第二話 俺と彼女とバレンタイン。

 同棲している婚約者の薫は、大のイベント好きである。


「そういえば、バレンタインを陽人くんと過ごすのは初めてだねぇ」


 そうだねぇ、と俺も返す。


 付き合って2年弱。同棲を始めて約10ヶ月。


 クリスマスやハロウィンなど、いくつかのイベントを一緒に過ごしてきた俺たちだったが、実はバレンタインを一緒に過ごすのは、これが初めてだった。


 付き合って最初のバレンタインはお互いにタイミングが合わなくて、仕事終わりの少しの時間、薫と会って、チョコレートの交換だけで終わってしまったからだ。


 これは、そんな彼女 ―― 大宮おおみや かおると、俺 ―― 木場きば 陽人はるとの、二度目のバレンタインのお話。


―――


「はい、じゃあ、最初の絵はラフの感じでこのまま描きます。4番と7番は再提出、と。〆切いつでしたっけ」


 2月上旬。俺はクライアントであるゲーム会社の村田むらたさんと、そんな電話をしていた。村田さんは俺の担当窓口になっている人だ。パソコンに表示されている絵のデータなどを見て、手元の予定表に、〆切などを書き込んでいく。特に優先順位の高いものは、付箋に納期などを書いて、パソコンモニターの縁に貼った。


 俺の仕事はフリーのイラストレーター。今は、こういった外注依頼や、インターネット上で活動するクリエイターへの、イラストやデザインの提供で生計を立てている。


『すみませんね、木場さん。俺はこれで! って思ったんだけど、デスクの指示で』

「大丈夫ですよ、これくらいの修正なら」


 ある程度の方向性がまとまり、俺は手帳を閉じた。


「そういえば、今年のバレンタインイベント、ずいぶん大掛かりですね。去年もすごかったけど」

『そうなんですよ。アップデートも結構大変だったらしいです。聞いた話だと、デバッグの時に色々不具合が見つかって、もうてんやわんやだったらしくて』

「まぁ、あるあるですよねぇ」


 ソーシャルゲームの現場は、常に納期に追われているようなものだ。俺のようなイラストレーターも無茶な仕事を振られることがあるが、現場でプログラミングなどをする人たちは、もっと大変だろう。


『木場さんのイラストはユーザーからの人気も高いので、今回も描いてもらえて、うちとしてはありがたいです』

「そう言ってもらえて、僕もありがたいです」


 フリーランスというのは、仕事の数が収入に直結する。依頼を貰うためには、こちらから売り込みをする必要だってある。依頼ごとに様々な要望や意向があるので、それらに対応する柔軟さも必要だ。電話をしている村田さんとも、それなりに付き合いが長く、時には別の仕事も回してくれる。そんな彼に仕事を評価してもらえるのは、こういった生業をしている身として、素直に嬉しい。


『あ、そういえば聞きましたよ? 彼女さんにプロポーズしたんですってね』

「え、なんで知ってるんですか……って、たぶん小野寺おのでらですよね」

『えぇ、彼はおしゃべりですから』


 そう言って、村田さんはカラカラと笑った。


 小野寺 大介だいすけは、中学から高校までの俺の同級生で、今でも連絡を取り合っている。人付き合いがあまり多くない俺にとって、数少ない気心知れた相手だ。そして、現在では村田さんの直属の部下でもある。


『なんにしても、おめでとうございます。同棲しているというのは聞いてたし、そのうちだろうなとは思ってましたけど』

「ありがとうございます」


 村田さんとの打ち合わせが終わるとと、俺はさっそく作業に取り掛かった。2時間ほどペンタブに向かい、今はコーヒーを淹れて一休みしている。時刻は午後1時。作業量を考えると、少なくとも夕方までは掛かりそうだ。


 ひとりで作業をするのも良いけれど、今日は誰かと喋りながら作業したい気分だった。


 ツイッターのタイムラインをスクロールするが、それほど更新されていなかった。まぁ、それもそうだろう。俺の絵描き仲間は、ほとんどの人が夜型だ。打ち合わせなどはともかく、作業自体はみんな夜にしていることが多い。だから、昼間に連絡ができる相手は限られる。


 何人かのツイートを適当に流し見する。一番近い時間に更新されていた『かんべぇ』という絵描き仲間に連絡をすることにした。


 かんべぇさんは俺より2歳年上のイラストレーターで、お互いアマチュアの頃から付き合いが続いている。


 スカイプで連絡をすると、即座にオーケーが来たので、俺たちは通話をしながら机に向かった。いわゆる『さぎょイプ』というやつである。


『ばっきーくん、久しぶりじゃあないですか~』


 スマホの向こうから、陽気な男の声が聞こえてくる。『ばっきー』というのは、俺のイラストレーターの名義だ。学生時代のあだ名でもある。


「かんべぇさん、お久しぶりです。最近どうです?」

『いやぁ、仕事があったり無かったりで、本当に不安定ですわ』

「俺もです。フリーでやってると、死活問題ですよね」

『ほんとそれ』


 他愛のない会話や近況報告をしつつ、俺たちはそれぞれの作業を進めていく。かんべぇさんも、商業誌でのイラストの仕事が何件か立て込んでいるらしかった。部屋に籠りっぱなしで作業をしていたため、話し相手ができて嬉しいと言っていた。


