第6話

 薫は、浅い眠りの中に居た。水面に石が落ちて波紋が広がるように、見知らぬ男たちの低い声が意識の彼方で響いている。人間が発する熱気と、アルコールの臭いが漂ってきて、薫は薄く目を開けた。

 明かりの灯った賢と薫の部屋。枕元に置かれた時計は午前2時を指している。4人の男が薫に背を向けて胡坐をかいている。そのうちの1人は賢の後ろ姿だった。

 男たちの傍らには空き瓶や凹んだ空き缶が転がっている。男たちの歓声。テレビを見ているらしい。薫は布団の中に潜り込み光を遮断して、蹲って両手で耳を塞いだ。

 大学生になった賢は、毎晩のように友人を部屋に連れ込み、朝まで酒を飲みながらテレビゲームをしていた。薫はその度に眠れぬ夜を明かしていた。

 突然薫が被っていた布団が剥がされ、髪を掴まれた。耳元で酒臭い吐息と共に、起きてるかあ、と賢の声がした。薫は固く目を瞑り、答えず、また布団の中に潜り込んだ。

「薫君は寝てるってさ」

 賢がおどけてそう言うと、連れの男たちの笑い声が布団の外から聞こえてきた。薫は、息苦しい暗闇の中で痛いほど拳を握りしめた。その全てが、薫の心の弱さを代弁しているようだった。頭の中で恨み節を繰り返し、奥歯を噛みしめながら目を瞑る。腹が立つなら、殴ればいいじゃないか。悔しいのなら、言い返せばいいじゃないか。その思考は心の弱さに打ち負かされ、鳴りを潜めてしまう。殴っても、言い返しても、俺が痛い思いをするだけだ。なら、黙っていればいい。飲み込んでいればいい。苛立ちも、悔しさも。

 賢たちが朝方眠りに就く頃、薫は一睡もできなかったまま学校へ行く支度を始める。狭い部屋で鼾をかく不良たちを起こさないようにそっと扉を開けて、洗面所で顔を洗い、歯を磨き、体操着の上から制服を着て、脛当てとソックスとジャージーと、千尋の交換日記を鞄の中に入れ、運動靴を履き、太陽が昇り始めたばかりの外に出た。

 エントランスで、いつものように純太郎が待っている。純太郎は、中学校に入ってから長い金髪を剃り、坊主頭になっていた。入部初日で顧問に髪を掴まれながら怒鳴られ、その次の日には頭を丸めてきた純太郎の姿は薫でも一瞬別人かと思うほど印象が変わっていた。

「顔色悪いぞ、また兄貴が家に誰か連れ込んでたのか?」

 純太郎は相変わらず表情の変化に乏しく、いつも不機嫌そうに話す。不器用な純太郎なりに気遣ってくれているらしい。

「まあな、もう慣れたよ」

 20分ほど歩いて学校に着く頃には、冷たい風と共に太陽が吹き上がり、木々や校舎やサッカーゴールに影を作り始めた。

 校庭の隅に所々塗装が剥げた樹脂製の青いベンチが幾つか置かれており、サッカー部の生徒はその周辺に学生鞄を放り投げる。

 支給されてから数か月しか経っていないのに、生徒たちから雑に扱われた紺色の鞄は土埃と傷で薄汚れていた。上級生の鞄は更に色褪せ、穴が開き、みすぼらしく汚れているため見分けがついた。下級生たちはベンチから少し離れた場所に一塊に鞄を置いた。

 眠気で思考に靄が懸かったまま制服を脱ぎ、体操着の上からジャージーを羽織り、朝のランニングが始まる。

 校庭の四隅を回るかたちで1週が500メートル。それを10周。約5キロメートルを走るのがサッカー部の朝練習の始まりだった。

 純太郎は軽快にスタートし、周りの生徒たちを抜き去った。薫は体力もなく、根性もないため、どんどん追い抜かれた。そもそも薫がサッカー部に入った理由は、純太郎が入ると言ったからというだけのことで、サッカーが好きなわけでもなかったためにやる気も無い。

