第6話 


 「同窓会?」 

 

 昼時の賑わう食堂で、金田から伝えられた言葉は予想外のものだった。

 

 「せや、30日に中学の同窓会あるやろ。勿論お前も行くやんな?」

 

 「……いや、僕呼ばれてないし。そんなんあるんも初耳や」

 

 「えぇっ……、なんでや?」

 

 金田は僕の言葉を聞いて目を丸くした。


 そりゃあ虐められてた奴に連絡なんて来ないだろ、お前も知ってるだろう、と金田を詰りたい気持ちを僕は飲み込んだ。

 金田相手に自分からイジメられてただなんて口にするのは、僕のプライドが許さない。 

 

 「そうかぁ、カモやんずっと東京やったんやもんな。主催も住所分からんようになったんやな」

 

 「……今は実家やけどな」

 

 堪らず僕がボソッと呟いた言葉は、金田の耳には届かなかった。

 

 「せやかて、ほんま懐かしいよな。こうやってカモやんと喋るん、十五年以上ぶりやろ」

 

 「せやな、中学行ってからお前、全然絡まんようなったから」

 

 そう言った自分の声音に、無意識に嫌味っぽい響きが滲んでいて、僕は少し情けない気持ちになる。

 

 「違うクラスなったしなあ。俺は部活仲間もおったからそっちと絡むようなって、カモやんも何か俺の事避けてる感じやったやん。でも、俺は前みたいに仲良うしたいて、ずっと思ってたんやで?」

 

 「はっ、ホンマかいな。お前、調子ええ奴やからなあ……」

 

 僕はアイスコーヒーのストローを咥えながら、金田の言葉を鼻で笑った。

 この喫茶店自慢のブレンドコーヒーは、金田言った通り香り深くて美味かった。

 

 「なあ覚えてるか?二組のリサちゃんおったやん。あの子、アイドル目指して東京行ったけど全然売れんくて、今セクシー女優やってんねんて」

 

 「えっ、マジで」

 

 「リサちゃん、お嬢様で優等生やったのにな。人生って、分からんなあ」

 

 「確か、金ちゃんが、小三の時に好きやった子やんな」

 

 「せや。俺の初恋の女で、俺が人生で初めて振られた女でもある」

 

 「せやったなあ。でも、金ちゃん惚れっぽいから、すぐ別の子好きになってたやん」

 

 「真理ちゃんに、遥ちゃんに、香織ちゃん……」

 

 感慨深げに金田が呟いた名前はほとんど記憶なかったが、一人だけは僕にも思い出す事が出来た。

 

 「可愛かったな。香織ちゃん」

 

 「五年の時の林間学校で、好きな子言い合いっこしたら、お前も香織ちゃん好きかも知れん言い出して、俺、どないしよかと思ったわ」

 

 「ああ、そんな事もあったかな……──林間学校言うたらさ、エロ本が裏の森に落ちてたって聞いて、皆んなで夜、抜け出したなあ。アホなスタンド・バイ・ミーみたいな事やったよなあ」

 

 「あー、あったあった。ほんでツカ先に見つかって、めっちゃ怒られたなあ」

 

 「うわっ、ツカ先懐かしい。ツカ先も、もう定年で引退してるやろな」

 

 「せやなあ、もう歳、七十歳以上になってはるやろしな」

 

 「──……金田は。その、……聞かへんねんな、どっちが好きなんか」

 

 「何がや?」


 まるで小学生の頃に戻った様に、あまりに金田が普通に話してくれるから、さっきからずっと抑え込んでいた疑問が思わず喉から零れ落ちた。僕が濁した言葉に、金田は恍けているのか本気なのか分からない、ポカンとした顔で返事をした。

 

 「分かってるやろ。僕、話し方とか変やん。初対面でも絶対聞かれるんやわ。男と女どっち好きなんって」

 

 「ほんまかいな。今時そんなん、わざわざ聞き出すん、セクハラやろ?」

 

 「やっぱり市役所は、ポリコレとかちゃんとしてるねんな」

 

 「せやなあ、研修めっちゃあるわ。俺らが率先して時代の変化に合わせていかんとね。市民の皆様に正しい人権意識を示していかなあかんやろ」

 