『そういえば、ばっきーくん。最近、彼女さんとはどうなんですか~?』

「あー、それ聞いちゃいます?」

『そりゃもう。ばっきーくんと作業通話する楽しみと言ったら、彼女さんの話ですから』

「俺、そんなに彼女の話してましたっけ?」

『自覚ない時点で相当ですよ~?』


 呆れたような口調だが、かんべぇさんは楽しそうだ。薫と付き合ったばかりの頃から色々と話を聞いてくれて、気に掛けてくれている。本当にありがたいと思った。


「実はプロポーズしまして。オーケーも貰って、改めて婚約者ってことに」

『おぉ、それはそれは、おめでとうございます』


 スマホ越しに、かんべぇさんが拍手をしてくれているのが聞こえる。ありがとうございます、と言いながら、俺はスマホに向かって頭を下げた。


『で、いつです? いつプロポーズしたんですか? 場所は? シチュエーションは?』

「去年のハロウィンの日に。場所は自宅で、ふたりで晩ごはん食べたあとに」

『おぉ、おうちプロポーズですか! いいですねぇ、変に奇をてらわず、生活の中で、好きな人にプロポーズする! いいですね、実にいい! 尊いです!』


 マシンガンのように放たれるかんべぇさんの言葉に、俺はすっかり照れてしまって、ありがとうございます、とお礼を言うことしかできなかった。


『時にばっきーくん、指輪は買ったんですか?』

「いえ。実は、指輪はふたりで見に行って決めようと話してたんですよ。婚約指輪はなしで、結婚指輪だけ、ってことで。まだ行ってないんですけどね」


 それを聞いたかんべぇさんは、ほほう、とスマホの向こうで呟く。そういえば、彼は既婚者だったな、と思い出した。


「かんべぇさんは、指輪はどうされたんです?」

『うちも、嫁とふたりで見に行って決めましたねぇ。うちらは五月だったかな』

「去年プロポーズしてから、なんだかんだでまだ行けてなくて。タイミングどうしようって感じなんですよ」


 俺の相談に、かんべぇさんはふむふむと頷き、しばらくして指をパチンと鳴らした。


『そういえば、世間はもうすぐバレンタインじゃあないですか。せっかくだし、ふたりで指輪を見に行く、っていうのはどうです?』


 ロマンチックな雰囲気が好きなかんべぇさんらしい提案だった。俺も、それはアリだと思った。


―――


 それから数日後。


「ただいまぁ……」


 夜7時半頃。すっかり疲れ切った薫が帰ってきた。


「おかえり。ごはん出来てるから、手洗ってうがいしといで」

「うん、ありがとう~」


 薫はそう言いながら荷物や上着をソファの上に置いて、洗面所へと向かった。年度末が近いことに加え、春から部署移動もあるらしく、最近の薫はよく残業をしている。今日くらい遅くに帰ってくることも少なくない。


 薫は2月に入ったときに「今年のバレンタインは絶対に手作りチョコを作る!」と張り切っていた。しかし、土日くらいはゆっくりしてほしいとも思う。それに、今年の2月14日は月曜日だ。


 手洗いとうがいを済ませた薫が、ふらふらとリビングの方へやってきた。普段ならこのあとスウェットなどに着替えるが、今日はそのまま背後から俺に抱き着く。


「どうしたの、着替えないの?」

「すぐお風呂入るし、もういいや」


 俺の苦笑交じりの言葉に、ちょっと投げ遣りな返事。相当疲れているんだろう。薫はそのまま、俺の背中に向かってモゴモゴと喋り続ける。


「今日のご飯なに~?」

「ロールキャベツ」

「わーい、好きー」


 あ、可愛い。薫はこんな風に、定期的にデレることがある。今日みたいに疲れているときは、特にそうだ。ていうか、俺の彼女、もとい婚約者、可愛いぞ。いや、前から知ってたけど。とはいえ、抱きついたままではご飯は食べられない。薫を椅子に座らせて、俺たちは晩ごはんを食べることにした。


 薫は半分寝そうな表情で、いつもよりもゆっくりごはんを食べていた。そういえば、今週はずっと2時間くらい残業してるんだっけ。疲れるのも無理ないだろう。


「お仕事おつかれ」


 そう声を掛けると、噛んでいたご飯を飲み込んでから、


「ありがとう~。陽人くんもおつかれ」


と言いながら、薫がへなっと笑った。あ、可愛い。可愛いぞうちの彼女。いまスマホを持っていたら、確実にシャッターボタンを押しているのに。なんて考えながら、俺は例の提案を話すことにした。


