第5話
初めて詰襟の制服に袖を通し、校章が彫られた金色のボタンを掛けた時、薫は大人になった気がした。傷ひとつない紺碧の学生鞄を肩に提げ、純白の運動靴を履き、校門を潜った。
錆びついた校門や罅割れた校舎や、踏み均された校庭はすぐに薫たち新入生を学校の一部にした。定められた服装と髪型に身を包み、協調性と規律を刷り込まれる。顔も知らない32名の生徒が押し込められた教室に薫は息苦しさを覚えた。
教室の壁に貼られた紙に載っている1年8組の生徒たちの名前に純太郎の名前はなかった。
継ぎ目に埃が溜まった床、4本の足の1本だけが地面から浮いて安定しない椅子、無数の線状の傷が刻まれた机、チョークの粉が隅に残った黒板、その全てが使い古されていた。真新しいのは、薫たちだけ。いや、これから先に残された有り余るほどの時間よりも重要で、濃密な時間を過ごした薫たちには相応しい薄汚れた空間だった。
薫はその空間を退屈に感じていた。真面目な顔をして周囲の顔色を伺う人間ばかり。薫とは似て非なるものだった。薫はその空間を壊してやろうと思った。
小学生の時とやり方は変わらなかった。
ある日薫は教室の男子生徒を何人か集め、耳にしたこともないであろう卑猥で低俗な言葉を聞かせた。男子生徒たちは喜び、薫を持て囃した。行き場のない不可解な性欲を持て余す男子生徒たちは、学校の授業よりも性の伝道と規律の違背を渇望していた。そうして薫はすぐに学級の中心人物になった。
薫の周りには常に金魚の糞のような弱者が付き纏った。誰かに必要とされることには悪い気はしなかったが、薫の機嫌を伺うような彼らの表情は不愉快だった。人に取り入るなら、もう少しうまくやれよ。薫は、心の中で悪態をつきながらも笑顔を振りまいた。
新入生たちが学校生活にようやく慣れ始めたころ、自分が位置する食物連鎖の階層を知るために、それまで息を潜めていた醜い羊たちは獲物を探し始めた。
「渡辺、なに読んでるんだろうな、あれ」
薫と話していた小柴が、教室の隅の自分の席で手帳のようなものを読んでいる千尋を見ながら言った。小柴は、小学生の時に鐘井に舎弟と呼ばれていた哀れな男子生徒だったが、中学生になり鐘井の呪縛から逃れられたようだった。鐘井から鞍替えするように薫にすり寄ってくる小太りでおかっぱ頭の小柴の態度は、薫にとって不愉快だった。
小柴の声につられて薫を囲んでいた他の生徒も千尋を見た。千尋は無表情のまま、机に広げた手帳を見つめていた。
「ちょっと行ってくるわ」
小柴はそう言って立ち上がり千尋の元へと歩み寄った。薫の周りの生徒たちはクスクスと笑いながら小柴の後を付いて行った。薫は窓際の椅子に座ったまま、その様子を傍観していた。
「ねえ、渡辺さん、それ、なに読んでるの?」
小柴は千尋の背もたれに手を置き、手帳の中身を覗き込みながら教室中に響き渡る声で言うと、それまで談笑していた他の生徒たちの視線も千尋と小柴に注がれた。
千尋は黙ったまま手帳を閉じ、席を立とうとした。小柴は千尋の手首を掴み、反対の手で千尋の眼鏡をもぎ取った。千尋が顔を隠すように俯くと、小柴は嬉しそうに眼鏡を掲げた。教室中の生徒が、小柴の愚行を黙って見ている傍観者に成り下がっていた。
――おい小柴ぁ、どうすんだよそれぇ
小柴の取り巻きの誰かが笑いながら言った。小柴は黒板の傍までゆっくりと歩いて行き、ごみ箱に眼鏡を捨てると、取り巻きたちの歓声にも似た下卑た笑い声が上がった。薫はその様子を見ていても特別な感情を抱くことはなかった。群れに属さず、反抗もしないのは、千尋自身の選択なのだから。
千尋は俯いたままの姿勢でごみ箱まで行き、中に手を突っ込んで眼鏡を拾った。小柴は千尋を見下ろしながら笑っていた。
千尋が眼鏡を掛けようとした時、小柴はもう一度千尋から眼鏡を奪い取り、薫に投げ渡した。飛んできた眼鏡を薫が受け取ると、傍観者たちの視線は追いかけるように薫に移動した。千尋はごみ箱の前で俯いたままだった。
「薫ぅ、どうするぅ」
小柴は粘度のある声で厭らしく言った。薫は表情を変えずに眼鏡を掛けて立ち上がり、千尋が佇むごみ箱まで歩いて行った。
薫が千尋の前に立っても、千尋は相変わらず声を発さなかった。
その時薫は、小学生の時の純太郎のことを思い出した。なりふり構わず机を跳ね除け、教師に立ち向かっていく純太郎の姿が、なぜだか薫の脳内に強制的に呼び起こされたのだ。
薫は、自分の頭ごとごみ箱に突っ込んだ。教室は一瞬唖然とした雰囲気になり、小柴が笑い出したことを皮切りに傍観者たちも笑った。薫は横倒しになったごみ箱から頭を抜き、おどけたような表情で教卓に立ち、右手を天井に向かって真っすぐ上げた。
「どうも、ゴミでえす」
薫の言葉に生徒たちがまた笑った。やべえなあいつ。薫さいこう。どこかから薫の道化を称賛するような声が聞こえてくる。教室の中で、千尋だけが薫に目を向けていなかった。スピーカーから予鈴が鳴ると、生徒たちは気だるそうに各々の席に戻り始めた。千尋もゆっくりとした動きで踵を返して歩き出した。薫は眼鏡を外し、レンズにべっとりと付着した指紋を学生服の裾で拭った。
