




そして、助走をつけてー





バッシャーーーン!!!




飛び込むと、派手に水しぶきが上がった。




めいっぱいけのびして、それからクロール。


何度も言う様だが、僕はスポーツなら全般できる。


体育は得意科目だ。


そんな僕は何で部活動に入らないか。


その理由は僕にもわからない。


これと言ったはっきりとしたものはないのだ。


ここの学校の部活動が余り有名ではないからか、


自分の時間が拘束されるのが嫌なのか、


はたまたスポーツは得意でも、熱を入れたいわけではないからか、


色々思い浮かびはするが、どれもちょっとずつ違う気がする。


僕は音もなくスイスイと泳げるだけ泳ぐ。


途中鐘の音が聴こえたように思えたが、まぁいい。


暫くして疲れると、プールの中央に仰向けに浮いた。


青空はいつもと同じように、そこにある。


こうして水の中にぷかりと浮かんでいると、世界に存在するのは自分だけのような錯覚に捕らわれる。


静かな。


とても静かな世界。


僕はたまにむしゃくしゃしたり、自分の気持ちを整理したくなったり、


そんな時には大体こうやってがむしゃらに泳ぐ。



一週間の内どこのクラスも使わない、空いている時間帯を僕は把握している。



溝端以外で、このことを知っている人間は他にいない。



先生に見つかったこともない。




「はぁー」




沢山泳いだ割に、口から出てくるのは冴えない溜め息だった。



これから、どうすっかな。



いつもは大体見えない将来のことを、とりとめもなく考えていた。



でも今日は違う。



議題は2つある。



1つは右京のこと。



いくら留学生と言えど、このままずっと家に居させるわけにもいかないだろう。



早く現実を目の当たりにしてもらって、元の家に帰ってもらわなければ。



もう1つは―


今日の放課後の小松との決闘だ。


絶対に負ける。


それは火を見るよりも明らかだ。


決して痩せすぎではないが貧弱な僕と、全てが鍛錬を重ねられているであろう筋肉小松。


戦う理由は恐らく右京。


もうその時点で僕は関係ないのに。


むしろ最初から負けでいいからと思う。


だけどそれだと小松の腹の虫がおさまらないから背負い投げ位は喰らうだろう。



僕は痛いのは嫌だ。



でも溝端の言うとおり、行かなかったら行った時よりひどい目に遭うだろう。


じゃあどうしたら一番穏便に、被害を少なく緒わらせることができるか。



右京の口から説明してもらうこと。



それが一番なのだが。



当の本人が面白がってるんだから、絶対無理な気がする。


八方塞(はっぽうふさがり)だ。


四面楚歌だ。


いっそこのまま水と一体化したい。


現実逃避しながら、目を閉じた。


聴こえるのはただ、水の音。


そして、風の音。




「クミ」



……



ん?



この短期間で耳に馴染んだその呼び名がここで聞こえるなんて。



目を閉じたまま、眉間に皺が寄った。



いやいや、在り得ない。



だって、間違いなく今は授業中。



彼女はきっと授業を受けている、と思いたい。



「クミってば」



それでも無情にも聴こえる不本意な名前。



下に足をついてがばっと起き上がると僕はきょろきょろと周囲を見渡した。



そして、見つけた。



僕は信じられないものを見るような目で、プールサイドにちんまり座ってこちらをじっと凝視している右京を見た。



髪の毛から滴り落ち、顔を伝う雫を払うこともしないまま、呆然とする僕。



「…どうしてここに?」



しんと静まり返るプールに、僕の声はよく響いた。



「だって、クミが居なかったから。」



あっけらかんと彼女は答えた。



いや、そういう意味じゃなく。



「なんでここに居るってわかったの?」



当たり前のように、右京はここに居るけど、当たり前じゃない。



溝端はこの場所を教えない。



そして、右京は一度だって、この場所に来たことはない筈なのに。



にかっと人懐っこく右京は笑った。




「クミの匂いがしたから」




人間じゃない。



じわじわと僕はその事実を確認しつつあった。


「授業中だろ?」



返す言葉が見つからなかった僕は、プールから上がり、右京の傍へ行った。



「だって、じゅぎょーは必要ないもん。」



少しも悪びれず、右京は言う。



「それに、クミが居ない」



これは…



刷り込みかなんかか?



最初に面倒を見た人間は、最後まで世話役なのか?