 「何や格好ええなあ、金ちゃん。“役目”を請け負う“人”で、“役人”やもんな」

 

 「役人って悪口以外で呼ばれる事ないから、褒められると新鮮な気分やわ」

 

 僕が褒めると、金田は面映げに頭を掻いた。

 

 「……正直言うてな──、」

 

 金田は僕のそんな小さな呟きを聞き逃さず、居住まいを正した。

 僕は逃げ道が塞がれた事に思わず苦笑する。

 

 「正直分からんねん。思春期からずっと、性欲は女に対して向いてるし、僕は女が好きやと思っとったんやけど。ほんまは確信持って誰かを好きになった事、今まで一回もないねん。恋愛感情とか実際のとこよう分からんのや。流石にこの年になって、おかしいんやと思うけど……僕みたい変な奴になんか、恋人なんか出来へんし、別に困ったことなかったから、それについて悩むのもずっと前に辞めたわ。けど、絶対に男は無理かと聞かれると……うーん、やっぱり分からんわ……もしかして、バイセクシュアルって奴なんかな」

 

 「どうやろなあ。最近は性的指向を決めてない人もおるみたいやで。クィアやったかな。今はLGBTQ+言うんやて。大人になっても恋した事がなかったかて、そんなおかしい事やないと思うけどな」

 

 「僕こんなんやから、気持ち悪いやろ」

 

 「何がや?」

 

 「変やろ、周りと違うやん」

 

 「良いんやないか?少なくとも俺は、カモやんが、同性愛者でも、両性愛者でも、そうやなくても、全く気にならんで。今時、そんなん自由にしたらええと俺は思うで。誰が誰を好きになってもええし、好きな格好して、好きな風に振る舞ったらええねん」

 

 金田の意見は、リベラルで健康的な意見だと思う。しかし、それがあまりに理想主義だと僕はこの人生で実感している。

 人類とは、絶対的な共通認識でもって集まった群れで暮らし、その集団から逸脱する種は徹底的に排除する事で発展した生き物だ。その生存本能の前に理想の本質はあっさりと上書きされる。人間は逸れ者を排除する為の理屈に、正義というラベルを後付けで貼り付ける。強者はその正義という尺度で以って、いつも僕の様な存在を『お前はそっち側だ』と分類し、排除する。誰もがその追放の無謬性を疑わない。そうでなければ、人類が生み出した正義という尺度は、必然的に内包する矛盾により必ず崩壊するからだ。

 弱者である限り、僕の様な人間はいつも批難され、除け者にされる。

 弱者である限り、我々はただ沈黙し、身を潜め、搾取される側に回るより他に生きる道はない。

 抑え込み隠した気配が少しでも漏れ出れば、それは群れからの追放を意味するのだ。彼らから見て我々は、耐え難い悪臭を纏っているのと同じなのだろう。


 僕は昔から自分の性別に拘りが無い、……のだと思う。正直、金田に話した通り自分でも良く分からない。発達障害を持つ人間には、Xジェンダーが多い傾向にあるというのは聞いた事がある。嘘か本当かは知らない。ソースは信憑性のないネットの書き込みに過ぎない。

 発達障害が引き起こす数々の問題に比べれば、自分の性愛の傾向なんて、僕にとってはどうでも良かったので、深く探求した事はない。

 三十年間、恋人も居なかったし、そんな面倒そうなものを作りたいとも思えなかったので、性自認が問題になった事は無かったのだ。

 

 「せや、同窓会に行ってみたら、カモやんにも素敵な出会いがあるかも知れんで?」

 

 そんな事を言ってのける金田の無邪気さに、僕は顔を顰めた。

 

 「行かへんわ、絶対。そもそも呼ばれてもないのに行ったら、何であいつ来たんやって言われるやろ」

 

 「誰が言うねん、そんなん言う奴おったら俺が怒ったるわ」

 

 「この歳になってまで、クラスメートに気持ち悪い言われるの嫌やし、行かん」

 

 「言わんやろそんなん、中学生やないんやで」

 

