第3話

 純太郎には、腐れ縁のような関係性の男がいた。薫や純太郎が通う小学校の同級生で、鐘井かねいという生徒だった。鐘井は薫が所属している集団の親玉のような存在であり、幼くして狡猾で、悪辣あくらつで、暴力によって他人の心をまるで安い玩具のように弄ぶ人間だった。鐘井と純太郎の両親は仲が良いため、ふたりは小学校に入るよりも前から親を介しての交流があった。けれど純太郎は、鐘井の存在を良いものとは思っていなかった。


「最近純太郎と仲良さそうじゃん」

 ある日の昼放課、校庭のサッカーゴールの裏で薫は鐘井に話しかけられた。薫の他にも、13人の同学年の生徒がたむろしている。そのうちの藤澤と小柴という生徒は鐘井からと呼ばれていた。藤澤と小柴に限らず、鐘井に従う生徒たちは全員鐘井のことを恐れていた。

「あいつはやめとけよ」

 鐘井はそう言って、プールの外壁にもたれ掛かり、鐘井たちが屯しているサッカーゴールの反対側のゴールを見た。そこでは、純太郎がひとりで練習をしている。

「どうして?」

 薫が問うと、鐘井は純太郎を見つめたままあわれむように目を細めた。純太郎がボールを蹴る度に砂煙が立ち上り、純太郎の姿を霞ませた。

「なあ薫、なんであいつの髪は変なんだと思う?」

 純太郎は肩まである髪を金色に染めていた。薫はその金色の髪をだと思ったことはなかった。という言葉に対する否定と、質問の答えが分からないという意図で、薫は首を振った。

「あいつは、カワイソウなんだよ」

 そう言って鐘井は体を震わせて笑った。カワイソウ。薫は、母親の言葉を思い出した。薫が可哀想。どうして俺と純太郎はカワイソウなんだろう。

 純太郎は足先や体重移動を利用して蛇行しながらボールを運び、右足がくの字に折れ曲がったと思うと振り子の要領でシュートを打った。ボールは規則的に縦に回転しながら真っ直ぐにゴールへ向かう。砂煙が風に流され、純太郎の姿が明瞭になった時には、ボールはゴールネットの中で動きを止めていた。

「薫もそう思うだろ? 純太郎がカワイソウだから友達になってあげたんだろ?」

 鐘井のにやけ面に、薫は苛立ちを覚えた。純太郎が笑われることは、薫自身が笑われることと同じだと感じた。しかし、その感情は恥じるように胸の内の薄い膜の中に姿を隠し、代わりに、薫の表情は鐘井に同調するように薄ら笑いを浮かべていた。

「あんまり仲良くないから、わかんない」

 純太郎はボールを拾い上げて白線で書かれたセンターサークルの辺りまで戻って、もう一度ドリブルをしながらゴールへと向かって行った。薫の視界から純太郎の姿が遠く、小さくなった。

「まあ、あいつとはあんまり仲良くならない方がいいよ。薫も変になっちまうから」

 鐘井が踵を返して校舎に向かって歩き出すと、鐘井の手下たちも鐘井の後ろに付いて歩き去った。薫はプールの外壁を背凭れにして膝を立てて座り込んだ。いつの間にか純太郎の足元からボールはなくなっていて、ゴールの中に収まっていた。

 薫は首を上に向けた。細い幹の広葉樹が青々と葉を茂らせ、時折吹く風に揺れ、枝葉の隙間を埋めるように晴れた空が見えた。薫たちは、4年生になろうとしていた。


「薫、会ってほしい人がいるの」

 母親は、洗面台で化粧をしながら鏡越しに薫を見た。薫は母親の後ろに立っていた。母親の顔から首に掛けての肌はいつもより白く、眉の色は濃く、赤い口紅が引かれた唇は作り物のように艶立っていた。

「どんな人?」

 薫は鏡を見つめたまま訊ねた。母親は化粧の出来栄えを確認するように顔の角度を何回か変えた。

「会ってからのお楽しみ」

 薫と母親がマンションを出ると、エントランスの前に銀色のセダンが一台停まっていた。母親は躊躇なくその車の助手席に乗り込み、戸惑う薫に手招きをした。母親の隣、運転席には縁の細い眼鏡を掛けた痩身の男がハンドルに手を添えて微笑みながら薫を見つめていた。薫は男に一礼をして、後部座席に乗り込んだ。

「薫君、初めまして」

 そのあとに男は名乗っていたが、状況を飲み込めていない薫の耳には届かなかった。運転席から薫を覗き込む男の顔に、薫は得体の知れない恐怖を感じていた。銀縁眼鏡の奥にある、飢えた蛇の眼光のようなぎらつきは、優しく上がった口角には不釣り合いだった。

