ガラスの靴音

蛇ばら

夜行

「死ぬために生きているんだよ」


 そんなことを言ったひとがいた。


「いつか死ぬ、なんて話じゃない。生きるということは死ぬために自分へ鞭を打っているってことだ。だから報われていないと生きる意味なんて感じられないし、楽しくないと人生に価値なんてできない」


 黒い髪がばらばら風に吹かれている。病院の屋上、夕焼けの空と雲が女の向こう側に流れている。


「生きることがつらいか」

「お前に許されるなら死んでしまいたい、ということだよ」


 己がどんな顔をしているのかはわからない。

 女は眉をさげて、ばたばた揺れるシーツの間に体をすべりこませていく。柄にもなく不安になって、皮と骨だけの細い手首を握る。

 びっくりしたような顔で女が笑う。


「だいじょうぶだよ。死なないから」

「本当に?」

「わたしが嘘ついたことあるかい?」


 質問に質問で返して煙に巻こうとする癖は嫌いだった。

 嘘はつかない。だが、本当のことも言わない。

 病院の屋上は冷たい風が吹いている。




      ◇




「やあ、王子様。お姫様のご機嫌はいかがかな?」


 廊下ですれ違った男が言った。

 クリーム色の廊下で浮き上がるような原色。派手な身なりをした男。

 これでも入院患者だというから不思議である。


「あいにく、午後の検査で不機嫌きわまるようだ」

「そうかい。いつも静かだから、今日も眠っているのかと思った」


 男が笑う。享楽的な言動は、あの女と正反対だ。

 それでいてあの女と気が合うという。


「きっともうすぐだ」

「……なにが?」


 いたずら小僧のように、男は指先を私の背後へとむけた。


「お姫様はおでかけデートをご所望さ」


 振り返ると、ふくれっ面の女がいた。


「わたしというものがありながら」

「誤解が過ぎる」

「わかっているとも」


 黒髪が揺れる。切りっぱなしの毛先がからまっている。

 男は召使のようにひざまずき、どこからか取り出した櫛でそれをほどいた。


「シンデレラの魔法は零時までだ」

「知ってる」

「では、それまでお楽しみを」


 エレベーターのボタンが押される。

 開いた扉。魔法使いがつくった、魔法の馬車。

 どちらかといえば共犯者だが。


「死が近いとき」


 夜景を見ながらその女はぽつりとつぶやく。


「猫は自分の姿を隠すんだって。見つからないように」

「家で飼われていても、外へ出ようとするらしいな」

「野生かな。それとも飼い主への思いやりか……」


 つないだ手はとても小さい。

 こんなにも小さな人間だっただろうか。

 ガラス張りのタワーに立っていると、空へと浮かんで行ってしまいそうだ。


「お前は、最期のわたしを見たいかい?」

「滅多なことを言うな……」

「わたしは最期のわたしなんて見られたくない」


 死に顔を覚えられるなんてまっぴら。

 そう言った横顔が寂しそうで、肩を引き寄せる。


「だいじょうぶだよ。死なないから」

「本当に?」

「……お前には嘘をつかないよ」


 すこし嬉しそうにしたので、気分がよくなる。

 眠るように目を閉じて女は微笑んだ。


「ああ。ずっとこうだといいのに」


 高速道路を連なるヘッドライト。

 クリスマスの夜。笑いあう恋人たち。

 午前零時までには戻らなければ。




      ◇




「もう着いちゃった」


 扉の前で頬を膨らませている。

 エントランスの警備員はそっぽを向いてくれていて、シンデレラの魔法はしっかりと残っていたらしい。


「また明日?」

「日付は変わっている。また十二時間後に」

「うん。待ってる」


 横たわったからだ。

 冷たくなっていく指先を、むりやりにでも温めようとする。

 同じ階にいるはずの男もいまは気配がなくなって、こんな世界へやにたったふたり。


「わたし、お前といられるなら、地獄でもいいよ」


 息をつくようにつぶやかれた言葉。

 聞かせるつもりもないような静かな声色。

 白いシーツで眠りにつくと、本当に死んでいるようで。

 きっと死に顔も美しいのだろうと浮かんできたものをかき消して、扉を閉める。


 まだ生きている。

 そしていつか死ぬ。ガラスの靴で階段をのぼって。


 きっと、私の知らないところで。

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ガラスの靴音 蛇ばら @jabara369

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