第11話

窓際の最前列の席の生徒が、教室を見渡すように自己紹介をしている。顔も名前も知らない女子生徒だった。女子生徒は自分の名前を言った後、間を埋めるように趣味の話を始めた。恐らく、教室中の生徒は、彼女の趣味の話に興味はないだろう。

 薫の席は教室の中央辺りの席だった。何人かの生徒には見覚えがある。以前も同じ学級の生徒だったからだ。純太郎や、鐘井の姿は無い。

 女子生徒が着席すると、その後ろの席の女子生徒が立ち上がった。長い艶のある黒髪の、目が大きな女子だった。

秋谷碧あきたにあおいです」

 彼女は誰とも目を合わせずにそう言って、席に着いた。もちろん、彼女の趣味を知りたがる者もいないだろうけれど、前の席の女子生徒が趣味の話をした以上、彼女も同じような自己紹介を行うべきではないだろうか。薫はそう思ってから、常識に縛られている自分に苛立った。

「秋谷、趣味はないのか、趣味は」

 担任の教師が眼鏡を摺り上げながら彼女を見た。薫は、この教室はこんなに寒かっただろうか、と思った。居た堪れない沈黙のせいかもしれない。

「……家が貧乏なので、趣味はないです。いや、貧乏というのは語弊があるかもしれませんけど。趣味とかそういうのはないです」

 窓の外、遥か遠くの空を飛ぶジェット機の音が喧しく聞こえるほど、教室は静まり返っていた。「ああ、そうか。じゃあ、次」

 教師に促され、彼女は相変わらず無表情を決め込んだまま着席し、後ろの席の男子生徒がのろのろと立ち上がった。襟足と前髪が長く、鼻筋の通った色気のある顔をしていた。

岩岡直己いわおかなおきでえす。俺、ひとりでトイレ行けないんで、誰かついて来てくださあい」

 彼の稚拙な自己紹介に、薄まった笑いが起きた。どうやらこの教室には彼の知り合いが何人か居るらしい。簡潔な自己紹介にして、彼は人気者の風格を醸し出していた。声色は気だるげに、猫背で、自慢の前髪を弄りながら教室中の視線を集めているのだ。誰にでもできる芸当ではない。薫の性格上、このようないかにも軽薄な人間は好まないのだが、彼ばかりには不快感を覚えなかった。

 その後は、例に倣った模範的な自己紹介が繰り返され、薫の番が回ってきた。前の席の生徒が着席した時、薫の心臓が高鳴った。席が教室の中央辺りの者は、どこに顔を向けて話すことが正解なのかと、余計なことに神経を使ってしまう。自分の趣味についてなど、考えたこともなかった。立ち上がるまでの間に考えなければいけない。膝の裏で椅子を押して、ゆっくりとした動作で立ち上がる。今までの自分を振り返ってみた。人間観察? いや、そんなことを趣味と言えば気味悪がられるに違いない。趣味を語らずとも、岩岡直己のようにユーモラスな自己紹介をすればいい。

「斎藤薫です。趣味は……読書です」

 なんという平々凡々な自己紹介であろうか。薫は頭を抱えてその場に蹲りたくなる衝動に駆られた。本なんて、これまでの人生で片手に収まるほどの量しか読んでこなかった。嘘を吐いた挙句、誰の記憶にも留まらない。最低の自己紹介だった。


 ほんの1か月や2か月の時が経てば、進級した時の新鮮味というものは薄れ、繰り返しの日常が訪れる。薫の日常と言えば、授業中は気を失ったように机に突っ伏して涎を垂らし、学校が終わればグラウンドを駆ける生徒たちの姿がシルエットと化すまでボールを追いかけ、意味もなくベンチを守り続け、家の中では相変わらず居心地の悪い思いをし、鬱屈とした思いを発散するように自慰に耽る。惰性という言葉が相応しかった。

 純太郎は進級してもギターの練習を続けていた。彼はサッカー選手になりたい訳でもなく、音楽家になりたい訳でもないように見えた。何かに熱中していなくてはいけないという使命感。誰かと自分を比べるでもなく、ただひたすら自分の心の穴を埋めるために周囲にあるものをかき集めているようだった。

 毎週日曜日の昼間、純太郎は薫を営業前のスナックに呼びつけ、存分にギターの腕前を見せつける。佳純と薫は並んでソファに座り、酒を舐めながら純太郎がギターをかき鳴らす様子を見ていた。

 アルコールが顔にまで及んだ薫は、純太郎の奏でる音が耳障りで仕方がないと感じていた。

 佳純は退屈であることを示すように立て続けに3本煙草を吹かし、3本目を吸い終わったあとに、カラオケの機械に曲を送信した。間もなく、天井に届きそうな位置にあるブラウン管の画面が切り替わり、BUMP OF CHICKENの天体観測が流れ始めた。

「薫、知ってるでしょ? この曲。歌ってみてよ」

 佳純にマイクを差し出され、薫は困惑した。その曲は薫が好んで聴いていたため、もちろん知っていたが、歌を歌うこと自体の経験はあまりにも乏しく、上手に歌う自信はなかった。

 純太郎はギターを弾く手を止め、薫をじっと見つめていた。

 イントロが終わる頃、薫は息を吸い込んだ。はっ、という音がマイクに収音され、スピーカーから吐き出されたことに恥じらいを感じた。自らの息遣いを他人に聞かれることに羞恥することを不思議に思いながらも、薫は声を発さなければならなかった。

 薫は、BUMP OF CHIKENのボーカリストの声を音として思い出していた。すり潰された低音が薫の胸の内に響いていた感覚を、肺の中で酸素と混ぜ合わせ、喉を伝って空気を振るわせた。

 佳純の歓声に搔き消されるほどの薫の声は、未完成であり、不安定なものだった。けれど、鏡張りの部屋に放たれたその声は、純太郎と佳純の心に跳ね返り、薫の耳へと戻ってきた。薫はその様子に少なからず喜び、同時に、純太郎の弛まぬ努力に水を差すような真似をしている自分に腹が立った。

 薫は歌いながら、純太郎の表情を鏡越しに見た。

 ギターを握りしめながら、口を半開きにして薫を見つめる純太郎の姿は、羨望を体現していた。

 水で薄めたような旋律と、佳純の叫び声にも似た歓声が、薫の耳の奥で遠のいていた。

 

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