第5話
お婆ちゃんが倒れてから、二週間が過ぎた。相変わらず、年金事務所から返事は来なかった。
叔父さんはたまに仕事帰りに家に寄って、様子を見に来る様になった。昼休憩中にもやって来ては、居間で昼寝したり、ご飯を食べたりした。
やけに機嫌が良く、僕にも積極的に話しかけて来た。
「──ほんでな、山田がめっちゃアホ言いよるから、俺もキレてな。『何、抜かしとんねん、カス』って、俺が怒鳴ってボロカス言うてもうたら、皆んな俺にビビって何もよう言わんようなっとるんやわ」
こんな風な、自慢だか愚痴だか分からない壊滅的にツマラナイ話を、延々と僕は聞かされた。
叔父さんはこんな性格だから、ろくに話し相手もいないのだろう。職場で嫌われて孤立しているのが目に見えている。
僕が殴られた後にも、歯向かわず低姿勢で接しているから、自分に服従している人間と見做して安心している様だった。強い者には逆らえないくせに、弱い者にはとことん強く出る、まるで犬の様な性質の男である。
そもそも僕は誰とも出来るだけ話したくないタイプの人間なのに、寄りによってこんな鬱陶しい男と、本来なら安らげる場所のはずの家の中で対面しなければならないのは本当に最悪だった。叔父さんは僕をまるで小間使いの様に扱い、茶を入れさせたり、何かを買いに行かせたりした。
今日もやって来て早々にスマホを押し付けられた。
「なあ、あれ。やり方分からんねん。携帯で動画見るやつ。会社の奴等、みんなそれで見とるんやわ。お前パソコンとかこんなん得意やろ、オタクっぽいやんか」
「えーっと、動画って、You Tubeのこと?TikTokとか?色々あるけど……」
「知らん、映画見れるやつや」
「あー、映画やったら、サブスク系かな。色々あるけど」
「知らん言うとるやろ!月額払ったら、通販で買いもん出来て、映画も見れるやつあるんやろ、それや!」
「あー、アマプラの事かな……」
「多分それや。それ、出来るようにしといてくれや」
信じられなかった。おっさんとは言え、まだ五十代だと言うのに、未だにこんなアナクロな人間が居るのか。
使いこなせないのなら、スマートフォンなんて持つ必要も無いのではないだろうか。爺さん用の電話しかできないガラケーでも使えば良いのに、まさに豚に真珠だ。
この男の事である、どうせ周りがみんなスマホだからとかそういう下らない見栄で、持っているのだろう。
会員登録画面に、叔父さんから聞いた登録用の個人情報を入力する。クレジットカード番号などを聞き出すのは、面倒なのが見えているで、月会費の支払いはスマホ会社からの決済払いにしておけば良いだろう。
会員登録が完了したので、試しに映画のサブスクページを開いてみる。映画『ジョーカー』が、紹介ページに特集されている。
マーベルやDCコミックスのヒーローモノにあまり興味がない僕も、話題を聞いて見に行こうと思っていた作品だ。結局、映画館に行くのが面倒で、公開中に見る機会は逃したが、あらすじを見る限り、僕みたいな人間に響く映画なんだろう。
動画をクリックして、再生する。問題なく動画は再生され始める。
最新作のコマーシャル、制作会社のロゴ表示。それらが終わって、主人公のジョーカーが、鏡に向かって座り、自らの顔にメイクを施している場面が始まった。しばらく見入っていると、叔父さんにスマホを引ったくる様に取り上げられた。
「……ごめん、ちゃんと見れるか試しててん。問題なく見れそうやわ」
「そうか、また分からん事あったら頼むわ」
──まあ、端から礼なんて期待していないが、つくづく育ちの悪い男である。
叔父さんが帰った後、十六時からお婆ちゃんは送迎車に乗って、介護施設に行った。帰ってくるのは明後日の朝方だ。
誰も居ない家の中で、壁掛け時計が静寂を刻んでいる。
十八時が終わりかけてやっと、窓の外が黄昏始める。昔飼われていた猫が爪研ぎして、剥がれたままの廊下の土壁に西日が差している。柔らかな金色が空気を溶かして煌めいていた。
誰も居ない家の中はまるで廃墟だ。この古くて狭い家の中だけ、時間の進みが停滞しているみたいだった。
