第57話  キュービットさんおいでくださいな

12月3日 土曜日 11時00分

私立祐久高等学校 保健室


#Voice :萩谷はぎや 瑠梨るり


 みんなで困った顔を突き合わせていても、何も解決しない。

「はい。私が試してみます」

 仕方ないから、手を挙げた。だって、これは、私の大切なタブレットパソコンなんだもの。本当は、今日にでも返してもらいたいくらい。


 保健室の机の上に、のぞき見防止フィルムを貼ったタブレットパソコンを置き、椅子に掛けた。

 もしも、何かが異常になったり、危なくなったら、すぐ介入できるように、USB接続のキーボードとマウスは、タブレットパソコンに繋いだままにした。

 菅生先輩も私の隣に座り、キーボードとマウスに指を載せて待機した。


 他のみんなは、少し離れて、まわりを取り囲んでいる。


「はじめるよ。何か気持ちが悪くなったり、異常を感じたら、すぐに教えて。こっちで、キーボードを操作して、すぐ止めるから」

「はい」

 短く答えた。


「『キュービットさん』を、全画面表示に戻すよ」

 菅生先輩がキーボードを叩いた。


 Curses Circus Qubit ! (カーサス サーカス キュービット)


 畳まれてアイコン表示にされていた「キュービットさん」が、全画面を占有する表示に戻った。

 起動画面が表示された。


 あれ? と思った。

 画面のデザインが微妙に変わっていた。

 あ、広田くんが遠隔で「キュービットさん」をアップデートしたって、菅生先輩からの情報にあった。こういうことね。


 また、あの五十音表に似た文字盤が表示された。

 そういえば、ね、五十音表って、古代インドのサンスクリット語の音韻表が元になっているって、どこかで聞きかじった記憶があるの。


「キュービットさん、キュービットさん、どうぞ、おいでくださいな」

 画面中央に浮かぶ十円玉みたいな円形カーソルを見詰めて、呪文みたいなセリフをつぶやく。

 

 五十音表って、不思議だと思うの。

 新生児は、世界中の言語の母音13種類を聞き分けられるっていうけど、日本語環境にいると、母音は5つしか聞き分けできなくなるの。


「あ」「い」「う」「え」「お」


 この5つしか日本語には母音がない。

 五十音表では、これがあ行。


 この母音に、子音を組み合わせて、か行、さ行、た行、な行…… って並べたのが、五十音表なの。


「キュービットさん、キュービットさん、どうぞ、おいでくださいな」

 ふいに脳裏をよぎった考え事をしながら、セリフを繰り返した。

 円形カーソルが、ぷるりと微かに動いた気がした。


「キュービットさん、キュービットさん、どうぞ、おいでくださいな」


 世界の言語には、アルファベットみたいな表音文字と、漢字やヒエログリフみたいな表意文字があるけど、ひらがなはどちらもちょっと違って、モーラを表す文字なの。


 例えば―― 

 「か」は、ローマ字、つまり表音文字のアルファベットで表すと「KA」でしょ。

 私たち日本語話者は、ひらがなのひと文字をひとつの「音」と感じているけど、本当は、ひとつの「モーラ」なの。

 なので、日本語の歌詞は、音符ひとつに、ひらがなひとつを当てる必要があるの。


「キュービットさん、キュービットさん、どうぞ、おいでくださいな」


 あ、他にも……

 しりとりで勝つには、ら行を使えっていうでしょ。

 ら行は特別で、ら行の単語は極端に少ないの。古くからの大和言葉やまとことばには、ら行から始まる単語はなかったっていうから。ら行の言葉は、すべて外来語なのだそう。

 

「キュービットさん、ここへ、おいでくださいな」

 

 日本語は「ある」の言語。

 英語は「するdo」の言語っていうでしょ。

 日本語は、自然に存在している何かを表す言語なのだと思うの。


 だから、人間がするdo行為を表すようには、できていない。

 文法システム内に、人間を表す言葉、「主語」を持っていない。

 時制もない。

 過去形は、古語の完了形「たり」が変化したもの。古語には明確な文法上の過去形はないの。

 未来形は、いまもないから話者の推量の言い回しで代用している。天気予報が外れるとお天気キャスターが謝るのは、未来を「話者が推量した未来」として話しているからなの。


 日本語の動詞は、英語みたいに主語や時制で変化しない。

 人間の行為を表す、「だれが」や「いつ」を文法に組み込んでいないの。

 だって、自然に存在するモノには、「だれ」も「いつ」も関係ない。人間を超えた何かの存在は、ただ、あるがままに存在している。

 誰が作ったモノでもないし、ずっと存在しているから時間なんて関係ない。


 こうなってしまうのは、日本語は、人間以外の何かの存在を表す言語だからなの。

 だから、「あります」「あらせられます」は丁寧語、尊敬語。

 だから、「します」は謙譲語。


 人間以外の何かの存在を表す「ある」が、敬意を表す言葉。

 人間の行為を表す「する」が、へりくだる言葉。


 「ある」は、ら行変格活用、ら行の言葉。

 「する」は、さ行変格活用、さ行の言葉。


「キュービットさん、ここへ、おいでくださいな」

 するすると、十円玉を模した円形カーソルが滑り始めた。周りを遠巻きにするみんなの息が漏れた。   


 ひらがなは「音」じゃなくて「拍」だから、ひともじで意味を持っているの。

 言霊っていうでしょ。

 ひらがなには、ひともじひともじに、現代人が忘れちゃった何かが宿っているの。


 人間以外の何かの存在を表す言葉、「ある」が基礎になって、言葉ができているの。


 ひらがなひともじ + 「ある」 で言葉ができているの。

 五十音表で、最初の言葉は「あ」+ら行の活用語尾の「る」で「ある」


 「あ」のつぎは、「い」で、「いる」

 人間の存在を表す言葉は、2番目なの。

 

 ひらがなひともじ + あるの活用語尾「る」 で動詞ができているの。

 私たち現代人が忘れちゃった何かが、ひらがなひと文字ずつにあるんだと思うの。


 「ある」「いる」「る」「る」「る」

 「る」「る」「る」「る」「る」

 「る」「る」「する」「る」「る」

 「る」「る」「る」「る」「る」

 「る」「る」「る」「る」「る」

 「る」「る」「る」「る」「る」

 「る」「る」「る」「る」「る」

 「る」「る」「る」

 「る」


 他の単語でも作れると思うけど、五十音表って、人間の存在を度外視した何か、呪術みたいな力が宿っているのかも知れない。


 あれ?


 中央の鳥居のグラフィックの影に、ヒトヒトさんがひとりいた。


「萩谷さん、なるべくタブレットは斜めから見て。真正面から見詰めると、あの催眠をまた受けてしまうから……」

 菅生先輩が注意する声がした。

「はい……」

 あいまいに応えた。


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