第9話
梅雨が明けると、太陽は急かすように路面の水溜まりを干上がらせ、道行く人間の体の水分を奪った。薫と純太郎は、コンビニで60円で買った氷菓を食べながら、真上から降り注ぐ直射日光に苛立っていた。首元から滑り落ちた汗は、背中と胸をTシャツに張り付かせる接着剤のようで不愉快だった。
「純ちゃんの家、どこ?」
看板が錆びて店名も読み取れない店を通り過ぎた所で、薫は純太郎に言った。店の中をちらりと覗くと、祖父母の家でしか見たことがないような柄の布団が積み重なっていた。
純太郎は返事の代わりに足を止め、とある建物を見た。白い壁に電飾でSNACKと書かれている。スナックの隣には軽自動車が停められており、人ひとりがようやく通ることができる間隔を空けて車が2台停められる車庫があった。
「ここが純ちゃんの家?」
「いや、ここは婆ちゃんがやってるスナック。俺の家はこの奥」
スナックの裏側には、立派な和風の家が建っている。薫は氷菓の最後の一口を口に放り込み、棒を見て、何も書かれていないことを感慨もなく確認してからハズレ棒をしゃぶった。
「ちょっと待ってて」
純太郎はそう言って、軽自動車と車庫の間の細い道を通り、摺りガラスの引き戸に鍵を差し、中に消えた。家の中から騒がしい動物の声が聞こえてくる。小型犬が吠えている。
氷菓の棒からソーダの味が消え、木の味が口の中に広がりだした頃、純太郎が鍵束を持って家から出てきた。黒いビニール製のギターケースを背負っていて、鍵束を持った反対の手には小型のアンプを持っていた。鍵のジャラジャラという音がスナックの裏手に消えたあと、入り口の扉が開けられた。
「入っていいよ」
純太郎は不愛想にそう言った。お邪魔します。薫はそう言って、店の中に入る。半開きの木製の扉を押し開けると、ドアベルが店内に鳴り響いた。
鏡張りの壁と、ぼんやりとした黄色の照明と
純太郎は壁沿いに設置されたソファに腰かけ、ギターケースのファスナーを開けて青色のエレキギターを取り出している。
「見ろよ、かっけえだろ、これ」
純太郎とは反対側のソファに、誰かが仰向けで眠っているようだったが、机が置かれているためよく見えない。まるで机から生えたように白い太腿があり、膝から下はまた机に隠れている。
誰かが眠っている側の机の上には、ウィスキーの瓶と、空いたグラスと、ティッシュの上に広げられたピスタチオの殻と、何種類かの煙草の吸殻が入った灰皿と、水色のパッケージの煙草とライターが置かれている。
「それは気にしなくていいぞ」
アンプにシールドを差し込みながら純太郎は言う。
「あれ、誰?」
「俺の姉ちゃん」
純太郎のストロークに合わせてアンプから角の立った音が放出される。素人の耳にも、うまいとは言えない演奏だった。ぎこちない運指で発される音は、恐ろしく速度を落とした誰かの曲だった。
「なんの曲?」
「ニルヴァーナ」
純太郎は手を止めて、ギターケースから1枚のCDを取り、薫に差し出した。釣り針に付けられた1ドル札を追いかけるように泳ぐ全裸の赤ん坊の写真がジャケットになっている。
「初めて聴いた時、ビビったよ」
純太郎はそう言って、先ほど披露した演奏とまったく同じクオリティで再現を始めた。その質とは対照的に、純太郎の表情は自らが奏でる音色に酔いしれているようで、純太郎の体全体から、その全ての毛穴から自信が満ち溢れているように感じられた。それは、ボールを操っている時と同じだった。
ゴン、と突然純太郎が座っている反対側のソファの辺りから大きな物音がした。それは、裁判で傍聴席を静まらせる木槌の一撃のような音だった。
薫と純太郎が音の方を見ると、例の純太郎の姉が不機嫌そうな顔で空いたグラスを握りしめていた。
「へったくそな音出さないでくれる? お陰で寝覚めが悪い」
純太郎の姉は鋭い眼つきでそう言うと、机の上に置かれた煙草を1本取って火を点けた。立ち上った紫煙は、淡い照明の中をぐるぐると泳いでいる。