頭の中に一瞬カルガモの親子の姿が思い浮かぶ。



「クミは放課後決闘するんでしょ?居ないと見れないから」



そっちかよ。



僕はがくっと肩を落とした。



「あれ、君のせいなんだからな。」



批難の気持ちを込めて言うと、右京が、え?と首を傾げる。



「小松は、君が好きらしいよ。でも、僕と君が付き合ってると思ってるんだよ。」



「つきあう?」



え、まさかこの生き物、その意味もわからないんじゃないだろうな。


嫌な予感がする。



「付き合うって何が?」



小首を傾げる右京はかわいい。


でも、大体は面倒。




「つまり!好き同士ってことだよ!」



呆れたように説明すると、右京は、あぁ、と言った。



「結婚てこと?」



違う。


決定的に違うけど。



「…ま、そんなもんだよ」



訂正するのも億劫になって、投げた。



「ナイナイ、在り得ない」



やけに冷めた口調で右京が言うので、思わず表情を伺ってしまう。



あの時―



公園の小山の頂上からどこか遠くを見ていた、



あの時と同じ目で、彼女は呟く。



「人間なんて、大嫌い」



その言葉に温度なんてものはなくて。


吐き捨てるように放たれたきつい言葉だった。


僕自身に言われたわけじゃないみたいだけど、


なんか、心がちょっとぎゅっとなった。



哀しい?



ちょっと違うな。



がっかり?



うん、そんな感じ。



僕は合わない視線から逃げるように、無言でその場を立ち去り、更衣室で着替えた。


水に浸った身体はすぐに真夏の暑さに支配される。



「あちー」



ワイシャツに着替え、ズボンを膝までたくしあげた。


プールサイドに戻ると右京の様子は普段通りになっていて、水面を覗き込んでいた。



「珍しいの?」



好奇心旺盛な子供のように、キラキラとした顔で見入っているもんだから、ついつい訊ねる。



「水が凍っていないのがこんなに沢山貯まっているのは珍しい!井戸でもなくて、湖でもない。」



ほんと、この子のことが、僕にはよくわからない。



「ははっ」



わからないけど、なんだか可笑しくなって、僕は笑ってしまった。



そんな僕のことを、振り返った右京は驚いたように見つめた。



「クミがそんなふうに笑う所、はじめてみた。クミはいっつも、ここに皺をよせてムッとしてるから」



そう言うと自分の眉間を指差した。



言われて気づく。


確かにそうかもしれない。


楽しいことなんて、そうそう転がってないからね。



だけど、最近ちょっと考える暇もない位、なんだか振り回されてる気がする。


それがそんなに嫌じゃないことに、自分でも驚いている。


「あ。キンコンカンコンだ。」



右京が呟くと同時に、チャイムが鳴った。


6時間目が終わり、HRがその内始まる合図。



「なんで、これ鳴るんだろう。」



右京が不思議そうな顔をして首を傾げてうーんと考え込んでいる。



そんな様子も、ツボにハマった僕は可笑しい。



「さ、そろそろ行かないと」



僕が苦笑交じりに言うと、右京はきょとんとする。



「決闘をしにさ。」



負けるけど、と内心ぼやいた。



「あ、そうだった」



思い出したように手を叩いて、右京はぴょこんと立ち上がる。



入り口の鍵が掛かっているフェンスを乗り越え、隠れるように裏口に回ると右京が後ろについてくる。



校舎の中に入って、図書室に通じる階段を下りようとすると、右京が立ち止まった気配がした。



つられるように振り返ると、右京はキラキラと輝く水面を眩しそうに見つめている。



窓から零れる光が、透き通るような右京の髪を通る。




「クミ」


少しの沈黙の後、僕を見ることなく、彼女は言葉を発した。



垂らされた長い髪の間から時々ちらっと見える横顔は、少し憂いを帯びているように思える。



「何?」



階段を下りる途中の段で僕は訊ねた。



「無くなってしまったらもったいない世界だね」



目を細めながら、切なそうに零れた台詞は、きっと本音で。



そんな彼女を僕は何故だか急に抱き締めたくなるような衝動に駆られ。



思わず伸ばしかけてしまった手を、右京が振り返る前に理性で戻した。





この瞬間だろうか。



君が嘘吐きでも良いから。



いつもなら、面倒臭いことと人助けは大の苦手な僕が柄にもなく、



輪郭はまだぼやけていたけれど、やけに強く、



君の、ヒーローになりたいと思ったのは。

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