 何故か金田はしつこく食い下がって来た。主催者でもないくせに、わざわざ呼び止めてコーヒーまで奢って、何でこんなに僕なんかを誘う事に必死になってるのだろうか。色々と考えてみるものの、僕にはその理由が全く分からなかった。


 金田がおしぼりで顔を拭いて汗を拭った。コップの中の氷が滑って、丸みのある軽やかな音が鳴る。

 黒い海に浮かぶ流氷が、レストランの窓からの光を集めてキラリと光る。その光景をじっと眺めていると、僕は何だか吐きそうな気分になる。プカプカと浮いているコレは一体何なんだろうか。コレはどうしてこういう風に透き通っていて向こう側が見えるのだろうか。すごく変なものだ。コーヒーも、氷も、コップも、ストローも。奇妙な形と、奇妙な色合い。みんな当たり前に受け入れていて、気にも止めない。

 

 「直接、言われやんでも、絶対影で言われるやん」

 

 「影で言われるんやったら、言われてないのと同じやろ」 

 

 とても理解できない理屈である。この男はメンタルが強いを通り越して、鈍感なのではないか。僕は金田との間に、どうしても分かり合えない溝の存在を感じた。

 

 「例え心の中だろうと、人から気持ち悪がられるのは辛いんや。金ちゃんみたいな奴には分からんやろけど」

 

 「気にし過ぎちゃうか。案外誰も他人の事なんか気にしてないで。とにかく、まだ日にちあるし、前向きに出席考えといてや」

 

 金田は拒絶しようとする僕からメッセージアプリのアカウントを聞き出し、いつの間にか、僕達は連絡先を交換し合っていた。

 

 これだから、天性に人好きのする奴は恐ろしい。 

 朗らかで、人懐っこくて、話し上手で聞のき上手。金田は僕とは全てが正反対の人間だった。

 

 「──でもまあ、もし悩んでるんやったら、試してみてもええんやないか?」

 

 僕が金田のほとんど図々しいと言って良い程のコミュニケーション能力に半ば呆れていると、思い付いた様に金田はそんな事を言った。

 

 「何がや?」

 

 「恋愛や。男でも、女でも、一回試しに付き合ってみたら、どんな感じか分かるやろ」

 

 「いや、モテへん言うてるやん。そもそも出会いが無いんやわ」

 

 「せやったら、そういう出会いの場行ってみるとか」

 

 「無理無理、コミュ障やもん。第一、無職の三十路で精神障害者やで。こんな奴、誰も好きになってくれんわ」

 

 「じゃあ、まずはプロで腕試しやな。風俗とか、デリヘルとか」

 

 「金田、その発言は役所ポリコレ的にセーフなんか……?」

 

 「役所ポリコレ的には大アウトやが、親友の助言としてはセーフや」

 

 僕が胡乱な目をして向けた言葉に、金田は自損満々に笑ってそう返した。快活なその笑顔に毒気を抜かれた気分になり、僕は思わず正直に白状してしまう。

 

 「……まあ、それは、考えた事無い訳やない」

 

 「そーか、そーか。ほんなら、そっちの方も相談乗るから。また、進展あったら教えてや」

 

 「エロ話聞きたいだけやないんか、お前」

 

 

 

 家に帰ってから、僕は愉快な気分だった。金田との会話を反芻しては、思わずにやけてしまう。気持ちが高揚していた。久々に誰かと話して笑い合った気がする。まるで小学生の頃、僕にとっての人生の絶頂に戻れた気分だった。

 呼ばれても無いし、同窓会に行く気はないけれど、メッセージアプリのフレンド欄に金田のアカウントがあるのを何度も確認して、それだけで喜ばしい気分になる。

 ダックスフンドの写真のアイコンに『takayuki』とローマ字表記の名前。連絡先を交換した時に、そういえば金田は『貴之』という名前だったと思い出した。それほど、僕にとって金田は、とっくに忘れていた過去の存在だったはずなのに。

 メッセージアプリは仕事をしていた時に連絡を取る為に入れさせられたもので、フレンド欄には、どんな人だったかも忘れた元職場の人達の名前が並んでいる。その中で、金田のアカウントだけが特別なものに思えた。


 そんな風に胸を踊らせながらも、自分の中の冷静な部分は、多幸感と呼べる程の感覚を持て余す自分の浮かれっぷりを嘲笑っていた。


──馬鹿じゃないのか、向こうは久々に会った知人とちょっと世間話した程度にしか思ってない。こんなに浮かれるなんて、重たいし、気持ち悪い。痛い奴。


 その夜、浮かれたままの僕は、以前より人生経験として体験しておきたいと考えていた派遣形ファッションヘルス、所謂デリヘルに初めて挑戦してみる事にした。金田にまた会った時に、もし『アレはどうなったんだ』と聞かれたならば、得意げに体験談を語りたいという欲求が抑えられなかった。

 僕が冗談を言って、金田がそれを笑ってくれる。そんな妄想に伴う幸福感は抗い難く、自分の欲求に歯止めが効かなかった。


 僕はあちこちの銀行に散っていた、自分のお金の残りを預金通帳からかき集めた。


 ずっと僕自身を責め立てている理性が『無い金を使って、そんな事をしてる場合じゃないだろう』って警告を出して、諌めようとしていた。良く分かっているのに、それでも僕は止まれなかった。いつもそうなのだ。今の僕は躁状態に入っていた。こうなると自分の衝動がどうしても抑えられない。後で酷く後悔するのは目に見えているのに、自分自身の行動に抑止が効かないのだ。


 僕がネットで条件を探して見つけた激安デリヘルのお店は、大阪に在籍しているみたいだから、こっちに来てもらう交通費の上乗せ分も払わなくてはいけないらしい。さらに指名料や、嬢に付いた特別料金、その他諸々トラブルに備えて加味しても、五万円ほどあれば、まあ安心だろうと思えた。

 本当は近所の目もあるし、家主が留守とは言えお婆ちゃんの家にそんなものを呼ぶのもどうかと思ったが、ホテル出張でデリヘル嬢を呼ぶには宿泊代や交通費諸々、僕の財産では無理そうだったので諦めた。


 サイトの写真と紹介文から、自分の好みに合いそうな女の子を探す。

 写真はバチバチに加工されていて素顔なんて分からない。多分、加工済みの写真でふっくらして見える子は、実際は結構太っているんだろう。とは言え、僕は痩せ過ぎな女性より、ふくよかな女性のほうがタイプだ。胸は抱きつくと心地よさそうなくらいには大きい方が良い。

 年齢は、十代の女の子は子供にしか思えないので嫌だけど、やっぱり自分よりは若い方が良いので、二十代半ばくらいが丁度良いだろう。イジメられっ子特有のトラウマ意識から、あまりにもギャルっぽ過ぎる子には苦手意識があるものの、大人しそうな女性より、活発そうな女性の方が好みだ。


 そんな風に消去法で取捨選択をしていくと、葵ちゃんという女の子が一番好ましい印象に思えた。金髪のボブヘアで、猫の様な形の瞳をした女の子である。年齢はサイト上では、二十三歳となっているので、実際は二十五、六歳くらいだろうか。性格は真面目で優しくて親しみやすいと書いてある。本当ならば、ずいぶんと僕に都合の良い女の子だ。

 でも、彼女を選んだ一番の理由は趣味の欄に『映画鑑賞』『音楽鑑賞』『読書』とあったからだ。僕は明るい性格で可愛いのに、意外にインドア趣味のある彼女を作る事に憧れを持っていた。

 

 僕はお店に電話をかけると、都合の良いコースを選んで、葵ちゃんを指名した。

 電話での予約は緊張するかと初めは不安に思っていたが、電話担当の男性は初心者の応対も慣れた様子で、聞かれるままに答えるだけで、サクサクと予約を取ることが出来た。

 

 女の子が来るまでの間、僕は自分の部屋のベッドシーツを整えて、お風呂場も適当に掃除したりしながら待機した。

 

 そして、予定時間ぴったりに、呼び鈴が鳴った。

 目的は自分の性的指向の確認だったから、正直言ってそんなに期待はしてなかったのだけど、葵ちゃんは写真よりむしろ可愛く見えて、僕は今更ドキドキし始めた。


 三十歳。周りとは違うかもしれないと自覚が出来て以来、何となく断定を避けていた自分自身の性について、やっと向き合う時が来たのだ。

 

