第10話
午後の部活動を終えた生徒が下校する頃には、空は蒸され、赤黒くなっていた。
薫と鐘井と純太郎は、帰る方向が同じで、鐘井は薫に肩を並べて歩き延々と自慢話を繰り広げ、その一歩後ろを純太郎がぼんやりと歩いているのが常だった。鐘井の父親が若い頃、喧嘩に明け暮れていたことだとか、祖父の背中に刺青が入っていることだとか、自分を大きく見せるための姑息な話にはまるで興味が無かったけれど、薫はその度に、続きを促すように何度も頷き、唸り、質問をした。鐘井は時折振り返り、純太郎にこの間貸したCDはどうだったとか、耳を傾けさせるための工夫をした。純太郎はいつもの調子で相槌を打ち、話が途切れればまた木々の騒めきや往来する車の排気音に身を委ねるように視線を外した。
薫は、鐘井に自分の家庭の話をした。父親が新興宗教に傾倒している話や、母親が父親名義のクレジットカードを無断で使い、100万円を超える金額を請求された話など、沈黙に急かされるようにベラベラと喋った。鐘井は甲高い声で笑い、容赦なく薫の両親を人でなしと馬鹿にした。
薫はそんな鐘井に調子を合わせて恥じるように笑った。鐘井の挑発も、両親の裏切りも、薫を被害者意識のぬるま湯に浸らせる材料になっていた。
「お前は悪い奴だな。親の悪口を笑って言える奴は、悪い奴だよ」
鐘井の言葉は、底のない沼から生えた手のように、ずるずると薫を深く暗い場所に引き込んだ。薫の意識に、悪い奴という言葉を浸み込ませるように何度も、何度も、耳元で繰り返す。
鐘井の腕が薫の肩に回され、耳元に鐘井の声が近づいた。
「禄でもない親から生まれたお前も、禄でもない人間なんだよ」
掌に汗が湧き出て、胸が締め付けられた。薫はそんな時でも笑顔を作った。鏡を見て、今の自分の笑顔を確認したかった。目を細め、広角を上げて歯を見せる。そうして、生まれる家を間違えたとお道化ながら言う。言ってから、自分の胸に問い返す。本当にそうなのだろうか。きっとそうなのだろう。不毛だった。
鐘井を家まで送り届けたあと、ようやく薫と純太郎は肩を並べる。並んで歩いていても、純太郎から口を開くことはなかった。時折、手に持った水筒に口を付けたり、額に浮かんだ汗を腕で拭ったりして、退屈そうに歩いている。
「純ちゃんの家はどうなの?」
「別に、普通だよ。なんなら恵まれてるのかもしれない」
純太郎は堂々と言う。人の心に寄り添う為に同情を使ったりはしない。薫はその度に、目に見えないほどの小さな傷を作っていた。次の言葉を紡ぐには、純太郎の言葉を一度咀嚼しなければいけなかった。
帰宅した薫は、学生鞄の中から交換日記を取り出した。今日は薫の番だった。
日記の内容は相変わらずだった。千尋とJasperと薫が他愛のない日常的な会話を繰り返すだけ。けれど、他人の日常を覗くことは楽しかった。自分が生きていることを実感できるのだ。非現実の中に囚われそうになった時には、現実的過ぎるほどの現実を直視することが効果的だった。
千尋には歳の離れた種違いの兄がいるらしい。小さい頃に遊んだ記憶はあるが、今の姿は知らないと言う。父と母は共働きで、裕福な家庭ではあるが大きな家でひとりきりで過ごすことはあまり楽しいことではないらしい。
Jasperは一人っ子で、幼い頃に父と母は離婚し、父子家庭として育てられていると言う。家に帰ると知らない女が居ることが屡々あるらしく、会釈を交わしたあとは二階の自室で1日を過ごすらしい。
それらは、日記の中で驚くほどに気さくに語られていた。まるで自分は不幸者ではないと言い張るように、包み隠さず平然と話すのだ。
薫は自分の家庭事情を話さなかった。学校であったこと。勉強が退屈であること。友人関係。それらを書き、千尋に渡す。薫の心の内としては、自分の苦悩を打ち明け、同情を買いたいと思う反面、弱い人間と決めつけられることを恐れていた。悪い奴。禄でもない人間。その言葉が過る度に、薫は必死に苦痛を飲み込んでいた。
本当は、誰かに気付いてほしかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます