第2話 

 思い出すだけで、体が震える記憶がある。


 僕には出来ないことが沢山あった。僕は時間が守れなかった。僕は同じ姿勢でじっとする事が出来なかった。僕は宿題を計画的に行う事が出来なかった。僕は靴紐が結べなかった。僕は先生の長い説明を全て集中して聞く事が出来なかった。僕は運動が出来なかった。


 僕にとって、体育祭とそれに向けての練習は拷問だった。


 ある日、僕のダンスの振りが可笑しいと、体育教師は皆の前に立たせて、僕を踊らせた。

 僕は皆んなの笑いものになった。体育教師は僕の踊りを真似して、更に笑った。


 僕がもっと賢くて器用なら、もしかして道化になって、皆んなの人気者になれたかもしれない。でも僕は出来なかった。

 僕は怒った。笑った皆んなに怒った。宥めようとする、体育教師にも怒った。あんなに怒りを覚えたのは、人生で初めてだった。視界が真っ赤になるのを覚えた。怒りと羞恥と無力感は同じ感情なのだと、僕は知った。本当は殴りかかりたかった。僕は出来なかった。僕は貧弱で、無能のくせに最低限のラインを超えられない臆病者だった。


 僕は体育教師から生意気な口を聞いたこと怒鳴られて、せっかく皆んなが楽しく笑っていた空間は、白けきった。僕は凍り付いた空気の中、皆んなの輪に戻らなければならなかった。どれほど皆んなの走る道から脱線していても、僕の生きる群れはそこしかないから。僕は放課後呼び出された。体育教師と担任の先生に叱られて、さらに「そんなんだから虐められるんだ」「もっと周りに合わせなさい」と諭された。不思議と怒りは治まっていた。ただ疲れ果てて、僕は早く帰りたくて先生に謝った。


 いくら怒ったって、僕のダンス上手くはならない。体育祭は無くならない。虐められてからも、最後の意地を張って学校に通っていた僕は、中学二年生の体育祭を休んだ事を期に、不登校ぎみなった。でも、どうでも良かった。一年生の時、仕事を休んで体育祭を見に来てくれたお母さんが撮ってくれたビデオテープには、障害物競走でビリになって、袋に両足を入れてジャンプする障害で、全く進めなくなった僕へのクラスメートからの罵倒が録音されている。「何やってんねん」「キモ」「マジあいつ死ねや」「ガイジやん」 


 実際に僕は障害児だった。それが分かったのは大人になってから、社会の全てから脱落してからだった。僕は発達障害で、特に動作性IQという部分が著しく低かった。僕に運動が出来ないのは、脳の障害のせいだった。いまさら分かっても何の救いにもならないはずなのに、それでも僕はそれを知って、少しだけホッとした。

 例えば生まれつき目が見えない子供の歩き方が可笑しいと、教師が馬鹿にしたら大問題になっただろう。正義感の強い子供ならば、教師からその子を庇ったかもしれない。何故、脳の発達障害は精神障害に含まれるのか、僕には分からない。脳は体の器官ではないのか。


 僕は普通の人の三倍くらいの時間をかけなければ階段をまともに降りられないし、何もない所で自分の足に躓き、目の前の壁の存在に脳が気が付かないでぶつかる。5パーツほどのパズルを組み立てる事が出来ない。例えば椅子の脚が五本あるだとか、そんな簡単な間違いさがしすら出来ない。けれど僕は普通の人達と同じ見た目をしていて、その中で生きなければならない。

 

 でも、僕は勉強が得意だった。僕は絵が得意だった。僕は難しい本をクラスの誰よりも沢山読んでいた。僕には文章力があった。作文コンクールに何度も選ばれた。テストの総合点は常に学年のトップに入っていた。宿題が出せなくても、遅刻を繰り返していても、授業中、じっと座り続ける事が出来なくても、ダンスが踊れなくとも、皆んなを笑かすことが出来なくても、学校は勉強する場所なのだから大丈夫だと高をくくっていた。担任の先生は、僕の内申点を最低ラインにした。僕よりずっとずっと勉強の出来なかった友達より、僕の内申点は低かった。

 

 悔しかった。その頃は見返してやりたいと思っていた。自分の特出した能力に、自信があった。時間を守ったり、宿題を決められた通りに提出したり、教科書を読めば理解できる教師の無駄話を聞いたり、周りの悪口に合わせたり、そういう共存して生きる上で大切な事を、下らない事だと思っていた。


 僕はあの笑われた日に、みんなに怒鳴った気持ちのままに、社会に突撃して、結局玉砕したのだ。


 それは障害だと、医者は言って、僕は薬を飲んで、怒りの感情は『治った』。意欲と怒りは同じ感情なのだろうか。精神の去勢を治療と呼ぶ現代は、いつかの未来に間違っているとされるのだろうか。

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