 まだ5週もしていないのに息が切れ、喘ぐ度に気管が乾き、掠れ、こめかみが痛み、肋骨が軋んだ。吐き気さえも込み上げてきて、薫は走る速度を緩めた。

 顧問が立っているスタート地点から最も離れた位置の木陰に、両手を地面に着いて座り込む鐘井が居た。陸上部の練習風景を眺めながら欠伸をしている。

「カネ、サボってていいのかよ?」

 薫が話しかけると、鐘井は手に付着した土を払って立ち上がった。

「ほら、この位置からだとあいつらから見えねえだろ?」

 鐘井は顔を薫に寄せて顧問が立っている位置を指さした。確かに、鐘井と薫が立っている場所は、ソフトボール部の練習場所の真裏になっているため、忙しなく動き回るソフトボール部員の姿とフェンスによって鐘井たちの姿は隠されている。

「それに、俺らが何周走ったかなんて、あいつらは数えてねえよ」

「うん、でも俺は行くよ」

 薫はそう言って再び走り出した。

 鐘井から少し離れた位置で振り返ると、鐘井が薫の後続の部員に足を引っかけて転ばせ、その様子を見て笑っている光景が目に入った。

 ランニングが終わると、ボールを用いた基礎練習をする。息を整える暇もないまま、黄土色に変色した運動靴と蒸れた靴下を脱ぎ、脛当てを着けてソックスを膝下まで引き上げ、スパイクシューズを履いて駆け足でサッカーコートに整列する。

「気を付け! 礼!」

 部長である上級生の生徒が足跡ひとつなく整地されたコートに向かって声を張り上げ一礼すると、他の部員たちも続いて頭を下げた。

「よろしくお願いします!」

 純太郎の隣に薫が並び、その隣には鐘井が並んでいる。3人は首だけを少し曲げて、小さく、「お願いします」の「す」だけを発音した。

 薫たち1年生は、軽いパス練習の後はボール拾いをするだけだった。他の部のコートにボールが飛んでいかないように、上級生たちを囲むように等間隔で並び、練習風景を茫然と眺めていた。

 荒々しい掛け声、靴底の鋲が土を掘り起こす音、シューズとボールが衝突し空気が弾ける音、ゴールネットとボールが擦れる音、地面でボールが跳ねる音。

 薫はその全てが退屈だった。早く終わらないかな。

 汗まみれの男たちが球を蹴りあっている様子よりも、薫の真後ろで行われている女子テニス部の練習風景を見ている方が余程有意義だった。彼女らの陽に焼けた首筋を伝う光る汗や、胸元に張り付いた体操着や、膝上までしかないズボンの裾から覗く引き締まった太腿を眺めていたいのだ。

「1年! ボール行ったぞ!」

 遠くから上級生の声が聞こえて、薫は我に返った。遥か頭上から薫に向かってサッカーボールが落下してきている。薫が落下地点を予測できずに右に左に体を揺らしていると、隣でその様子を見ていた純太郎が動いた。

「薫、任せろ」

 ボールは地面に近づくにつれて速度を上げた。

 純太郎は薫の前に立ち、左膝を伸ばしたまま足首を空に向かって曲げて、ボールを迎えに行くように左足を地面から浮かせた。

 ボールは、音もなく純太郎の左の足首に吸い込まれ、蹴り返したボールは正確無比に上級生の足元に飛んで行った。

 一連の動作を見た薫は、どうしようもない無力感に苛まれた。純太郎のように直向きに何かに取り組むこともできず、かといって鐘井のように躊躇なく悪意を剥き出しにして奔放に生きることもできない。ハムスターが車輪の中で忙しそうに回り続ける光景と同じように、自分の思考や行動は周りの人間からしてみれば無意味で、滑稽なのではないかとさえ思えてきた。運動も学力も平均以下。道化に徹してまで人に好かれようとする心の弱さ。

 ゴールポストの錆や、陸上部の顧問が吹く笛の音や、何十メートルも高く張られたネットの向こう側に見える格子柄の厚い雲が、まるで緻密な絵画でも見ているかのように違和感を帯び、薫の意識から遠ざかった。

 虚無が作り出す何もかもが張りぼての絵画世界に佇む薫の身体の中心で、声が聞こえた。

 実際に薫が発声しているわけではなく、抑圧された叫びが薫の脳内で薫の声を利用して響いている。

 薫はその声を拒絶しようと、思考を断絶した。それは、薫の強い意思によって虚無を跳ね返したというよりも、虚無に背を向け逃げ出した感覚に近かった。

 

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