 「ごめんね、こんな汚い家で」

 

 「全然、大丈夫ですよ。懐かしい感じで落ち着くので好きです。お風呂はどちらですか?」

 

 「奥の台所の方にあるんやわ。寝室は二階やねんけど、大丈夫?」 

 

 「オッケーです。お風呂終わったら二階にあがりましょう。あ、一緒にお風呂入ります?別々でも大丈夫ですけど」

 

 「じゃあ、一緒で……」

 

 「やったー。イチャイチャしましょーね」

  

 僕がお金を払ったら、葵ちゃんはお店に確認の電話を入れた。タイマーの時間を確認した後、僕達はお風呂場までの実家の廊下を並んで歩く。古めかしい実家の作りに、若い女の子の華やかなオーラは場違いで、奇妙な気分になる。

 

 「お湯用意しますね〜。あれ、給湯ボタンどこですか?」

 

 「古い風呂だから、蛇口からしかお湯入れられないんよね」

 

 「すごい、レトロ〜」

 

 別に凄かないだろ、と思ったものの、何でも褒めようとする接客姿勢に僕は感心する。大変なんだろうな、こういう仕事って。

 

 お湯が溜まった後、僕達は狭い脱衣場で二人で服を脱いだ。葵ちゃんが服を脱がせてくれたので、小さい頃お祖父ちゃんと一緒にお風呂に入った時、同じ様に脱がしてもらったことを思い出して、僕は少し後ろめたい気持ちになった。

 陶磁器の様な肌に、程よく脂肪の付いた身体の曲線ライン、豊かなバスト。

 裸になった葵ちゃんの身体は、まるで絵画の裸婦像の様で、エロティックさより芸術的な美を感じさせた。


  「そんなにじっと見られちゃうと、ちょっと照れちゃいます」


 「大きいおっぱいだから、つい」

 

 「えへへ、Gカップあるんですよー。鴨居さんは背が高くて、格好いいですね」

 

 どうせ表札があるからと、僕は本名で予約を取った。背が高い事はよく指摘される。服のサイズに困るし、嫌に目立つのでむしろ僕のコンプレックスの一つだ。

 

 「モデルさんみたい」 

 

 「ハハッ……モデルて。褒めるの下手やから、辞めたほうが良いよ」


 思わず笑ってしまった僕の言葉に、葵ちゃんはキョトンとした表情を浮かべた。

 

 「えっ、何でです?」 

 

 「そういうのは褒め殺しって言うんよ」

 

 「アハハ。でも私あんまり高くないから、背が高い人って憧れます」

 

 源氏名通り、向日葵が咲いた様な笑顔が弾けた。僕は既に葵ちゃんを好きになっていた。

 

 プレイの好みや、してほしくない行為について尋ねながら、葵ちゃんは僕の体を優しい手つきで洗ってくれた。僕が初心者で、経験もない事を告げると、「リードするんで安心して下さい」、と彼女は微笑んだ。

 その後に二人で湯船に浸かった。僕の足の間に座る形で居る葵ちゃんが振り向いて「触ってみます?」と言ったので、彼女の大きな乳房に遠慮がちに触れてみる。フワフワとして柔らかい、まさに吸い付く様な肌だ。中心で固さを持って立ち上がる乳首を摘むと、彼女は愛らしい喘ぎ声を漏らした。その声が本能に火を付ける。僕は性急に彼女に口付けた。びっくりしたのか少しだけ小さな体を竦ませた後、葵ちゃんは僕のキスに応える様に、僕の唇を食んだ。小ぶりな唇が温かくて、柔らかい。熱い舌が口の中に入ってきて、僕の舌に絡みつく。舌先を擽る様な感覚に、僕の背骨に愉悦が走る。僕は彼女の技巧的なディープキスに溺れた。

