第12話

 薫にとって家とは、恐ろしい場所だった。しかし、薫はその恐ろしい場所から逃れようとは思わなかった。斎藤家を取り巻く狂気に呑まれ、恐るべき事柄が日常と化してしまっていたのだ。突発的に起こる災難に都度怯え、嵐が去れば浅い眠りに就く。痛みや恐怖自体を感じなくなったわけではなく、薫は、その状況に適応したのだ。

 窓の外は、夜明け前から風雨に晒された木々が激しく揺れていた。

 時折落ちる遠雷と、窓枠が揺れる音だけが部屋の中には鳴り響き、薫は、寧ろ静けさを感じていた。ガラスには、曖昧な薫の姿が映し出されている。

 不意に背後から髪を掴まれ、振り返る間もなく額を窓ガラスに打ち付けられた。

 重く鈍い音。痛みは少なかった。

 薫の兄、賢が薫のことを見下ろしていた。

「いいよなお前は。悩みがなくてさ。俺は人に見せないだけで、苦しみをたくさん抱えてるんだよ。お前と違ってよ」

 賢が歯を食いしばりながら喋っている。賢の髪の色は、金色になっていた。前髪の透けた毛先から、憎しみの籠った黒々とした眼が覗いていた。

「お前が俺と同じ苦しみを味わったら、死ぬぞ」

 賢の苦しみ。それは何を指しているのだろうか、と薫は頭を打ち付けられながら考えた。目の前のベランダを透かしたガラス窓が遠のいたり、近づいたり。

 わからなかった。賢に薫の苦しみが理解できないように、薫もまた、賢の苦しみを理解することはできなかった。


――今日は雨だから、ゴゴレンは中止だってさ。

 同級生でサッカー部に所属している、次期キャプテン候補の生徒が薫の教室にやって来て不愛想に伝えた。薫にとっては惰性で行っているサッカーの練習をせずに済むので、大いに喜ばしいことだったが、少し残念そうな表情を作って相槌を打った。

 教室全体が湿っているように薄暗く、薫は居心地が悪かった。

 蛍光灯に鈍く照らされた廊下に出ると、下校をする生徒で溢れかえっていた。いつもであれば純太郎と鐘井の教室へ行き、帰ろうぜ、と誘うところだったが、今日は吹奏楽部の部室へと向かう。

 校舎全体に低く響く管楽器の音色を耳に、薫は階段を上がる。

 明かりが漏れる部室の引き戸の前には、千尋がフルートを片手に座り込んでいた。

「サボり?」

 薫が千尋をからかうと、千尋は薫を見上げ、ちげーよ、と言った。千尋が吹奏楽部に所属していたことは、交換日記で知った。

「なんでここにいんの?」

「いや、暇だったから」

 良く磨かれたフルートの銀色がやたらと眩しく、薫は千尋の手元を見つめたままだった。いつでも演奏に入ることができるように、指は定位置にあるところを見ると、やはり、千尋はサボっているのだろう。

 部室からひとりの女子生徒が出てくる。長い艶のある黒髪の、目が大きな女子。薫と同じ学級の秋谷碧だった。

 秋谷碧は、薫を一瞥すると慇懃に頭を下げ、気だるそうに窓際の壁に背を預けて千尋の隣に腰かけた。秋谷碧の手には、何も持たれていなかった。

「斎藤薫君だよね?」

 秋谷碧は、顎を上げて薫を見上げ、手を差し出した。握手を求めているらしかった。薫は迷わず笑顔を作り、握手に答えた。異様に細く、冷えた手だった。

「同じクラスなのに話したことなかったよね?」

「うん、人との関わり合いが嫌いだから」

 薫が肩を竦めてそう言うと、秋谷碧はクスクスと笑った。

「お前のそういうところ、もったいないよな。お前と友達になりたいってやつ、結構多いよ」

 千尋が呆れたように言った。

「俺が無理して関わるなら、それは友達とは呼べないだろ」

 並んで座る千尋と秋谷碧の正面に腰かけながら、薫は答えた。やはり目線は、フルートに捕らわれてしまう。

「じゃあ、向こうがお前のことを友達だと思ってたら?」

 千尋は、ついにフルートを腹の辺りに置いて薫に尋ねた。

「勝手に思わせておけばいい。人の価値観にまで干渉するつもりはないから」

「なら、薫君が友達だと思ってる人が、薫君のことをそう思っていなかったら?」

 千尋越しに、秋谷碧が尋ねる。薫のことを変人だと思っていて、腹の底を探るような好奇心に満ちた表情だった。

「それは……悲しいね」

 薫の脳裏には、純太郎のことが過った。もし純太郎が、薫のことを友達と思っていなかったらと思うと、吐き気すら催しそうだった。

「お前はきっと愛に飢えてるんだな。人に分け与える余裕がないだけ」

「だって薫君は、いつもなんか寂しそうだもん」

 俺のことを知らないくせに、知ったようなことを言うな。薫は、自分の口がひとりでに動いてしまいそうになるのを理性で抑止して、うーん、と否定とも肯定ともとれない曖昧な相槌を打った。

「千尋のことはどう思ってるの?」

 薫の思考の死角から、秋谷碧が問いかけた。「碧、変なこと聞くなよ」

「友達じゃないかな、普通に」

「千尋は薫君のこと友達だと思っていなかったら、どうする?」

 千尋はひと際焦った様子で、秋谷碧の頭をはたいた。

 薫は、笑顔で答えた。「そんな寂しいこと言うなよ」


 


 

 

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