第7話

「その渡辺って女子、おもしれえやつだな」

 朝練習の後、薫は、千尋が小柴のことを殴った話を純太郎にした。周囲では汗まみれの1年生たちが制汗剤を体に吹きかけている。薫と純太郎は校舎の外壁に背を預けながらスパイクシューズの紐を解いていた。ひんやりとしたコンクリートの床が体の熱を吸い取って心地よかった。

「そいつの気持ち、ちょっと分かる気がする」

 純太郎は、脱いだスパイクをシューズケースの中に入れながら、いつもと同じ平坦な口調で言った。

「確かに、渡辺と純ちゃんはなんとなく似てるかも」

「まあ、俺だったらもっと早い段階でぶん殴ってると思うけどな」

 もしも俺が千尋だったら、どうしているだろうか。薫はふとそう思った。きっと、黙ったまま苛められることも、何かを守るために暴力を振るうこともしないだろう。

「薫だったらどうする?」

 純太郎は素肌の上からワイシャツを羽織って、ボタンを留めながら薫に尋ねた。薫は、体を汗拭きシートで丁寧に拭いながら唸った。メントールの臭いがツンと鼻を突いた。薫は、いかに回答ができるかを思考していた。

「俺だったら、そいつの親も、いつか産まれてくるそいつの子供も呪うかな」

 純太郎は鼻を小さく鳴らして笑い、鞄を肩に掛けて立ち上がった。薫も慌ててワイシャツを着て、純太郎と共に校舎に入った。

 薫の学級の1年8組は、まだ全員揃っていない様子だった。窓際や席の前後で友人同士で談笑するその光景は、先日血が流れた場所と同一であるとは考えられないほど和やかだった。

 教室の後部の入り口から最も近い席で、いつものように千尋は俯いて座っていた。文庫本を持つその右手には、包帯が巻かれている。小柴の席を一瞥すると、席は空いていた。改めて教室にいる生徒たちを見ると、談笑しているように見えて、その目線は盗み見るように時折千尋に注がれている。

「渡辺、ちょっと来て」

 薫は、千尋の背後を通り過ぎる際に、周囲に聞こえないようにそう言って教室を出た。少しあって、千尋も続いて教室から出ていく。廊下でも生徒の往来があり、千尋の姿を見た生徒は声を潜めて話し合いながら各教室に入って行く。千尋が小柴を殴った話は、既に他学級にも広まっているようだった。

「手、大丈夫か?」

 薫に言われて、千尋は痛々しい右手を隠すように背後に回した。千尋の表情は、相変わらず石膏で固められたように不愛想だった。その表情の裏側に、可愛らしい普段の千尋の一面があると思うと、その仮面を割りたい衝動に駆られてしまいそうになった。

「別に、大したことない」

 千尋の声は、周囲の生徒たちの喧騒にかき消されてしまうほど弱かった。意識的に薫と目を合わせないようにしているのか、千尋は大袈裟なほど首を床に向けていた。

 薫は鞄から日記を取り出して千尋に差し出した。

「これ、小柴をぶん殴ってでも取り返したかったほど大事な物だろ」

 千尋は逡巡するように黙ったまま差し出された日記を見つめたあと、奪い取るように左手で乱暴に日記を受け取り、教室に戻った。

 薫は、千尋の心の動きは読み取ることができなかったが、彼女の脳内に薫の存在を確かに印象付けることに成功した達成感を抱いた。


 その日、薫が家に帰ると、真っ暗な台所に母親が佇んでいた。

「母さん、ただいま」

 薫は、闇の中にぼんやりと浮かぶ母親のシルエットに声を掛けた。煙草の火種が一瞬強く光り、影から煙が噴き出した。煙と共に、母親のおかえりという声が漂った。流し台にはいつの間にか食器が堆積していた。もう何日も洗い物をしていないようだった。シンクの淵に小さな蝿が止まっている。

 薫はワイシャツの袖を捲って食器を洗い始めた。母に気を使って、電気は点けなかった。古い換気扇の稼働音と、水が流れる音が唯一時間の経過を証明しているようだった。

「……薫、お母さんと一緒にどこか遠くにいこっか」

 そう言った母親の声は、独り言のような響きで、恐ろしいほど無機質だった。母親の目には映らないだろうけれど、薫は笑顔を作った。母親に、自分が母親にとっての敵ではないことを証明したかった。

「どうして?」

 蛇男と接吻を交わした唇が煙草を吸い上げる音がして、溜息にも似た音が聞こえた。

「お母さんはもう疲れちゃったの。ひとりで死ぬのは寂しいから、薫と一緒に死にたい」

 薫は、ワイシャツの下の体操着が汗で背中にぴったりと付いていて、不快感を覚えた。いつの間にこんなに汗をかいていたのだろう。十分汚れが落ちた皿を未だにスポンジで磨き続けている。泡が皿を伝って流れていく。母親の言葉も、薫自身の思考も、やけに他人事のように思えた。

「薫が殺してくれたら、お母さんは嬉しいから」

「どうして、死にたいの?」

 薫は異様に喉が渇いていたため、問いかける声が上擦っていた。空気が薄くなっているような、或いは、押しつぶされそうなほどの質量を持っているような感覚があった。

「薫には分からないよ。だって、薫はまだ子供だから」

「じゃあ、母さんを殺したあと、俺はどうすればいいの?」

 無意味な質問であることは薫自身も解っていた。母親は血迷っているだけなのだから、薫は諭すだけの役割に徹するべきなのだ。

「……ごめんね、薫。こんなお母さんで、ごめんね」

 目が慣れたのか、母親の姿が薄く見える。根本の辺りまで減った煙草を挟む指が、少し震えているように見えた。薫の胸中で、慈悲と憎悪が滲み出る。薫は首を何度か横に振った。否定と肯定の両方を意味していた。

 薫は濡れた皿を水切り籠に置き、台所から洗面所に向かった。電気を点けると、闇に慣れていた視界はちかちかと眩んだ。鏡に映った薫と、目が合う。中学校に入ってから、随分と痩せたようだった。肌は陽に焼け、頬は窪み、目の下に隈が出来ている。

 ワイシャツと体操着を脱ぐと、肋骨と腹筋が浮き出た浅黒い肌が露わになった。乾いたゴムのような肌に、茶色や、緑や、紫といった痣が所々に出来ている。賢に振るわれた暴力と比例して、痩せた身体に痣が増えていく。傷が治っていくのと同じように、罅割れた心もいつかは修復されるのだろうか。

 鏡の中の薫は、何も答えてはくれなかった。

「俺は、可哀想?」

 薫は、自分と目が合ったまま、自分に問いかけた。鏡の中の薫は、薫と全く同じように口を動かした。

「俺は、死んだほうがいい?」

 もう一度、問いかけてみる。返答などあるわけがなかった。しかし、薫にとっては、無意味であるはずの行動が少なからず安らぎをもたらしていた。自分自身を卑下することで被害者意識を生み出し、その居心地の悪さに安心していたのである。

 気付けば薫は、鏡の前で笑みを浮かべていた。

 やっぱり、こっちの方が都合が良い。

 


 

 

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