第4話

 「これ、どうしたんだよ?」

 賢は、部屋の壁に立てかけてあった釣り竿を見つめながら、訝しげに言った。母親の不倫相手の蛇男が薫にプレゼントした物だった。

 蛇男が、母親の唇を食っている映像が、薫の脳裏をかすめた。

 角度を変えたり、母親の舌を吸ったりしているあの光景を、忘れてはいけない醜く忌々しいこととして薫の目が、脳が、映像として鮮明に記憶したのだ。

 薫は、母親が父親以外の人間とキスをしていたことを、賢に打ち明けてしまおうかと一瞬思ったが、その選択は、崩壊の一途をたどる斎藤家に止めを刺し、薫の今が、未来が、より困難になってしまう気がしたので言葉を飲み込み、代わりの言葉を探した。

「……知らないおじさんに貰った」

 嘘は言っていない。けれど、薫の顔に嵌め込まれた無知な少年の表情は、偽りだった。

 そんな薫の選択は、無意味だった。

 母親は役所から離婚届を持ってきて、薫と賢の前で平然とした表情をしていた。自分は何も悪い事はしていないとでも言うように、「夫」の部分を空欄にして、それ以外を淀みなく書き込んでいる。

 離婚の意味を、当時の薫はなんとなく理解していた。斎藤家の分解。薫が危惧していた事態が、目の前で起ころうとしているのである。

 しかしそのあと薫が見た光景は、空欄部分に署名する父親の姿ではなく、用紙を真っ二つに破り、手の中で丸め、ゴミ箱に投げ入れる賢の姿だった。

 薫は、この時ばかりは賢の行動を賞賛したかった。

「何してんだよ」

 小学生の薫よりも、離婚の重大性を理解していた賢は、リビングの机の上に置かれた離婚届を見て激昂した。

「俺と薫を捨てる気か?」

 震える声で言う賢は、込み上げる怒気に、悲愴を内包していた。その様子は、薫には泣き落としのように見えた。

 俺が捨てられても、兄ちゃんにはどうでもいいことなのに。

 賢は、薫の名前を利用して母親の良心に訴えかけようとしていた。

「親父には言わないでおくから、考え直せよ」

 母親は机を見つめたまま、ペンを強く握りしめ、顎を震わせ、堰を切ったように泣き喚いた。薫は、大人が泣いているところを初めて見た。まるで子供のようだった。机の上に突っ伏し、背中が波打っている。母親の泣き声はシャボン玉のように膨れ上がり、薫の耳で何度も弾んだ。

 母さんはどうして泣いてるんだろう。

 薫は、薫よりも小さくなった母親の頭を撫でてやった。母親は薫の顔を見上げた。充血した目から幾筋もの涙が頬を伝い、透明な鼻水が糸を引いてぶら下がっていた。そこには、蛇男に見せためかし込んだ面影は無かった。

「辛いよ、辛いよ、薫、どうすればいいんだろう」

 母親は薫を抱き寄せ、顔を薫の腹に埋めた。薫の腹の中で、母親のむせび泣く声が響いていた。その光景を見た賢は舌打ちをして部屋に戻り、扉を乱暴に閉めた。

 次の日薫は、学校で鐘井たちに母親が不倫したことを面白おかしく話した。降り積もる鬱屈とした感情を抱え込むよりも、笑い話に変えてしまうほうが薫の心は幾分か安らいだ。

「俺が駐車場に行ったら、母さんと知らないおじさんがベロを吸い合ってたんだよ」

 薫はその時の光景を思い浮かべながら、目の前に母親がいるかのように空気を抱き寄せ、舌で円を描いた。鐘井とその手下たちの笑い声が教室の中に響いた。

「それ、父ちゃんの部屋にあったエロ漫画で見たわ。ディープキスっていうらしいよ」

 鐘井は椅子に深く腰掛けながら言った。薫と鐘井は向き合って座っており、鐘井の後ろに並んで手下たちが立っている。

「たぶんさ、薫の母ちゃんとそのおじさんはセックスもしてるよ」

 手下たちは興味深そうに鐘井に耳を傾けた。

「まんこの中にちんこを入れるんだよ」

 鐘井は、左手の人差し指と親指で輪を作り、右手の人差し指をその輪の中に入れた。薫は、母親の性器に蛇男の性器が入っている様子を想像した。想像するだけで吐き気を催す光景だった。しかし薫はその行為に興味を持ち、家に帰って父親の部屋に行った。鐘井の父親がそのような漫画を持っていたのならば、薫の父親も例外ではないと思ったからだった。四段に分かれた本棚を注意深く一冊ずつ見ると、四段目の雑誌が並べられている場所に、水着姿の女の写真が表紙に載った雑誌を見つけた。ページを捲ると、別の水着の女が四つん這いになっている写真が載っていた。薫はその写真を食い入るように見た。女の物欲しげな表情と、両腕の間でぶら下がった大きな胸を見ていると心の底から抗いようのない本能的な感覚が湧きあがり、薫の好奇心を駆り立てた。同じような写真が載っていたあとに、薫は破られた袋とじを見つけた。何気なく袋とじを開いてみると、そこには全裸の女の写真が載っていた。薫は、普段の生活の中では見ることができない、そして、見てはいけないものを見てしまったような気がした。露わになった女の乳房と、黒々とした陰毛に隠された性器を見ていると、薫の下腹部は熱を帯びた。学校では学ぶことのない、男の性欲を弄ぶ本物の性が確かにそこに存在していた。