 僕にはキスの経験が過去に一度だけあった。二十歳の頃、働いていたバイト先の飲み会に参加した帰りに、良くしてくれていた男の先輩に急にキスされた。

 その頃、僕は唯一優しく親切にしてくれる、その人が好きかも知れないと思っていた。だから、キスをされても嫌悪感はなかったが、初めてのキスはあまりに無感動で、無機質に感じられるものだった。腕を引かれて隠れた路地裏で、熱烈な接吻を受けながら、体を弄られても、僕の体と心は冷たい石に変わったみたいに何も感じなかった。

『何だ、やっぱり男は駄目なんだな』と思わされた経験だった。

 その時のものと、今のキスは全く違った。まるで全身の血液が全て沸騰する様な気持ちだった。貪るようにキスをし合っていると、体の中心が性的な興奮で熱を持つ感覚に、勝手に腰が揺れた。後ろ手に伸びてきた彼女の指が、優しくそこに触れた。気持ちよくて、堪らず溜息が溢れてしまった。女の子の匂いと、密着する軟肌。頭の中は嵐のような興奮に掻き乱されて、翻弄される。

 

 それから体にタオルを巻いた状態で二階に上がり、僕の部屋のシングルベッドの上で、お互いに触れ合った。全身をリップされ、僕も彼女の体中を舐めた。彼女は舌は気持ちよくて、漏れそうになる声を僕は抑えた。彼女は甘ったるい喘ぎ声を惜しみなく出していた。蕩ける様なその声に耳までも犯されているみたいで興奮させられる。女の子の肌に実際に触れているという事実は、僕を堪らない気持ちにさせた。思考が熱に侵される。

 他人の手や舌に触れられるのは、自分でするのとは全く違った。脳と体中が痺れるような心地だった。

 結局、九十分のコースだったのに、僕は二十分ほどで導かれた。すっかり満たされた気分だったので、僕は残りは休憩したいと彼女に伝え、一緒に狭いベッドに入った。彼女は絡める様に僕の手を握ってくれた。僕達は残りの時間を会話して過ごした。


「鴨居さんって、本名なんですね。偽名の人がほとんどなんで、表札見てびっくりしちゃいました。もしかして、下の名前の『明』さんもそうなんですか?」


 差し出した僕の腕枕に寝転がったまま、葵ちゃんは笑ってそんな事を聞いてきた。


「どうせ表札見られるし、ええかなって思って……いつもお客さんの名前覚えてから仕事してるの?」


「いいえ。毎回覚えられる訳じゃないんですけど。明って、私のお兄ちゃんと同じ名前なんですよ」


「へえ、そうなんや。何かうちの母親がデビルマンが好きやったから、主人公の名前から取ったみたい」


「デビルマン?」


「若い子は知らんよね。つーか、僕もオリジナルは世代やないねんけど、原作の漫画は好きで何回も読んでて最近ネトフリでリバイバル版のアニメやってたりしたよね人気のある作品やからファンからは賛否両論やったけど僕は結構楽しめたけど好きな評論家の人はBLぽい演出がクドいって言ってたなそうそうちょっと前に実写映画化もされたりしててあの映画の方はちょっと……」  


ここまで早口に喋って、僕はハッとして口を噤んだ。


「ご、ごめん。オタクの一方的な話、おもんないよね……」


「いいえ、私もどっちかっていうとオタクなんで、全然楽しいですよ!」


 オタクと自称したけど、葵ちゃんは今時の可愛い女の子って感じでそんな風に全然見えない。けど、最近のオタク女子は普通にお洒落な子が多いと聞く。葵ちゃんもそういうタイプなんだろうか。


 「……あのさ、悪い意味やなくて、単に好奇心からの質問やねんけど、こういう仕事って、どういう子がなりやすいん?」  


「そうですねー。やっぱりお客さんからも女の子らしい人の方が好まれるんで、女の子っぽい子がお店に選ばれやすいかも」


「……そっか。確かに僕も女の子らしい子の方が好きやなあ」

 

 僕は性格について尋ねたつもりだったのが、伝わらなかった様だった。   

 

 「……あの、プロフィール欄見たんやけど、映画どんなジャンルが好きなん?」

 

 「何でも見ますよー。ドラマ系も見るし、ホラーとかアクションとか……でも恋愛系はあんまりかな」

 

