第19話 領主との契約書
あれから数日.
また通信の中継所を訪れていた.利用者が増えたのか,交換手の人が忙しそうに通信機を棚から出したり戻したりしていた.そろそろ人を増やす必要があるかもしれない.
俺はというとイリスに請われて,先日の計算機の魔法陣の説明をしている.
イリスは論理学やブール代数にはあまり詳しくなかった.この世界にも概念は存在するが,役に立つものとして研究されているわけではない.もちろん俺もちゃんと学んだことはないので雑学程度の知識でしか知らないが,大雑把な理屈は分かる.暇つぶしに一日中Wiki○ediaのリンクを辿って過ごしたりしていたのが役に立つとは思わなかった.
ブール代数では真と偽の2種類の値を扱うが,それはそのままコンピューター上の計算の1と0とすることができる.コンピュータ上で行われる全ての計算は,突き詰めれば論理素子で行われる単純な計算の組み合わせで実現されている.ここでいう単純な計算というのは,足し算や引き算よりももっと単純なものだ.
よく使われるのは,論理積,論理和,否定,排他的論理和あたりだ.
・論理積(AND)……全ての入力が1の時だけ結果が1となる
・論理和(OR)……いずれかの入力が1のときは結果が1となる
・否定(NOT)……入力が0の場合に結果が1になる
・排他的論理和(XOR)……2つの入力のうち片方のみが1のとき結果が1となる
「こんな感じのもの.否定と,論理積または論理和を組み合わせれば他の論理を導けるので,全てを使う必要はない」
「じゃあ,この魔方陣は否定と論理積で構成されてるってこと?」
「そのとおり」
「他の計算はどうやって実現するの?」
「引き算は実はほとんど同じ魔法陣で計算できる.負の数に対応すれば,引き算は足し算として扱えるから」
通常はプラス/マイナスを0と1で別途表現して,二進法での最大値を負の数の-1とみなす,2の補数とも呼ばれる表現方法を使う.
桁数が制限された二進法での最大値は1111……と1が連続しているが,1を足すと繰り上がりが発生し全て0になる.つまり,正の数の表現をそのままに,負の数と連続した値として扱うことができて便利なのだ.
「乗算も加算の組み合わせに分解できる.割り算は今のままだとちょっと複雑すぎて作るのは無理かもしれない」
「除算はなんで難しいの?」
「理由はいくつかあるけど,各桁ごとに商を決めていくときに,大小を比較しながら数字を引いていくだろ?それが次の桁にも影響するから順番に計算しないといけないけど,計算順序を魔法陣で表すのが難しい」
とはいえ,これについては解決方法に心当たりがあった.……王都まで行かないと行けないが.
「興味深い考え方ね.それに魔法を使えないのに魔法陣を作った人を他に知らない」
「そもそも,わたしイリス意外に魔法陣を作る人を見たことなかったよ」
領主からの使いが来て,俺とイリスは領主の屋敷に呼び出された.リサをのけ者にするようで悪い気もするが,そもそも元々部外者なのだ.
前回と同じ部屋に案内される.そこには見覚えのある人物がいた.
「お久しぶりっす」
「王都から,わざわざ来てもらって済まない」
「問題ないっす.シュターツには一度訪れようと思ってたから,ちょうど良かったっす」
王都の細工師だ.この顔ぶれということは,通信機に関わる話だろう.
「早速本題に入る.陛下の許可も降りたので,本格的に通信事業をこの街の事業として取り組むことになった.そこで相談なんだが,領主直轄の事業ということで私が代表として進めたい.もちろん報酬は払うし,今後もそなたらの意図も汲むつもりだ」
それについては,よそ者の俺や,どう見ても小学生なイリスよりも,商人としての経験があり顔が広い人間がやった方が無難だろう.
「俺は異論ありません」
「わたしも構わないわ」
「私も特にないっす」
「報酬についてだが,契約金が金貨50.さらに売上の1割をそれぞれが受け取る契約としたい」
「金貨50枚……そんなにいいんですか?」
金貨50枚は日本円でおよそ500万円くらいだ.所持金が残り少なくなっていたので助かるし,今の生活なら数年間過ごせそうな額だなと考えてしまう.
「利益ではなくて売上っすか?」
「ああ,そうだ.不満か?」
「逆っす.売上の大半は無線機の作成や設備投資に使うはずっす.そこから3人が1割も取ったら事業の利益はほとんど出ないっす」
王都で自分で店を経営している細工師は採算性についても考えていた.
「大丈夫だ.この事業は莫大な金になると予想している.それに通信事業で利益が得られなくとも,この国にとっての利益は計り知れぬし,それによる税収の増加も見込めるだろう」
国や領地の利益さえあれば,そこからも得られるものがあるということか.領主直轄の事業とはそういうことなのだ.
「それに,別のことを始めるにも金がいるだろう?これも投資の一環だ」
他にも何か金になりそうなものができたら,ここにもってこいと暗に言っている.
「納得がいったなら,こちらに署名してくれ」
羊皮紙に書かれた契約書だ.報酬のことと,通信機に関わる技術を優先的に提供し,他者に提供する場合は事前に協議するという内容だ.すでにイリスの母親である領主のエレクトラと父親のアノスの名前らしきサインが書かれている.
「契約を破った場合はどうなるんでしょうか?」
「領主との契約だからな.平民の場合は最悪の場合は処刑されるくらいに思っておいてくれ」
……なにそれ怖い.
「大丈夫よ,お父様はそんなことしないわ」
そもそもが,領主と平民の一個人の力関係を考慮するなら,適当な理由で処刑されても問題にならないような世界なのだ.
話が進まなそうなので,契約書にサインすることにする.
俺と細工師が1枚の契約書に続けてサインする.読める必要は無いらしいので,俺は漢字で自分の名前を書いた.
「では,これで契約は成立だ」
契約書に書かれた二人の名前を見ていたイリスはなぜか不満げだ.
「わたしは?」
「イリスは将来領主として事業を引き継ぐのだから,契約は分けたほうがいいだろう」
「わたしの名前も入れさせて」
じっと見つめる娘に根負けしたのか,父親が折れる.
「仕方ない.領主を引き継ぐときに契約を改めることにしよう」
イリスは契約書の二人の名前の間の余白に強引に割り込ませる形でサインし,並んだ3人の名前を見て満足そうな顔でうなずいていた.
俺が,金貨50枚を何に使おうかと考えていると.
「そなたはまず衣服を改めたほうが良いだろうな.いまだに粗末な格好の人間と貴族の娘が不審なことをやっているという領主宛の通報がある」
俺,通報されてたの?
いまの格好は街に入るときに最低限のものとして受け取った衣服だ.平民の服と言われたが,実際には平民がもう着なくなった古着のようだった.衣服にあまり興味はないけど,さすがに新調すべきだろう.
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