目が覚めてから見る悪夢



なんだろう。



なんだかとても悪い夢を見ていた気がする。



少し頭が痛い。



どんな夢だったかは思い出せないけど、



ひどかった気がする。




でも。




きっと目を覚ましたら、僕の日常はやってくる。




今まで通り普通に。




平凡で、何の期待もできないような、毎日。



それでいい。




ふわふわとした意識の中で、そう思うと、僕は瞑っていた目を開いた。



この白い天井は…



兄貴のマンションの寝室だ。



なーんだ。



僕ってば、また予備校に近いからって、兄貴ん家に泊まっちゃったんだな。



カーテンの隙間から射し込む光が眩しいけれど、部屋は冷房がかかっていて心地よい温度だ。



あれ。なんだか身体が痛いな。



なんだっけなぁ。



ま、どうでもいいか。



もぞもぞと兄貴のクイーンサイズのベットで寝返りを打つと、僕はもう少しだけ、このまどろみを楽しもうとした。



のだ、が。



寝返りを打った先に、二つの青い目が僕を凝視しているのをとらえた瞬間、僕の瞼はぱっちりと開いた。



そりゃもうバチッという効果音をつけたって言い過ぎではないくらい。



青い目は、目から上だけをベットの淵からにょきっと出して、じっと僕を観察している。


僕の背筋に汗がたらりと伝ったのがわかる。


冷房は適温。


だけど、妙に寒気がする。


ばっちりと目を開けたまま、固まった僕は、もう一度目をゆっくりと瞑る。



これは夢だ、と、頭の中で言い聞かせる。



きっと、よくない夢の続きだと。



そして、そろーっと薄目を開く。



―いる。



まだ見える。



二つの青い目が、瞬きもせずに僕を見ている。



どうか、お願いだから、どっかに行って欲しい。



泣きたいような気持ちになりながら、僕は半ば念じるようにもう一度ぎゅぅっと目を瞑る。 




「クミ」



しまった。



僕としたことが。


目を瞑ることで、視覚はシャットアウトできるものの、聴覚はできない。


でもどうかこれがただの悪い夢でありますようにと願うのに。



「クミ。寝たふりしないの」



どうして、あなたは僕を呼ぶのでしょうか。


それもはっきりと、省略形で。


昨晩からの出来事が走馬灯のように、僕の頭を駆け巡る。



途端に、身体中の痛みがやけにリアルに感じ出す。



うん。痛い。痛いはずだよ。



「こら」



いて。いてて。



頬をひっぱられている。



そして、あなたの手はとても冷たいのです。



そこへ、扉が開く音がする。




「お、右京。駄目だよ。卓は一応怪我人だからね。今日は安静にしてやって。」



兄貴だ。


助けに来てくれたんだ。



……いや。。



そうじゃない。



問題はそこじゃない。



兄貴が彼女を右京と呼んでいる。



いつの間にそんなに親しい間柄になったんだ?



僕が気を失っている間に?



むしろなんで兄貴の家にあの女が居るんだよ?



え、ちょっと待って。本当に僕ワカラナイ。



頭の中がクエスチョンマークで埋め尽くされてしまいそうになり、僕は現実の世界で悪夢を見ることを潔く認め、目を開けた。


「そっか。そうですね。わかりました。」



右京は素直に(敬語なんか使ってやがる)頷くと、僕の頬を突然パッと離した。


僕のかわいそうなほっぺは打ち付けられて、痛い。



下がベットで良かった。


ベットでも痛いのに、これがコンクリとかだったらそんなんじゃ済まされないだろう。




「あ、卓。起きた?」



頬を押さえてむくりと起き上がった僕を見て、兄貴がほっとしたように訊ねた。



「…なんで、この子がここにいんの…」



むすっとしながら訊ね返すと、



「…右京、向こうで朝ごはんを食べておいで」



「はーい!」



兄貴は右京を部屋の外に出るよう、やんわり促す。



右京は元気に返事をして、小走りにキッチンへと向かった。




「ねぇ、あの子、なんでいんの?」



ベットに座った状態のまま、僕が再度訊ねると、兄貴はベットの近くにやってきた。



そして小声で言う。



「彼女、暴力的な親から逃げてきたんだってさ。」



は?



どーして、そうなった?





「だから、俺ちょっと力になってやりたくて」




節目がちに心配そうに話す兄貴を、信じられないような気持ちで見つめる。




兄貴の目は節穴か?