 「そっか、僕も一緒やわ。恋愛系はあんま見ぃへんね。葵ちゃんは、読書とか映画とかインドアな事が好きなん?」

 

 「うん。あと音楽も良く聞きます」

 

 「僕も音楽聞くの好きやよ」

 

 「趣味合いますねー。どんな音楽聞くんですか?」

 

 今度は僕が質問される側になった。

  

 「割と何でも……洋楽のロックとか、テクノとか好きかな。クラッシックもジャズも聞くし。ヒップホップも好きやなー。でも、最近の若い子に流行ってる曲はあんまり分からんわ」

 

 「ええー、鴨居さん、まだ若くないですか?」

 

 「若くないよ、もう三十やし」

 

 「うっそ、全然見えない、若い!」

 

 声を弾ませた葵ちゃんに、僕は苦笑いを返す。

 

 「幼いんやよ、精神年齢が。中学生レベルで止まってるんよ。若い子にはどんな曲流行ってるの?」

 

 「あー、最近、私はNOAHに嵌ってます。知ってますか?」

 

 「知らんなあ、ネットで調べて良い?」

 

 僕はスマホで動画サイトを開いて、検索欄に『ノア』と打ち込んだ。

 

 「この人?へー、女性歌手なんや」

 

 「NOAHは全部自分で作詞作曲してて、独特の世界観なんだけど、私こういうちょっと変わった感じの歌、好きなんですよね」

 

 「『怨霊の女』、『窒息死』、『I♡心中』……何か凄いタイトルの曲多いね」

 

 「そうなんですよー。アンチからは、メンヘラとかサブカル気取りとか言われてるみたいですけど、私は明るすぎる流行りの曲より、こういう暗い曲の方がノれる感じで好きです」

 

 「何か分かるわ、僕もサブカルっぼいの好きやし」

 

 「じゃあ、気に入るかもー。ぜひ、聞いてみて下さい」

 

 「うん。ちなみに、オススメの曲は?」

 

 「『Rain』って曲がめっちゃエモいんでおすすめですよ」

 

 話しているうちにあっという間に時間が来て、お終いのタイマー音が鳴った。葵ちゃんは早業で身支度を整えた後、「ありがとうございました。また会ってくれると嬉しいな」と言って僕の手を柔らかく握った。

 彼女が家を出て行ってすぐに、車のエンジン音が聞こえて来た。送迎の車が終わりの時間に合わせて、近くに待機していたらしい。 

 

 今回の体験で、僕はやっぱり女性が好きなんだろうなと思った。確信と言うには弱いけれど、喉元に引っかかっていた小骨が落ちた様に、ストンと納得がいった。

 それは白地だった場所に、ほんの少し淡色が滲んだ程度の僅かな変化ではあったが、一回の経験で得るものとしては十分だった。まさに夢の様な時間で、つい先程まで触れ合っていたはずなのに、火照った体が落ち着いた頃には、すっかり現実感が無い記憶になっていた。

 

  シーツを変えたベッドに寝転がりながら、僕はさっそくオススメされたNOAHの『Rain』という曲を聞いてみた。

 

 再生されたMVは窓に映り込む鈍色の雨空だけを映していた。静かな雨音がピアノの哀しげイントロに重なる。歌手の甘くてハスキーな歌声がゆったりとしたメロディにマッチしている。その心地良い曲調に反して、ひたすらに内省的で暗い歌詞。

 

 久しぶりに、僕は脳が痺れるような感動を覚えた。

 中学生の頃、人間失格や異邦人を初めて読んだ時の感覚。NOAHの『Rain』という曲は、あの強い感情移入を僕に与えた。

 

 NOAHを知った事は、僕にとってデリヘル初体験での思いもよらない、副産物だった。


その夜、金田がメッセージを送ってきた。


『8/30(日)18:00 近鉄奈良駅 行基菩薩噴水前集合』


『同窓会の時間』


『行く気になったか?』


 NOAHについての情報をSNSや動画サイトで漁り、好みの曲を探しては聞き耽って没入していたのに、そのメッセージに向き合ったせいで、突然に見たくない現実に引き戻された様な気がしてうんざりとする。


『着ていく服がないから行かない』


と、僕は返事を返した。

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