この家ときたら、外に給湯器なんてないから台所の水道は湯沸かし器が付いてるし、ステンレス浴槽のお風呂は追い焚き機能がないから蓋を閉めないと直ぐに冷めるし、居間の古めかしいクーラーはあり得ないくらいパワーが弱くて扇風機が必須で、暖房機能は付いていないから、冬なると灯油ストーブを押し入れから出してきて暖を取らなければならない。もう令和だというのに、昭和のままに全てが止まっているのだ。
冬になってベランダに置いてある重たいポリタンクから、手動ポンプを使って灯油缶に灯油を補充しなければならない事を考えると、今からうんざりした気持ちになる。身体はガチガチに凍えて、手はしばらく灯油臭くなるんだろう。
夕飯にカップ麺を食べた後、お風呂から上がって、自室のベッドに寝転がる。ちょうど手にしたスマホに、ニュースサイトから通知が入った。
センセーショナルさを競って、コメ欄を炎上させる事に特化した様なネットのニュースサイトの記事は嫌いなのだけど、いつの間にか通知設定がオンになってしまって、切るのが面倒で放置している。
近頃、似たような事件が報道ニュースを賑わせている。
『通勤時間帯の電車で、ピエロの仮面を付けた男が薬品を撒く』そんな記事がトップに出ている。
無敵の人だの、ジョーカーだのこういう奴らが暴れるせいで、僕みたいな人間はますます肩身が狭くなる。
コメント欄も随分と燃え上がっている。
『またジョーカー出たwww』『イキって0キルは草』『厨二病が治らなかった末期患者の成れの果て』『〜無職童貞ジジイだけど失う物何もないので通勤時間帯の電車で無双します〜これもうなろうだろ』『失うもんない奴は怖いねえ』
三十代を意識した時、マインドが突然に切り替わった気がした。もうこういう事件の典型的な犯人像を笑ってられない。
人生なんて決定論的未来の一本道しかない。僕は僕みたいな人間が歩むべき無惨なレールの上を着実に進んで、そして誰にも知られず死んでいくのだ。
我々の人生だって、越冬出来ない虫と変わりない。盛りを過ぎた後は静かに死を待つだけだ。何も成せぬままに死んでしまうのは恐ろしい。
命そのものの存続よりも、奇跡的な確率で与えられた一度きりしか無いそれを、無意味なままに喪失してしまう事があまりに惜しい。
何かをこの世界に残して死にたいと思う、自分だけが夏の終わった季節に取り残されて死んでいくのは不公平だと思う。そんな気持ちが理解できてしまう。
生きる意味を得た他の誰か達が、羨ましいし、恨めしい。
無意味に死んでいくだけの自分の様な存在を、見下し優越感得て何とか生きる事が出来ている、見苦しい自己欺瞞に気付いていない底辺の奴らを、今の自分と同じ場所まで引きずり下ろして、苦しませる事で復讐してやりたいと思う。
そうして仲間を増やす事でこの苦しみを、社会に理解して欲しいと思ってしまう。
このまま、障害者年金も生活保護も通らなかったら、僕はずっと叔父さんに媚び諂って、端金を強請りながら生きなければならないのか。それもお婆ちゃんが生きている間だけで、お婆ちゃんが死んでしまったら僕はこの家を追い出されるだろう。
叔父さんは家を売って金にしたいと言っていた。もうお婆ちゃんが死んでからの事しか、頭に無いようだった。
もし家を追い出されたら、いよいよ死んだ方が楽かも知れない。しばらく引き籠もった今、もう外に出て働ける気がしない。自分に向けられる軽蔑や嘲笑や怒りに、僕はもう耐えられそうにない。
また僕は悩みの坩堝に嵌まり、焦燥感に追い立てられた。駄目だ、深夜に考え込むのは良くないと、そう分かっていたが、結局その夜は深く眠る事が出来なかった。
そこは、僕が実家に預けられるまでの少しの間だけ、二人で住んでいたアパートだった。
ワンルームのアパートの和室で、僕は布団の中でこっそり、夜の仕事に出かける為に着飾るお母さんを眺めていた。
一人で一晩待つのは寂しいけれど、お母さんが綺麗に変身していく様は、シンデレラみたいで大好きだった。
翌日、時間が久々に空いているので、僕は市役所に行く事にした。僕が今置かれている状況も、中川さんに説明しておきたいし、相談したら何か有意義なアドバイスを貰えるかもしれない。
「お久しぶりですね、鴨居さん。この間、私がお休みの日に来てくださったそうで、お電話させて頂いたのですが」