「これからどこに行くと思う?」

 ルームミラーに映った蛇の眼が、薫に問いかけた。

「わかんない、です」

 母親の屈託のない笑みを浮かべた横顔を見た薫は、男に失礼な態度をとってはいけないと思い、できるだけ可愛げのある表情で答えた。

 男は車内を盛り上げようとたくさんの話をしていたが、どの話題も薫には興味のないことだった。

 1時間ほどすると、車はとある駐車場で停まり、男はトランクから釣り竿を2本取り出した。

「今日は薫に釣りを教えてあげる」

 薫の名前の呼び方からは、いつの間にか「君」が消えていたが、薫はそれに気付いていない振りをして、無邪気に喜ぶ振りもした。

 それから薫は、母親と男がどのような関係であったかを知ることになった。

 釣りの楽しみ方が分からず、薫が退屈を嚙み殺して数時間が経った頃だった。

「ちょっとトイレに行ってくるから、薫はここで待ってて」

 男はトイレに行き、薫は辺りを見回してみたけれど、母親の姿は見えなかった。

 誰もいない空間では演技をする必要もないので、薫は竿を地面に置いて、向かい側で釣りをする親子を眺めていた。子供の小さな手が握る竿を、父親の逞しい手が後ろから支えている。ふたりとも、混じりけのない笑顔だった。それから、魚を釣り上げて嬉しそうにしている子供の頭を父親は撫でていた。

 羨ましい。

 そう思って、薫は後悔した。後悔しないと、薫の今までの演技が全て無駄になってしまう気がしたからだった。

 雑念をかき消すように親子から目線を逸らし、薫はズボンのポケットをまさぐった。しかし、指先には布の感触があるばかりで、目当ての物は入っていない。

 薫は、母がよく舐めているオレンジの味ののど飴が大好きだった。

 母親は、喉が痛くなくてものど飴を舐めようとする薫に呆れて、薫の手が届かない台所の吊戸棚にしまっていた。

 今日も家を出る前に、母親が目を離した隙にリビングから椅子を持ってきて飴をくすねたはずだった。

 薫は記憶を辿った。

 可能性があるのは、車の中だった。何かの拍子にポケットから落ち、座席に取り残されているのではないかと薫は思った。

 もう一度、辺りを見回した。

 やはり男と母親の姿は見当たらない。

 薫は決心して、駐車場に向かって歩き出した。

 辺りで釣りをしている大人たちに、迷子と思われないように、薫は堂々と歩くことを心掛けた。子供たちのはしゃぎ声、大人たちの談笑、風に吹かれた梢の音さえも薫の心臓を高鳴らせたけれど、駐車場まで来てしまえば、喧噪はすっかり消え去り、不気味なほどに静まり返り、砂利敷きの広い駐車場を歩く薫の足音だけが周囲に響いているような感覚だった。男が車を停めた場所には目印があったので、薫はすぐに車を見つけることができた。

 駐車場の出入り口からも、施設の出入り口からも少し離れた場所にある、湾曲しながら太く長く伸びた木の下に、銀色のセダンが一台停まっている。

 枝を覆い隠すように茂った葉が影を落とし、車の中はよく見えない。

 不安定な地面を確かめながら、薫は一歩ずつ車に近づいた。

 そして薫は、足を止めた。

 車の運転席には男が、助手席には母親が座っていた。

 男と母親は向かい合い、キスをしていた。母親は顔を傾けているため、白い首と顎と、少し開かれた唇が動いている様子が見える。男は口元を何度も器用に動かし、時折唇から舌を出し、母親の口の中に潜り込ませていた。

 薫は、体温が急速に下がるのを感じた。空気の流れが止まり、薫自身の鼓動の音が耳の奥で響いている。幼いながらに、目の前で何が行われているか、漠然としてはいるが分かったのである。

 汚らわしい禁断の行為。

 欲深き蟒蛇うわばみが、母親の唇を貪っている。

 薫は踵を返し、走って釣り堀まで戻った。

 言い得ぬ恐怖と、不快感が薫の身体に張り付いていた。正常な思考が黒く塗りつぶされてゆき、かき混ぜられた。

 まだ経験の浅い人生に詰め込まれた濃密な苦悩に、薫は叫びだしそうだったけれど、男と母親が薫のもとへ戻ってくる頃には、薫の手は釣り竿を握り、顔には無垢な微笑が貼り付けられていた。

 

 


 


 


 



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