暴力的なのは、彼女自身でしょうが。



「いや、警察に行った方がいいんじゃね?」



至極真っ当な提案だと僕は思う。



「…それが、見つかると施設送りだから嫌なんだって。不憫だよなぁ」



この御人好しの馬鹿兄貴が。



とは言えないけど。



「じゃ、面倒見るの?」



僕の問いに、兄貴は曖昧に頷く。



「暫く、ね。だけど俺は何かと忙しくって、面倒見てやれないから―」



ちら、っと僕を見る。



「卓。同い年だって言うから、仲良くしてやってね。高校も暫く一緒に通えばいいよ。ワケありでって、先生にも俺話してみるから。」



いやいやいや。



僕の兄貴も頭がおかしくなってしまったんでしょうか。



「親父とおかんには、なんて説明するんだよ。」



「んー。俺ん家に居ればいいんじゃない?言わなくても。それか一時的な留学生とか。」



腕時計を見ながら兄貴がこともなげに言った。


なんで、そんなにポジティブ思考なんだ?


そしてどうしてそこまで他人の為にしようとするんだ?


これだから、顔良し頭良し性格良しのスポーツ万能は駄目なんだよ。



しかも何?



僕が?僕があんなドリームガールの面倒を見るの?



はっ、ごめんだね。



絶対に見てやるもんか。



あんな暴力怪力女に暴力振るう親がいるんだったら見てみたい。




「兄貴、僕の怪我は…」




そう言ってさっき引っ張られた方の頬を、指差す。



僕は怪我させられているんです。だから彼女とは関わりたくない。




「あぁ、それね。お前もドジだなぁ。回転椅子で滑って壁に激突してひっくり返るなんてさ。高校生にもなって何やってるんだよ。全身打撲みたいになってるぞ。」



ほぉ。


そうなっているわけですか。



「ま、とにかく。ここの家か実家かはお前に任せるから、適当にしてやって。ほとぼり冷めれば彼女もきっと考えるだろうからさ。俺もう時間ないから行くわ。鍵閉めとけよ。朝飯作ってテーブルの上に置いてあるからつまんでなー」



お大事にーと言い残し、兄貴は部屋を出て行った。


残された僕は、暫く考えることを止めた。


頭をくるりと回転させて、時計に目をやる。



時刻はジャスト7時だ。


今日は土曜日だ。


予備校のある日でもある。



いつも通りだ。


毎週のことだ。


それなのに、そこに。



非日常が入ってきてしまう。


妄想癖の女。


考えたくなくなるのも当たり前だ。


しかもだ。


あの右京とかいう小娘、僕に言っていたのと話が違う。


あんなにぶっとんでいたのに、信憑性があるような(ないような)話を兄貴にしている。


なんでだ。


腑に落ちない。



地球滅亡の危機はどうなったんだ。


絶対ふさげているとしか思えない。


あの女、絶対確信犯だろ。


記憶あるだろ。


精神はたぶんおかしくないだろう。



そこまで考えるとだんだんムカムカしてきて、僕はずきずきと痛む身体をひきずりつつ、寝室を後にする。



そしてリビングに通じるドアの前に立ち、すぅーっと息を吸い込んで、




「おいこら!」




バーン!という音を立てて開けた。




「お?」




もっきゅもっきゅとハムスターの頬袋のごとく口いっぱいにクロワッサンを頬張りつつ、迷惑因子は僕を見て首を傾げた。




「なんで平和に朝ごはんしてるんだよ!地球が滅亡するんだろーが!?」



もう、本当にこの子意味わかんない。



「まぁまぁ。クミもこっちきてご飯を食べなよ。ここの食べ物すごいおいしーよ」



怒りに震える僕と違い、右京は落ち着き払った様子でぽんぽんと隣の椅子を叩いた。



いやいやいや、違うでしょ。



あんたんちじゃないから。



心の中でツッこむ。



「まぁまぁじゃない!君、僕に言っていたことと兄貴に言ってること、話ちがくない?暴力的な親から逃げたなんて言ってなかったじゃないかよ。しかも、僕を吹っ飛ばしたの君だろ?」