おい、渡辺。薫が千尋を呼び止める。他の生徒たちは未だ談笑しながらのろのろと歩いている。千尋はゆっくりと振り返り、顔を上げた。その表情を見た薫は思わず戸惑った。
千尋の表情は、生存競争をまるで意識していない、薫たちとは種族の違う生物のようだった。生徒たちによる悪ふざけの範疇を超えた行為すらも、千尋にとっては蚊に刺された程度のことで、僅かな量の血を吸って満足した下等生物の存在を意にも介していなかったのだ。
薫が眼鏡を差し出すと、千尋は上目で薫を一瞥したあと、黙ったまま受け取り、その小さな耳に眼鏡のつるを置いて、何事もなかったように平然と席に戻った。
薫は、その日以来千尋の存在を意識するようになった。恋愛感情があったわけではなく、それは、初めて純太郎を見た時の感覚と似ていた。純太郎と千尋は、深く暗く、それでいて、荒涼とした感情を抱えているようだった。これまでの人生、もしくは、生まれてきたことに対しての怒りと憎しみと絶望。それらの繊細な感情は、些細なきっかけで決壊してしまう。
どれだけ嫌がらせを受けても抵抗や報復をすることのない千尋に対して、意地の悪い生徒たちは歯止めがかからなくなっていた。
ある日の放課後、複数の男子生徒が千尋の机を囲み、陰湿に歪んだ笑みを浮かべていた。千尋はいつものように俯いて座っていた。薫もいつものように、最前列の窓際の席からその様子を眺めていた。
小柴は千尋の正面に立っていて、学生鞄を抱えている。小柴は鞄のファスナーを開けて、逆さまにした。プリントの束と何冊かの教科書やノートが千尋の机の上に音を立てて落ちた。
小柴は空っぽの鞄を放り投げ、1冊の手帳のようなものを拾い上げた。窓から差し込んだ斜陽が作り出す小柴たちの影は教室の壁で折れ曲がり、醜悪な心を映し出すように歪な形に伸びている。
「なんだこれ……交換日記だって!」
生徒たちの壁の隙間から、千尋の姿が僅かに見える。無感情な横顔から伸びた白い首。セーラー服の肩が小刻みに震えているように見えた。
小柴は交換日記を開き、内容を読み上げようと口を開き息を吸い込んだ。その時、薫の視界では千尋の姿が一瞬男子生徒の壁の中に呑まれた。
何かが倒れる大きな音がしたあと、生徒たちは狼狽えたように身動ぎし、壁に隙間ができた。倒れた机と椅子の間に、千尋が立っていた。
千尋が右腕を振り上げたかと思うと、小柴目掛けて真っすぐに飛んでいき、拳が顔面を捉えた。皮膚に覆われた硬い物同士が衝突する鈍い音が鳴る。直後、小柴は鼻の辺りを両手で抑え、腰を折り曲げて呻いた。小柴が持っていた日記が開かれたまま床に落ちた。
千尋は拳を握りしめたまま、殴った直後の姿勢で固まっていた。薫は立ち上がり、千尋の傍まで行った。
受け皿のようにした小柴の掌の隙間や、手首を伝って大量の赤黒い血が地面に流れ落ちていた。
「折れた、鼻が、鼻が折れた」
血に染まった指の間から粘ついた血液と共に小柴の情けない声が零れている。
――やべえ、めっちゃ血ぃ出てるよ
――マジやばくねえか
小柴の取り巻きたちは我に返ったように騒めき始めた。
「おいお前ら、なにやってんだ!」
通りかかった男性教師が教室に入ってきて、小柴と千尋を連れ出し、取り巻きたちは気まずそうに教室を去った。
ひとり教室に残った薫は、濡らした雑巾で床の血を拭い、散らばった教科書やノートを拾い集め、千尋の机の中に入れた。交換日記は、開かれたページが赤く濡れていて、そこに書いてある字はほとんど読めなかった。
執拗な嫌がらせに耐え続けていた千尋が、この交換日記を読まれそうになった途端に暴力を振るった。この日記には、知られてはいけない秘密が書かれているのではないか。
薫は日記を家に持ち帰った。
日記の最初の数ページは血が浸み込んでいなかったため読み取ることができ、内容は千尋とJasperという名前の人物との日々のやり取りだった。千尋が綴っていたことは、普段の千尋の様子からは想像できないような明るい話題ばかりだった。どこのクラスの誰がイケメンだとか、母との買い物のことだとか、お笑い番組のことだとか。本当の千尋は女の子らしく、優しく、気さくな性格であることが窺えた。Jasperはそんな千尋の話題を一緒になって楽しんでいるようだった。
薫は父親の部屋のパソコンを使ってJasperという言葉の意味を調べた。
ジャスパー。日本語では碧玉という物らしい。赤や緑色の鉱物で、宝石や勾玉の材料として使われることが多く、体中を巡る血液や、深く澄んだ海や、暗く淀んだ川のような色をしている碧玉は、妖艶で、それでいて不安定な感情を醸し出す悪女を想起させた。
千尋のことがもっと知りたい。ジャスパーという人物の正体を暴きたい。薫はそう思った。
そして薫は、何も書かれていないページに自分の名前を書いた。
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