「すいません、市役所から着信があったのは分かってたんですが、電話に出る元気が出なくて、かけ直そうと思ってたのですが、それも出来なくて……」
「お気になさらないで、大丈夫ですよ」
前回訪れた時と違って早めに家を出たので、今日はちゃんと中川さんに会う事が出来た。
中川さんは、いつもは下ろしているセミロングの髪をハーフアップにしていた。柔らかな頬から顎のラインが、まるで仏様みたいに優しげだ。小柄なのにふくよかな体型をしているし、年齢も僕より年上だけど、とても綺麗な人だと思う。特に彼女の涼やかで優しい声色が好ましかった。
きっと家庭でも、優しいお母さんで、良い奥さんなんだろ。
事務スペースに金田の姿は見えなかった。その事に僕はホッとする。
「お加減はあまり良ろしくないですか?」
「は、はあ。ちょっと、どうしてもしんどくて、動けへん日があります……それに、最近は祖母の面倒があるんで、中々家から出れへん感じで……」
「お祖母様、どうかなされたんですか?」
僕は今の状況を掻い摘んで話した。僕が辿々しく話している間も、中川さんは口を挟んだりはせず、少し眉を寄せて同情的な表情を浮かべて聞いていた。
「まあ、それは大変でしたね……」
僕は話を聞いた中川さんが、暴力的な叔父の行為に驚いて、怒ってくれる事を期待していたが、中川さんの反応はいつも通り穏やかで、優しくて気遣いに溢れたものだった。僕は肩透かしを食らった気分になった。
ああ、中川さんは仕事でこんな話は聞き慣れているのかと直ぐに合点がいって、勝手に少し失望を抱いた。僕は中川さんが『それは暴行罪です。今すぐ警察に通報しましょう』だとか『辛いのに良く堪えましたね、もう大丈夫ですよ』とか言って慰めてくれるを望んでいたのだ。
「僕、これから先、どないしたらええですかね?」
僕は自分の状況を鑑みて当たり前の質問をしたつもりだったが、何故か中川さんは困惑した様な表情を一瞬浮かべた。僕は空気が読めない癖に、いや読めないからこそ、人の表情の変化に敏感になっているから、その反応に背筋が冷たくなる心地がした。
──また、何か変な事を言ってしまったのだろうか。
「大丈夫です。きっと年金の手続きは通りますから、安心して下さい。まずは無理をせずにゆっくりして、しんどい状態を治療しましょう」
中川さんはすぐに優しい表情を取り直し、微笑んだ。言葉と表情から、何となくこれ以上会話を深追いするなという気配を感じていたので、それを無視してさらに言葉を続ける為に、僕は中川さんを真似する様に歪な笑みを浮かべて笑ってみせた。
「ゆっくり、ですか。でも、お婆ちゃんの介護の事もあるし、中々出来へん感じで……ここんとこあんまり、寝てなかったりです、ハハハ」
「寝れないのは良くないですね。睡眠は心の健康の為に大切ですよ。睡眠薬の調整を先生に頼んでみるのも良いかもしれませんね」
「今も二種類貰ってるんですが、量を増やしても大丈夫か聞いてみます。……あ、でも、あんまり眠くなりすぎても、お婆ちゃんの世話出来んくなるし……」
ここまで喋って初めて、僕は中川さんの回答が先程からずっとズレている事に気が付いた。中川さんは僕が一番教えて欲しい、倒れた祖母の介護の事と、叔父の来襲に困っている事についてのアドバイスを、意図的に避けて答えている様だった。
複雑な問題過ぎて、中川さんの立場では答える余地が無いのだろうか。それとも、まさか対応が面倒なのだろうか。
いや、そんな風に考えるは、あまりに性根が歪んでいる。物事を捻くれて捉えるのは、僕の悪い癖だ。
「それは大変ですね。お祖母様が、施設に行かれている間は、無理をせずしっかり休む様になさって下さいね」
「あ、あの、中川さん。叔父の方はどうすれば……?」
「叔父様?」
「ええ、殴られたんです。お腹も蹴られました」
「……えっと、どうするとは?」
「えっ……、分からないですが、例えば、警察に言うとか」
「残念ですが、警察もその程度の出来事は現行犯でないと、相手にしてくれませんよ。日頃からDVを受けているならともかく。鴨居さん、違いますよね?」