怒りに任せて言いたいことをぶちまけるも、相手は飄々としていて、視線はハムエッグに向いている。頭の中で『次はこれ食べるか』と決めているに違いない。



「うるさい男は嫌われるよ」



悪びれもせずに、そして僕を見ることをしないまま、ぴしゃりと言い放つと、彼女はフォークをハムエッグに突き刺した。



何なんだよ。



マジでこいつ、何なんだよ。



自分の予想している反応が全く返ってこないので、次の手をどうしていいか悩む。


自分自身の内にある苛立ちに座ることすらできそうにない。



そんな僕はただ突っ立って、幸せそうに朝食を済ませ、ごっきゅごっきゅと音をたてながら紅茶を飲み干した彼女を見つめていた。



「ぷふわぁー!あぁ、美味しかった。クミのお兄さんはレストランでも開いたらいいよ。きっと繁盛するよ。」



満足げに勝手な感想を述べると、椅子に座ったまま僕を見た。



あぁ。


口の端にクロワッサンのカスが付いていようが、


どんなドリーマーだろうが、


暴力女だろうが、


こんだけ腸が煮えくり返っていようが―



見つめられると全て吹っ飛んで、胸が高鳴るくらい、彼女は綺麗だった。



……待て待て待て。



僕は目を逸らさないようにしながら、唇をぐっと噛んだ。



騙されるな自分。


強くあれ自分。


惑わされてはいけない。


相手は美人の面をかぶった変人だ。



非日常だ。


 「…じゃ、いこっか」



突然、右京はにこりと微笑んで、立ち上がった。




「―は?」




僕の頭は一瞬真っ白になった。



どう見たって怒り心頭の僕を前に、この女、一体何を言い出すんだろう。


しかもさっきから僕の質問をことごとく無視してやがる。



呆然とする僕の前をスタスタと通り過ぎて、右京は玄関へと向かう。



「ちょ、ちょっと待てって」



その背中を追いかけて、咄嗟に肩を掴んだ。



「?何?」



首だけ振り返ると、右京は不思議そうな顔をして僕を見た。



「何って…どこに行くんだよ」



そんな僕の質問に益々不思議そうな顔をすると、右京はふと思い当たるように、あぁ、と呟いた。



「地球滅亡を阻止しに」



さらりと言い放ち、石と化した僕を置いて、彼女は歩を進める。



僕、もう、勝てそうに無いです。



家の中なのに、初秋のような風を感じつつ、僕は心の中で敗北を宣言した。


「ねぇ、クミ。最初あたしを見つけた所に連れて行ってくれない?」



玄関を出たところで、ドアを開けたまま右京は言った。



肩を落としながら、彼女の後ろで屈んで靴を履いている僕は、



「…仰せのままに」



すっかり脱力して答える。



よくわかんないけど、もうどうだっていい。



いや、ほんとに、だってこの子、つい数時間前まで瀕死だったんだぜ?確か。


なのに僕より元気ってどうよ。


そこからしてもう意味不明じゃん。



そんな風に考えていると、上からクスリと笑い声が聞こえた。



怪訝な顔を上げると、右京はこっちを見て楽しそうに笑っている。



うん。かわいい。



…そうじゃなくって。



はぁ、と溜め息を吐いて俯くと、僕はのろのろ靴紐を結んだ。


午前中だというのに、刺す様な直射日光。


あぁ、そういや今日は予備校にいかなきゃならなかったのに、と心の隅でおかんの鬼顔が浮かぶ。


でも、最初っから行く気なんかなかったんだから、まぁいいかと思い直し、僕は立ち上がった。



騒がしい蝉の鳴き声が、ただでさえ暑い温度をさらに上げた気がした。



エレベーターに乗る所から始まって、公園に辿り着くまでというもの、右京はあちこちを物珍しそうに見回していた。



僕は彼女に言われて渋々案内しているのに、はっと気づくといつの間にか姿を消していて、違う場所で何かを観察していたり、お店に入ってしまったりしている。大半は誰かに話しかけて迷惑をかけている右京を探すのに苦労したので、途中何度も振り返って確認しなければならない羽目になった。