「今年のバレンタイン、手作りのチョコ作ってくれるって話、してたじゃん?」

「したねぇ。今もするつもりだよ」

「いや、今年はいいよ。すっごい忙しそうだし。それよりも、俺が個人的にお願いしたいことがあってさ」


 俺の提案に、薫はロールキャベツをもぐもぐしながら、軽く首を傾げる。なんでいちいち仕草が可愛いんだろうか、こいつは。あ、いや、今はそうじゃなくて。


「前にさ、指輪はふたりで決めようって話してたじゃん? だから、今年はチョコの代わりに、ふたりで指輪選びなんてどうかなって」


 そう言った瞬間、薫はさっきまで眠そうにしていた目を大きく見開いた。そして、ロールキャベツを飲み込んでから、さっきよりもハッキリとした声で呟く。


「意外。陽人くんからそう言ってくれるなんて思わなかった」

「そう?」

「うん、そう」


 薫の驚いていた表情が、見る見るうちに笑顔に変わっていく。


「そっか、指輪選びかぁ……いいね、うん、すっごく楽しみ」

「そう言ってもらえて何より」

「でもやっぱりチョコもあげたいなって思っちゃうんだよね」

「去年はもらったし。それに、これから何度だってチャンスはあるよ?」

「……それもそうだね」


 そう呟いた薫は、子どものような笑顔を浮かべていた。


―――


 そして迎えた2月14日、月曜日。俺たちは11時頃にマンションを出て、ふたりで駅に向かって歩いていた。


 俺は土日に行くつもりだったのだが、薫はせっかくだから今日が良いと有給を取った。先週までに仕事をある程度進めて、今日は同僚に回しても問題ないように、色々と調整をしてくれたらしい。同僚も快く引き受けてくれたそうだ。薫の同僚に、俺は心の中で強く感謝した。


「なんか、陽人くんとお出掛けするの、久しぶり」

「そうかもな」


 隣を歩く薫は、マスクをしていてもハッキリ分かるほど、るんるん気分と言った感じだった。今にもスキップしそうな勢いで体を揺らして歩く。薫が歩くたびに、サラサラした短い髪が、ぴょこぴょこと跳ねる。


 可愛いなぁ、と心の底から思った。同時に、俺たちはもうすぐ本当に夫婦になるんだという実感が、強く胸に迫ってきた。そして、指輪を買いに出掛けたは良いものの、これからやらないといけないことが山積みであることにも気付いた。


「そういえば俺さ、薫のご両親にまだ挨拶してないじゃん。いいのかな、もう指輪なんて買っちゃって。今更だけど、順番が逆な気がしてきた」


 不安を口にする俺に、薫はあっさりしたような調子で答える。


「それなら、全然問題ないと思うよ? お父さんとお母さんに陽人くんのこと話したけど、反応悪くなかったし。むしろ、早く会ってみたいって言ってたしね」


 それなら良かった、と思った反面、俺はその言葉が意味するところに気付いて、恐る恐るそれを確認する。


「ねぇ、それってさ。薫、ご両親に俺の話をよくしてるってこと?」

「そうだよ?」


 薫はあっさりとそう答えた。俺は頭を抱えそうになった。ただでさえ、色々と順序をすっ飛ばして同棲を始めたというのに、色々と筒抜けだったらしい。これは、いよいよ下手なことはできなくなってしまった。いや、下手なことをするつもりは、元々ないけど。


「……指輪を買ったら、早急にご挨拶に伺おうと思います」

「そうだねぇ……。陽人くん、大丈夫?」

「大丈夫じゃない。問題しかない。胃がキリキリします」


 そんな話をしているうちに、最寄り駅が見えてきた。薫はポケットから定期入れを出しながら笑う。


「きっと大丈夫だよ。だって陽人くんだもん」

「なんの根拠もないんだけど、それ」


 改札を通る。月曜日の正午前の駅は、それなりに人がいた。みんなマスクを着けて、顔の半分以上が見えない。この2年ですっかり見慣れてしまった光景だけど、あとどれぐらい続くのだろう。


「どうしたの?」


 少しボーっとしてしまったらしい。薫が不思議そうに、俺の顔を覗き込む。


「いや、なんか大変な時期にプロポーズしちゃったな、って」

「そうだねぇ。みんなマスク着けたり、お店に入ったら消毒したりするのが、当たり前だもんね」


 薫も同じことを考えていたようだ。


 俺も薫も、この先ずっと仕事があるとは限らない。コロナ不況のせいで、薫がリストラされる可能性は大いにある。俺だって今は良いとはいえ、不安定な部分があるのは確かだ。依頼が激減して、収入が減るかも知れない。


 誰かと一緒に暮らす。それに付いて回る責任を、今更ながらに実感していた。


「でも、きっと大丈夫だよ」


 薫はそう言って目を細める。マスクを着けていても、いつもと変わらない笑顔を浮かべているのが分かった。


 薫は手袋を外して、右手を差し出してきた。俺も左手の手袋を外して、薫と手を繋いだ。ふたりで並んでホームに向かう。


 華奢で、指先が少し冷たい薫の手。いま、俺の手を掴んでくれているのが、薫の手で本当に良かった。そんなことを考えていると、不意に薫が悪戯っぽく笑う声が聞こえた。


「これからもよろしくお願いしますね。旦那様」

「まだ早いっての……」

「ふふっ、言ってみたかったの」

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