「はあ、まあ確かに、いつもされてた訳じゃないですね。そうですか、警察は、難しいですか」
「今後は出来るだけ、叔父様と喧嘩なされない様に気を配るしかないでしょうね」
「喧嘩、ですか……そうですね、分かりました。ありがとうございます」
喧嘩、いまいちピンと来ない言葉だ。そうか、僕と叔父さんは世間的には喧嘩したと見なされるだけなのか。
それにしては、大袈裟に被害者ぶって伝えてしまった様な気がして、少し恥ずかしい気持ちになった。
「では、少し時間がかかっているようですが、仮に何かしら不備があるにせよ、必ず年金事務所の方から連絡はありますので、そのままお待ち下さいね。手紙が届いたら直ぐに市役所にお持ちになっていらして下さい」
「あの、念の為、事務所の方に返信までどのくらい時間が掛かりそうなのか、確認してもらえませんか?」
「分かりました、可能ならば、こちらからも確認しておきますね」
そう言って、中川さんは微笑んだ。僕はそれ以上、食い下がる言葉を思いつかず、その場を後にした。
暖簾に腕押しとはああいうのの事だろうか。中川さんとのやり取りは、まるで役に立たない不毛な時間になってしまった。
流石の僕でも、最後の中川さんの返事からは、まともに対応するつもりが無いことが読み取れた。
──まあ落ち込む事はない。嫌われているとか、そういう特別な理由でなくて、やはり単に面倒臭いのだろう。
しかし、自分がおざなりに扱われたと感じるのは、あまり気分の良いものではない。
僕は障害の特性上、そういう対応ばかりされて来たから、せめてケースワーカーさんには真摯に向き合って貰いたかった。
でも、それは仕方の無い事なのだろう。精神障害者を相手にする職業に携わる人が、いちいち打ち明けられる悩み事全てに真剣に取り合っていては、聞いている方が精神を病んでしまうのは想像に容易い。ミイラ取りがミイラになってしまわない様に、臨床の場においてカウンセラーや精神科医は、患者の悩みと精神的に距離を置いて接すると本で読んだことがある。
僕の実体験としても、それを実践しているプロの方が優秀だった。お婆ちゃんが知り合いから紹介されて僕に会わせた、怪しいスピリチュアル系の自称カウンセラーなんかは、浅はかな人生論を振りかざしてこちらをコントロールしようとしてくる奴で、ろくなもんじゃ無かったし。
結局何の成果も得られず、僕は市役所をとぼとぼと後にする。ロビーを通り過ぎて、出入り口の自動ドアを出ようとしたその時、背後から声をかけられた。
「おい、カモやん!ちょっと、待ってや!」
振り返って後ろにいた人物を見て、僕はギクリと硬直する。それは、僕が一番会いたくなかった男だった。
「良かった、間に、合ったわ。さっき、カモやん来てたって、聞いたから……」
慌てて追いかけて来たのか、金田は息を切らしていた。
「……あの、何?」
尋ねる声が思わず怪訝な声色になってしまう。多分、表情も訝しむ様なものになっているはずだ。
「何て。幼馴染みやのに他人行儀やな」
咎める様な言葉と裏腹に、金田は楽しそうにカラカラと笑った。
「ご、ごめん……」
「いや、別に謝らんでもええて。ちょっとカモやんと話したい事あんねんわ。少しだけ時間貰えんか?」
「え、話て……何なん?」
「いや、ちょっと立ち話やと長なるから。昼飯まだやったら、一緒に食堂行かへん?市役所の地下の食堂一般開放してんねん。値段も安いし、親子丼とかめっちゃ美味いんやで」
正直言って、めちゃくちゃ面倒臭いが僕の本心だった。時間なんて取りたくないし、話もしたくない。
「いや、悪いけどご飯、もう食べてもうた後やし……」
本当は昼食はまだだったが、金田から逃げたくて、僕はそう嘘を付いた。
「ほなら、コーヒー一杯だけでも!なっ、付き合ってや、奢るし!ここの食堂、喫茶店も一緒にやってて、コーヒーも美味いんやで。特別ブレンドやねんから!」
日に焼けた分厚い両手を顔の前でパチンと合わせて、金田は言った。
本当は断りたかったけど、奢りという言葉に、貧乏性の僕は抗えなかった。
──あと、コーヒーも好きだし。
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