刹那

やまもと はる

第1話

 車の中、信号待ちの間に、不意に運転席の彼に唇を奪われた。それは本当に突然のことで、驚き以外に何も感じることは出来なかった。だから、彼がどうだった、という風な目線を私に送ってきた時、反応に困ってしまった。とりあえず、私はその行為の訳を聞いた。

「どうしてしたの」

「さあ、何となしかな……」

 私はその返答以上のことを求めなかった。何か言ってきても、聞きたくなかった。ステレオからは、ボビー・コールドウェルが煙草のプロモーション・ソングを歌っていた。それも聴きたくはなかった。


 彼とはどういう関係か、なんて聞かれたら、私は返答に窮する。一応、外面はカップルやアベックのような、そういう類いの関係に見えるだろう。少なくとも彼はそう思っているに違いない。だって、ああいうことをしてきた位だから。

 私自身はどうなのだろうか、と思う。私に対して好意を持ってくれているというのは、有難いような気もする。

だから、というのも変だけれど、一応いわゆる「友達以上恋人未満」なのかなと思っている。彼が言った「何となし」というのは、案外私たちの関係性をうまく表していたように思った。

 それだけに、あの時にされたこと、あれへの感情がわからない。あることには、ある。それを表す言葉も態度もあるだろう。けれど、それを外に出そうとすると、途端にわからなくなる。暗闇から急に光の強い場所へ放り出されたように。

とにかく、そんなもやもやとしたものを抱えつつ、彼との関係は続いていた。

 そして、信号待ちでの一件以来、久々に彼からのお誘いが来た。その素振りから「良い所取ったんだ」的な態度が透けて見えた。彼の後ろに犬の尻尾すら見えるようで、私はいたたまれなくなった。だから、いいよ、と私は言った。


 時間になって、待ち合わせ場所で待っていると、彼は十分程遅れて、小走りでやって来た。

「ごめん、待った?」

「ううん、待ってない」

 よかった、という風に胸を撫で下ろす彼を、私は些か冷たい目で見ていたように思う。

 とにかくそれからは、よくある普通の男女が普通に行う普通のデートが二人の間で繰り広げられた。コマーシャル・フィルムのようなそのデートは、退屈こそすれ、心の底から嬉しい・楽しい・大好きとなる代物では無かった。

 でも彼は、そんな私の様子に気が付いてはいなかった。それは、私にいい格好を見せようとして余裕が無かったのか、それとも気付いてはいたけれど、それを指摘したところで良いことはないと思っていたのか、それはわからない。実際、指摘されても困ってしまうのだけれど。

 なんにせよ、そういう二人の、そういうデートだった。

 日も暮れて来た頃、歩くのに疲れた私たちは公園のベンチに腰掛けた。そのベンチは、私たちのような人間程度なら受け入れてくれそうな偏狭なベンチだった。

「煙草、吸ってもいい?」

 拒否しても大した結果にはならないだろうから、特に拒否しなかった。彼は黄緑色したパッケージの箱から一本煙草を取り出して、ゆっくり吸ったり、吐いたりと繰り返した。まるで一ヶ月断食した後に水を飲んだかの様な表情で、煙草を吸っていた。私はそれをただじっと見ていた。

 煙草を吸い終わると、小さい皮のケースに煙草を押し当て、中に入れた。そして少し笑いながら、吸う?と聞いてきた。

「吸わない」

「そっか」

 二人の間に沈黙が訪れた。あまり嬉しくない訪問だった。こういう時、私は何を話せばいいかわからないし、彼も何か話そうとはするけれど、その度―きっと何らかの基準を満たせないものだったのだろう―唇を少し動かすのみに終わった。

 そして、体感的には一時間程―実際には五分程経って、彼の方からアプローチをかけてきた。

「あのさ」

「うん」

 言い淀む。もう、言いたいことは大体わかるし、それに対する答えも、とりあえずある。

「俺……好きなんだよね」

 貴女のことが、と震えた声で言った。少し笑いながら、

「緊張、しすぎじゃない」

 私は言った。すると彼もまた笑って、

「ごめん、ただ、こういうのって初めてだから」

 だろうな、とは思ったけれど、内に留めた。そっか、とだけ言った。

「冗談じゃないよ?」

「それはわかるよ、こんなおあつらえ向きなシチュエーションだし、その具合から見てもね」

「良かった」

 安堵した声。そして彼はおずおずと私の目を見た。

「でさ、どうなの」

「うん、まあ……私も、貴方のことは別に嫌いじゃないし、悪い人でも無いと思ってる」

 ただね、と置いて、

「ただ……そういうのは、無理かなって。悪いとは思うんだけれど」

 見る見る彼の顔から、血の気が引いていくのが分かった。それは漫画やアニメと何ら違わないような血の気の引き方だった。「サーッ」なんて音すら聞こえてくるようだった。

「……どうして」

「理由は、無いといえば無いかな。理屈じゃないと思う、そういうのは」

「けど、わからないよ……何か納得出来るモノがないと」

 私は困ってしまった。と同時に疑問が浮かんだ。男というのは、一々こんなに引っ張ってくるのだろうか?ダメだと相手に言われたのだからそれまで、でいいじゃないかと。

 彼の瞳は赤く染まり、今にも双眸から漏れてきそうだった。

「俺さ、ホントに、好きなんだよ」

「うん、それは分かってる」

「じゃあ……なんで、断るんだよ」

 彼の語気は少し強さを含んできた。訳がわからない。

「だから、理由はないって。本当に悪いと思ってるけれど」

「嘘、吐くなよ」

 嘘?これまた不思議な言葉が出てきてしまった。嘘とは一体、なんだというのだろうか?

 不思議そうな顔をしている(であろう)私に対し、

「だってさ、あの時、拒まなかったじゃないか」

 一瞬、頭が真っ白になった。『アノトキコバマナカッタジャナイカ』という言葉の意味を理解するのに、数十秒はかかった。そして理解した瞬間、無性に腹が立った。

「それは、貴方が急にしてきたからでしょ。拒む拒まない以前の話」

「いや、もし本当に嫌だったら拒むことくらい出来たはずだ」

「そんな訳ないでしょ」

 私も彼に対抗するように語気を強めた。

 また、沈黙。ただ先程までの沈黙とは違う、敵意や怒りの様なものが感じられた。

 刹那。彼は私の肩を抱き、唇を寄せた。そのまま、彼は私を強奪した。恐怖しかない。振り解きたいけれど、やはり男性の力にはどうしても敵わない。早く終われと祈った。

 数十秒のレイプの後、彼はようやく唇を私に返した。その瞬間に私は、彼の頬を思い切り殴った。今ある全ての力を振り絞って、殴った。人を殴ったのは初めてだったけれど、様々な要因がありすぎて、そこに何かを感じることはなかった。

 彼は、私に殴られ呆然と佇んでいた。口や鼻から血を出していたようにも見えたけれど、そんなことは構っていられなかった。

 私は逃げた。全速力で逃げた。幸運にも、追ってはこなかった。けれども、私の後ろにはずっとあの男の影が感じられるようだった。


 その後、私は引っ越してしまった。まさか、あの男も追っては来ないと思ったけれど、それ以上に同じところや近いところに住むのが恐ろしかった。あの男の何かが自分の中にまだあるような気もしている。どうして、あの時拒めなかったのだろう。あの時のことが何らかの要因がフラッシュバックを起こさせる度、私は痛みと恐怖、嘔吐感に襲われた。

きっと、男の方は、後悔も反省もしていないだろう、と思う。だけれども、私は生きていくしかなかった。

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刹那 やまもと はる @haru_shanben95

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