第8話

 1日の授業を終え、生徒たちが一斉に教室から出ていく。開け放たれた窓から漂ってくる風の匂いと際限なく広がる透明な空は、夏が訪れようとしていることを、顔を上げた人間に等しく教えていた。ねえ。薫は、鞄を背負って教室から出ようとしたところで声を掛けられた。振り返ると、薫の肩ほどの高さに千尋の頭があった。

「どうしたの?」

 薫が返事をしても、千尋は相変わらず目線を薫から逸らし、意味もなく教室の壁を見ていた。薫たちの傍らを通り過ぎる生徒たちは、異端者を見る目つきだった。

 恥じらいを孕んだ沈黙は、生徒たちの喧騒が遠のくまで続いた。千尋は意を決したように薫の目を見て、鞄から小さなノートを取り出した。これ。千尋は短くそう言って、薫にノートを差し出した。表紙には、マジックペンで交換日記と書いてあった。

「前のやつは汚れてたから、新しいのにした」

 薫は、以前のJasperと千尋の交換日記に自分の名前を書いて返したことを思い出した。

「いいの?」

千尋は小さく頷き、足早に去っていく。教室には、いつの間にか薫ひとりだけが残っていた。

 薫は、交換日記の1ページ目を開いた。日記は、千尋から始まっていた。

 私たちの日記に勝手に名前書いたバカがいる。千尋

 え、だれだれ。Jasper

 勝手に名前書いたバカです。斎藤薫

 薫は鞄からペンを取り出し、日記に書き足した。


 西日に照らされたグラウンドに、ボールが弾む。1年生が列を成して順番を待っている。薫の前には純太郎が並んでいた。

「俺さ、ギター始めたんだよね」

 額に光る汗をティーシャツの襟ぐりで拭いながら純太郎は言った。

「なんで急にギター?」

「別に、何か始めるのは大体急だろ」

 純太郎の前に並んでいる生徒がボールを蹴る。ゴールとの中継地点にいる生徒がボールを受けて軽く蹴り返す。

「それにしても、きっかけがあるじゃん」

 帰ってきたボールを受け止めて、生徒がボールを運んでいく。その足さばきはまだまだぎこちなかった。

「この間じいちゃんが死んでさ。それで貰った。今度薫に見せてやるよ。青いエレキギターで、めちゃくちゃかっこいいいんだよ」

 生徒がゴールに向かってシュートを打つ。中途半端に浮かんだボールは、弱弱しくゴールキーパーの胸元に飛んでいき、軽々と受け止められる。

 顧問の教師が笛を吹き、純太郎はボールを蹴った。中継地点の生徒がボールを蹴り返す時には、純太郎は走り出していた。勢いが殺されたボールは、純太郎に身を委ねるているようだった。右足が振り上げられ、重心が左に傾く。足の甲がボールの中心を捉えると、ボールは命を吹き込まれゴールの右隅に向かって飛んでいく。ゴールキーパーは棒立ちのままだった。

 すべてが瞬きの間に起きたようだった。火花が散ったあとのように、ゴールネットに収まったボールは沈黙した。

 純太郎は、己を取り巻く雑念や煩悩を置き去りにし、前進を続け、入部して数か月で上級生からレギュラーをもぎ取り、周囲からは天才と持て囃されるようになった。薫は、いつしか純太郎に対して憧れよりも劣等感を強く抱くようになっていた。自己防衛という名の現実逃避が胸の中心に居座っていて、どうしようもない嫉妬心が、掛け替えのない友人の存在でさえ自分と比べたがっていた。

 苦しい。そうやってひとりで苦しがっていることですら、自ら海に飛び込んで自作自演をしているようで腹立たしかった。

 荒々しく笛の音が鳴る。中継地点には純太郎が立っている。

 純太郎のように、自分を曝け出して生きていけば良いじゃないか。音を持たない声が頭の中で響いた。純太郎のように自分らしくというのは、本当の意味での自分らしさではなく、純太郎の模倣に過ぎないのではないか。取り留めのない苦悩こそが、まさしく自分らしさではないか。だとすれば自分の存在は愚かだ。

 純太郎に向かって蹴ったボールは、純太郎に優しく受け止められ、薫が蹴りやすい方向に転がされた。役目を終えた純太郎は、列の最後尾に向かって去って行く。

 薫は走り出した。皮脂と砂埃の臭いが混じった風が強く吹いた。赤みを帯びた西日がキーパーの背を照らしている。自らが発する息遣いと足音だけが聞こえている。ボールの左横に軸足である左足を置き、少し重心を傾ける。あとは右足を振り抜くだけだった。

 薫は目線をゴールから逸らし、校庭の端で駆けている陸上部の女子生徒を見た。軸足をわざとずらして、体勢を崩しながら右足を振り抜いた。

 右足は勢いよく空を切り、薫は尻もちをついた。周囲で部員の笑い声がする。

「斎藤! 何やってんだお前この野郎!」

 声は怒っているが、顧問の教師も呆れたような表情で笑っている。薫も照れた笑い顔を浮かべながら尻に付いた砂を払った。

 列の最後尾に向かう途中、並んでいる部員たちに、陸上部のあの子の足に見惚れたと教えた。馬鹿だなあお前。真面目にやれよ。部員たちは愉快にそう言った。

 

 

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