第3話 売った本が戻ってきた

ドアをノックされた音で目が覚める.宿の給仕服を着たリッカだった.朝食を持ってきてくれたらしい.


「使い終わった食器は下まで持ってきてください」


昨日と同じパンをちぎって,塩水の味のスープに浸して食べる.

あまりに硬いのでパンをちぎるだけで指が痛くなってきた.


本を売ったお金でもう少し良い食事はできそうだけど,できれば早めに仕事を探したい.


俺は引きこもりだったが,ニートになりたかったわけじゃない.

自分の稼いだお金で,誰にも文句を言われずに,引きこもるのが理想の生活だ.


宿にいてもやることがないので,また街の様子を見に行こうと考えていると,再びドアがノックされる.


俺に来客らしい.

いったい誰が?と思いつつ部屋に通すことを了承する.


部屋に入ってきたのは知らない女の子だった.自分よりだいぶ年下で12,13歳くらい見える.

長い銀髪で青みがかった大きな瞳.

長いスカートの高級そうなドレスに,頭にはリボンが乗っている.

もともと女性の服は良くわからない上,ここは異世界だが,いかにもお嬢様という服装だ.


女の子が抱えているものに目が行く.本屋で売った数学の参考書だ.


「昨日この本を売りに来たのはあなただと聞いたのだけど,本当?」


どうやら,珍しい本があると聞いて昨日のうちに買い取ったようだ.


そして,もとの持ち主を本屋から聞き出してここに来たというわけか.

確かに売るときに名前と住所としてこの宿の名前を記入した.

俺はこの国の文字がわからないので,書いたのはリサだが.


「内容が意味不明だとしたら,この国の本じゃないからだよ.苦情があれば本屋に行ってほしい」


なんとなく,本を買ったは良いが読めないという苦情を言いに来たのではないかと心配して答える.

金を返せと言われたら困ってしまう.


「苦情を言いに来たわけじゃないの.あなたこの言葉読めるの?それか読める人に心あたりある?他にも本を持ってる?」


「読めるけど……」

自分が日本という国から来て,その本が日本語という言語で書かれていると補足した.


「わたしに,このニホン語の読み方を教えてくれない?もちろん謝礼は用意するから」


「……どうして,そんなにその本が読みたいんだ?」


「まず,この本がとても興味深いから.初めて見る言葉で書かれているのもそうだけど,それよりも印刷技術も製紙技術も製本技術も見たことのないものだった.本をよほど大量に作らないとここまで洗練されないはず.おそらく,これと同じような本がたくさんあるんでしょう?」


ああ,本屋の人が言っていた『こういう本に異常な興味を持ちそうな人間』が目の前にいる女の子なんだと理解した.


もちろん,日本に本はたくさんあるが,この世界には日本語で書かれた本はこれしか無い.

実際には手元に電子書籍が大量にあるが,問題はバッテリーか.充電できない限り数ページしか読めないだろう.


この国に日本語の本が入ってくるとは考えられないから,勉強しても無駄になるだろううと説明する.

日本はどこにあるか聞かれたので,自分は連れてこられて気づいたらこの国にいて,場所は説明できないと言ったら,「大変だったのね」と同情された.


それで諦めてくれると思ったが,この本の内容だけでも良いと言って食い下がれた.


「それに,いつか日本と国交が結ばれるかもしれないでしょう?」


あまりにしつこいので,無駄になっても良いという条件で一旦引き受けることにする.


「やった!」


改めて少女はイリスという名前を名乗った.

本を集めるのは趣味らしい.服装もそうだし,高価な本を集めているということは,お金持ちの家なんだろう.



今日のところは,それで帰ってくれるのかと思ったら,そのまま持っていた参考書を開いて質問が始まった.


「これって数学の教本よね」


驚いたことに数学の本だと言い当てられた.ひと晩かけて読解を試みて,数字と記号が並んでいるのに気づいたらしい.


日本語の翻訳を聞かれて日本語で答えるのも意味不明だが,驚いたのはイリスがすでに参考書に書かれた内容をほぼ理解していたことだ.

説明しながらページを進めると,イリスが黙り込んで何か考えていたので,難しいところがあるか聞く.


「内容は難しくはない」らしい.


この世界の文明は地球より遅れていると感じていたので意外だった.


「数式の意味がわかれば流れは分かるし,説明は読めなくても何をしようとしているかの想像はできるわ」


受験生が聞いたら泣きたくなるような答えが返ってきた.


しかし,よく考えてみると高校数学の参考書にあるような内容は,何百年も昔の数学者達が考えたことがベースになっている.

この世界の人にも知られている可能性はあるだろう.


まさかこの世界の人はみんな高い教養を持っているのかと気になったが,「少なくともこの街に四則演算以上の計算を知っている人はいないと思う」と聞いてホッとした.


「わたしはこの本に感心していたの.これって明らかに数学者以外に数学を広めるために書かれているわ」


イリスが言うには,不完全な証明しか書かれていないのはマシなほうで,ほとんどの数学の本はただのメモ書きの寄せ集めや,一見すると高度な内容を説明しているように見えて苦労して読み解くと何も明らかになっていない本が売られているらしい.


「しかもなぜかそういう本が売れているの.多くの人は買った本を真面目に読んでないんじゃないかしら」


耳が痛い.買ったまま読まないで放置している電子書籍が何冊あったっけか?



日が暮れてきたので,イリスは2日後にまた来ると言い残して去っていった.


帰り際に謝礼について聞かれたので,仕事を紹介してくれるか聞いてみたら怪訝な顔をされ,一旦保留することになった.

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