 薫は違和感に気付き、ズボンとパンツを下した。いつもとは違う自分の性器の様子に、薫は驚いた。地面と平行に立ち上がった陰茎の先の包皮は捲れ上がり、赤く腫れあがった亀頭が露わになっている。観察していると、性器は次第にうな垂れるように下を向き、収縮していき、元の姿に戻った。いけないことをしてしまった。薫はそう思い、雑誌を元あった場所に戻し、家族が帰宅したあとも何事もなかったかのように振る舞った。

 賢は帰宅すると真っ先に部屋に行き、薫の入室を拒むように乱暴に扉を閉めた。母親は帰宅と同時に台所の換気扇の下に行き、ハンドバッグの中から煙草を取り出し火を点けた。唇の隙間から流れ出た煙が換気扇によって乱暴に巻き取られる様子を薫が見つめていることに気付いた母親は弱く笑ったあと、煙草始めちゃった、と小さく呟いた。それは、薫に向けられた言葉なのか、母親の独り言なのかは薫には分からなかった。

 最後に父親が帰宅して、自室のハンガーラックにジャケットを掛け、数珠を持って仏壇の前に正座し、何かを唱えた。母親が寂しげな表情で煙草を吸う姿と父親が目を閉じて数珠を擦る姿は、薫からすると無理をして救いの糸口を模索しているように見えた。薫の理解の範疇を超えた生産性のないそれらの行動は、そのようにして理由付けをしないと説明がつかなかったのだ。

 妄信、性愛、暴力。それらは薫の日常に入り込み、手招きしていた。しかしそれらは薫を強引に引き込もうとはしなかった。薫自身の意思で歩み寄ってくることを待つように、陰湿に、強かに一定の距離を保っていた。

 そして薫は、自分の身に起こっている異変に気付いた。

 ある日賢は両親がいない隙を見計らって、募った苛立ちを発散させるために薫の頭を風呂場の浴槽に沈めていた。暴れる薫を押さえつけ、賢は笑っていた。薫が苦しがっている光景を見るのは愉快だった。薫の抵抗が弱くなるまで押さえつけ、意識を失う直前で引き上げる。

 薫の精神的苦痛は限界を超えていた。13回目の、賢が薫の濡れた髪を掴んで浴槽に近づけたときだった。薫の視界で揺れる濁った水面が、頭上の換気扇の音が、賢の息遣いが、髪を掴まれている痛みが、肺と心臓の痛みが。そのすべてが唐突に現実味を失った。現世と自分を繋ぐ脳内のプラグが引き抜かれてしまったかのように、薫の思考や感覚が色褪せた。13回目、顔が水面に触れても薫は全く抵抗しなかった。水の温度や息苦しさも感じなかった。水中を漂うぼやけた髪の毛と埃を、ぼんやりと見つめていた。薫の感覚では数十秒間、精神と肉体が乖離していた。水中から顔を引き上げられた時、薫の肉体と精神はようやく一体化した。ひとつの塊となった感覚と記憶が脳内で弾けたようだった。埃に覆われた換気口から風が抜ける音が聞こえる。心臓が忙しく脈打っている。顔を伝った水がティーシャツを濡らしている。掴まれた髪の根本にある頭皮が痛む。

 焦点が合っていない目をしたまま浅い呼吸を繰り返す薫の姿を見た賢は気味悪がった。

「なんなんだよ、お前」

 賢の声が浴室の壁に響いた。

 薫は失望していた。死ななかった。そう思った。数十秒前に経験した虚無に落ちたような感覚は、まるで死に拒絶されているようだった。

 薫は、その経験をした以降から頻繁に虚無に落ちるようになった。それは、落とし穴に落ちるように前触れもなく突然起こるのだった。子分の腹を力任せに蹴りつけながら笑っている鐘井を見た時。薄暗い教室から、雨が伝う窓を見た時。考え事をしている純太郎の横顔を見た時。それらに規則性は無かった。感覚を失っている時間はせいぜい数秒間のことだったので、周りの人間に悟られることはなかった。しかし、その虚無は長い時間をかけて、ゆっくりと着実に薫の心身を蝕んでいくことになったのだった。

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