第10話 氷魔法で真空を作る

リッカが持ってきてくれた朝食を食べる.


パンは相変わらず硬いが,スープには劇的な変化があった.

決して豪華なものでは無いが,丁寧に下処理された野菜や肉はもちろん,適切な塩加減と邪魔にならないハーブの風味.

これまでのスープは人間の食べ物ではなかったと思えてしまう.


食器を返しにいくと,そわそわした様子のリッカが待っていた.


「昨日の料理どうでした?お口に合いました?」


ちょっと不安そうに聞いてくる.


「同じ店で食べる料理だとは思えなかったよ.今日のスープもおいしかった.毎日でも食べたい」


「よかったです」


「もしよければ,これからも私が作りましょうか?練習中なのでお店に出せるものではないですけど」


むしろリッカの料理こそ店に出すべきだと思うが,この宿で自分だけまともな料理を味わえるのはありがたい.

他の客に知られたら怒られそうだが,黙っておくことにした.


リッカのおかげで,俺の食糧問題が解決した.



この世界や魔法のことが少し分かってきた.

もう,認めようと思う.この世界,少なくともこの国にネット環境はない.


俺をこの世界に転移させた存在を,消費者センターに訴えたい.


俺は,当面の行動指針を決めた.

この世界にインターネットを作る.並行して日本に帰る手段を探す.


日本に帰ることができればベストだが,取っ掛かりもまだ無い.

となると,ネット環境を手に入れるためには,この世界でインターネットを構築するしかない.



インターネットを作る.

その前提で考えれば転移さきがこの世界だったのは幸運だ.


まず,物理法則が元の世界とよく似ている.もしかしたら地球と同じ宇宙にあるのかもしれない.

次に,最低限の文明がすでに発展している.石器時代に飛ばされていて製鉄技術を再現するのに一生かかったりしたら笑えない.

さらに,魔法がある.魔法を使えば,かなりの面倒な工程をスキップできるだろう.すでに電気の例もある.



そのためには,電源コンセント……ではなくイリスが必要だ.




都合よく,イリスが宿まで俺を呼びに来て,イリスの屋敷に向かう.

こちらから,イリスに連絡する手段が無いのは不便だな.


使用人がたくさんいるような大きな屋敷に住んでいるようだし,俺を呼び出すくらい誰かに頼めばよいのに.

何か屋敷の人に頼めない理由があるんだろうか.


「転送魔法で消費される魔力が想定より大きいのが気になっていたのだけど,たぶん分かった」


フィノイの街で使ったのと同じ魔法陣が用意されている.

さらにたくさんの無色透明な魔石.


「それは?」


「私の1日分の魔力が込められてる.いざというときのへそくり」


イリスの魔力が入っているという数十個の魔石.

魔石一つで家が経つということは,これだけで一生遊んで暮らせるだろう.


「なんで俺を連れてきたんだ?」


「部屋の壁に話しかけるのに疲れてきただけ,聞いてるだけでいいからいてちょうだい」


なるほど.誰かに説明しているうちに考えが整理されることはよくある.

それは,喋らないクマのぬいぐるみ相手でも効果があったと聞いたことがる.


「それに何となく分かってたんでしょ?」

俺も心当たりがあった.テーブルの上にあるガラスの容器を見る限り,イリスも同じことを考えているのは確実だった.


転移魔石と,密閉されたガラスの容器を魔法陣の上に置く.


魔法陣に魔力を流し込むと空中に2つの10cm程度の黒い穴が現れる.


「これが転送魔法のゲート.本当は離れた場所で同時に起動してものを転送するものだけど」


そう説明しながら,黒いゲートを見ていると,徐々に小さくなり30秒ほどで消える.

しかし,前回は一瞬で消えたことと比べると大きな差だ.


「この容器の中身は?」


「容器は空っぽ.風魔法で空気も抜いてある」


「空気が転送されているのは誤算だった.熱というのが振動から生まれるというのは理解しているつもりだったのに」

悔しそうに答える.



空気を含め,全ての気体は熱運動によって体積が維持されている.例えば,常温の空気中の分子はおよそ480m/sの速度で運動している.

空気というのは意外と重く1立方メートルあたりおよそ1.3kg,水1リットルより重い.

もし,1平方メートルのゲートを空気中に開くと,それだけで1秒間に100kg以上の空気が通り抜けていることになる.

もちろん,一方向に動いているわけではなく,分子が無秩序に運動しているので空気中にいても吹き飛ばされないで済むわけだが.


というのは,ここに来る前に電子書籍で調べた内容だ.

計算には自信はないが,空気のせいで魔力が消費されているのはほぼ確実だろう.




「ただ,風魔法では完全には空気を無くすことはできないみたい」


「ちょうどよかった,俺も試したいと思ってたところだった」


「ガラス容器を冷やしてくれないか?」


イリスが氷魔法を使いガラス容器とその内部を冷やしていく.

表面が曇って見えにくくなったが魔法で水を拡散させる.便利すぎる.


「どれくらい冷やせばいい?」


「可能な限りすごく冷たく」


高真空状態をつくる手段の一つに気体を冷却する方法がある.

タブレットPCに酸素や窒素の沸点が書かれた表と,蒸気圧曲線についてイリスに説明しながら,空気が液体になる温度について話す.


ガラス水滴のようなものが付きはじめ,微かに青みがかった液体が容器の底に溜まっていく.液体酸素だ.

空気中の酸素は-183℃で液体になり,もう少し冷やすと窒素が-196℃で液体になる.


気圧が下がると沸点も下がり,液体になりにくくなるが,-250℃以下になるとほぼ全ての物質は気体として存在できない.

微量に含まれるヘリウム等も取り除くためにはさらに冷やす必要があるが,空気中に含まれる成分としては無視して良いだろう.


「そうか,空気も冷やすと液体になるのね」

イリスにも目の前で起きていることが分かったようだ.


「この状態でまた転移魔法を発動してくれないか?」


イリスが魔石を使って再び転移魔法を起動する.

するとこんどは,黒い円形の穴が消えずに維持され続けていた.


「成功だな」

今後やりたいことに必要だったので,上手くいってよかった.


もちろん,これで転移魔法が自由に使えるかと言われたらそうではない.

何かを転送すれば魔力が消費されてゲートは消えてしまうだろうし,転送したいものは絶対零度ちかくに冷やされたガラスの容器に事前に入れておかないといけない..

イリスに呼ばれた時点で真空を作る手段を考えていたが,必要だったのは転移魔法ではなくて,真空になった容器の方だ.

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