「サッカー一筋のクソガキのくせに、イッチョマエにギターなんか始めちゃって」
挑発的に上がった広角の隙間から、煙が噴き出す。純太郎の姉はグラスにウィスキーを注いで立ち上がり、カウンターに置かれた炭酸水でそれを割った。尻が隠れるほどの丈のだらしなく皺が寄ったTシャツから、青い血管が透けた太腿が伸びている。
「うっせえな、高校生のくせにこんな時間から酒飲んで煙草吸ってるあんたに言われたくねえよ」
純太郎は不満げに言った。
「私らしさと、自由を追い求めた結果がこれなの。酒と煙草は20歳からなんて、馬鹿なルールだと思わない?」
純太郎の姉の目線が問いかけるように薫に移動した。
「やめろよ姉ちゃん、こいつに絡むな」
「いいじゃん。私の知る限り世界で一番根暗な弟に友達がいたなんて、気になる」
純太郎の姉は、薫の座っている丸椅子の隣に腰かけ、酒と煙草を交互に呑んだ。
話をしていると、彼女は
「君は、どんな人間なのかな」
佳純は口の中に残った煙を気だるそうに吐き出しながら言った。薫は、組まれた右の太腿が柔らかく潰れている様子から目が離せなかった。
「純ちゃんと同じ、根暗ですよ」
「もしかして、純に憧れてるの? やめときなよ、ダサいから」
佳純の言葉に、純太郎は舌打ちをしてギターを弾き始めた。ひとつひとつの音を確かめるようなその演奏は、反復する苦悩に前進する術を模索していることが有体に伝わってきた。
「別に、憧れてるわけじゃないです」
「じゃあ、似たもの同士なんだね。自分は不幸ですって顔に貼ってあるもん」
「不幸なことは、ダサいですか?」
佳純は、グラスの中の液体を半分ほど飲んで、煙草をもみ消してから、首を横に振った。
「そうじゃない。自分だけが不幸だと思い込んでるのがダサいの。あんたらも私も、所詮はまだガキなんだから、自分の境遇を嘆くにはまだ早いじゃん」
薫は、少なからず怒りを覚えていた。薫に必要な人間は、尤もらしい説教をする人間ではなく、生傷をそっと舐めてくれる都合の良い人間だったからである。薫の脳内に色濃く刻まれたあの日の母親のように、優しく頭を撫でてくれる心地の良い温もりが欲しいだけだった。
「確かに、そうですよね」
薫は、恥ずかしそうな表情で笑ってみせた。
佳純に何杯か酒を飲まされ、連絡先を交換した後スナックを出ると、外は橙色の明かりと闇が混ざり、街灯と電飾が白けた強い光を放っていた。風が強く吹いていて、昼間の空気の熱を攫って行ったようだった。
薫の網膜には、美しささえ感じる純太郎の直向きな表情が焼き付いていた。
薫は歩きながら、小さな頃から嫌というほど聞かされた夢という言葉を考えた。小学生の時、授業で自分の夢を語る時間があった。ひとりずつ、用意した作文を手に黒板の前に立ち、恥ずかしそうに将来の自分の姿を夢想していた。
薫は、警察官になりたいと語った。嘘だった。警察官になりたいと思ったことなど、一度も無かった。警察官になりたいと言えば、周りの生徒や教師から立派な夢を持っていると褒められることを知っていたから嘘を吐いたのだ。
またある時は、教室の中央に一脚の椅子とビデオカメラが置かれて、カメラの前で夢を語ることを強いられたこともあった。その時の薫は、カメラの前でヘラヘラと笑いながら、ラスベガスに住むことが夢だと適当なことを喋った。教室の外で待っている生徒と教師は薫を馬鹿だと笑った。薫に注目していた人間が一斉に笑っている様子を見て、自分の役目を見つけ出した気がした。用意された答えを口にするよりも、用意した出鱈目を喋ることで自分らしさを演出することができたのだ。
夢なんて。ずっとそう思っていたはずなのに、どうして純太郎の姿が輝いて見えてしまうのだろう。夢を持ちたがっている自覚はない。けれど、その酷く抽象的な言葉は、確実に薫の前に横たわっていた。
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