それで気づいたことがある。



彼女が着ている服は、僕のだ。



僕が兄貴ん家に泊まりに行った時に置いていった服を着ている。



僕は細身だし、身長も170位しかないので、大体一緒らしい。


しかもちょっとお気に入りのカーゴパンツ。


それからgood day!の文字が入った嫌味なのかって思うTシャツ。


靴は僕のじゃさすがにちょっと大きかったのか、見覚えがないから彼女のだろう。



「…ねぇ、あの夜…君はあの公園に居たのに、なんで場所わかんないの?」



公園まであと50m程の所にある自販機前。


右京はなにがそんなに面白いのか、業者が中身を補充している様子をじぃっと見つめている。


業者のお兄さんはさぞかしやりにくいだろうな、と可哀想に思いながら、少し離れた電信柱辺りで僕は彼女が飽きるのを待っていた。


他人のフリができるものならしたいと願う中で、ふと疑問に思って訊ねる。


右京はちら、とこっちを見るが、すぐにぷぃっと自販機に戻した。



―ほんと、さっきから僕の話は無視だよな。


いいけど。


もう待っててやらねーから。



前に向き直ってポケットに手を突っ込み、歩き出す。


帰りにコンビニ寄ってアイスでも食おうかな。


もう、色々現実逃避したい。



未だに僕の心は収集がつかない。


公園の入り口まで来て、やっと後ろをそろっと振り返った。



「うわっ」



思わず仰け反る。



だって、すぐ後ろに彼女は来ていたんだから。



ちょっと…いや、かなり、…近い。




それに、なんの気配もしてなかったし、足音もなかったように思う。


どうせ自販機のとりこにでもなっているのかと思っていた。



「驚かせないでよ」



八つ当たりすると、右京は何も言わず得意気にふふん、と鼻で笑った。



「ここから見えるだろ?あの小山のてっぺんだよ。」



もう何も気にするまい、と心を無にしながら、山を指差す。



右京もそっちを見る。



「…へえ……」



どんな気持ちでいるのか、さっぱり読むことのできない表情だった。



まぁ、最初から彼女が考えていることは、僕には何ひとつわかりゃしないんだけど。



どうも山に登りたいようだったので、僕はそこまで行ってあげた。


狭いけれど開けている山のてっぺんは、正に真夏の灼熱地獄で、僕は黒いTシャツを着ていることを後悔した。



「…暑いね」



話しかけても右京は上の空で、何か考え込んでいる様子だった。


だから僕も黙って、一刻も早く帰れますようにと願う。


額から落ちる汗が頬を伝う。


日光を遮れるものがないこの場所は、その汗さえも一瞬で蒸発させてしまうんじゃないかと思う程暑い。



「…クミ。」



暑過ぎてぼぅっとし始めた頃、やっと右京が口を開いた。


喉がカラカラで声を発することのできない僕は、首だけを動かして彼女を見た。




「ここは、地球なのね?」




落ち着け、僕。



彼女の突拍子もない問いかけは、今に始まったことじゃない。



「…僕は、今までもこれからもずっとここは地球だと認識しているけど?」



淡々とした口調でそう答えると、右京は眉間に皺を寄せた。



「間違いないのね?」



僕が間違っているのなら、逆立ちしながら土下座して謝るよ。



若干萎えてきた心で僕は健気にツッコミを入れる。



「間違いない。ここは、地球だよ」



適当に頷きながら念を押すが、右京の眉間の皺は益々深くなるばかりだ。



「じゃ、クミが人間だって言うのも…間違いじゃないんだ…」



気のせいか、少し肩を落とした彼女は、切なそうに呟いた。



貴女が残念がろうと、僕は人間で良かったと思ってますけど。



「…じゃ、やっぱり馬鹿なんだ」



馬鹿はあんたの方だろう。


カチンときた僕は、右京を睨みつけるが、彼女の視線はどこか宙を漂っていて、がっかりしているように見える。



勝ち気な雰囲気だった右京が、ここまで意気消沈しているのは出逢ってからというもの初めてだったので(まだ24時間も一緒に居ないんだけど)、僕もなんだか拍子抜けして、というより若干心配になって、寄せた眉を戻した。



「…どういう意味だよ」



そう訊ねると、右京は寂しそうに小山から見える風景の方へ顔を向けた。



「人間てさ。自分たちの住んでいる星について、なんとも思わないの?」



右京の言葉に、僕は吹っ飛ばされた時の情景が思い浮かんで、身体の痛みを再確認する。



右京は僕の言った言葉に対して言っているのだろうか。



僕にとって、明日が来るか来ないかは大して問題じゃないってことを。



「…それは僕がそう思っているだけで、他の人もそうとは限らないと思うけど」



彼女の気落ちしている理由はよくわからないけど、とりあえずそう答えた。


右京に僕の言葉が届いているのかどうか、わからないけれど。



「人間は、無償で受けているものに、気づかない」



独り言のように、右京は呟く。



群青の瞳が、憂いを帯びているように見えて、僕は思わず彼女の肩を掴んだ。



それでも、右京はこちらを見ようとしない。



「だから、亡(ほろ)んじゃうのね。こっち側がどんなに助けようとしたって、当人たちがなんとも思っていないんだから」



何かを諦めたかのような、声音だった。



薄ら笑いさえ浮かべているものの、泣きそうな表情で、僕はなんだか不憫に思えて、つい、



「何を言っているのか、僕にはわからないけど…もしも僕で力になれることがあるのなら…」



うっかり心にも無いことを口にしてしまった。



しまった、と口を覆うが時既に遅し。



「本当に!?」



嬉しそうにこちらを見た右京は、僕の両手を取って、



「嬉しい!」



そう言って笑った。

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