第2話

 薫は小学校3年生になるまで友人と呼べる人間が居なかった。正確には、自分を偽って付き合っている人間のことを、友人とは呼んでいなかった。

 そんな薫に初めてできた友人は、杜純太郎もりじゅんたろうという同級生だった。純太郎は不器用な人間だった。昼放課には皆それぞれの友人で固まり、教室や校庭で思い思いの遊びに興じることが小学生の日常だが、純太郎はいつもひとりきりでサッカーボールを蹴っていた。薄汚れたトレーニングシューズを履き、体育館の外壁に向かって白黒のボールを蹴るその姿は、孤独そのものだったけれど、自分が孤独であることを恥じる様子もなく泰然とし、心のままに生きているようにも見えた。同じ孤独である身のはずなのに、薫とは正反対の存在だった。薫は外野から後ろ指をさされることを何よりも恥じ、恐れ、自分を偽り、学年の中で最も悪目立ちしている集団に属していた。群れの外の人間を嘲笑し、苛めにも加担した。それでも、罪悪感や良心の呵責に苛まれることはなかった。苛められる人間は、自らを守ることもできない弱い生き物だと思っていたからだった。そんな甘ったれた人間は、鏡を見ているようで反吐が出そうだった。

 3年生の時に、薫と純太郎は初めて同じ学級になった。授業中の純太郎はいつも上の空だった。窓際の最前列の席で、肘を支柱にして掌に顎を乗せて窓の外を眺めているのが純太郎の常だった。

 窓枠に切り取られた白い光が、純太郎の金色の髪を輝かせている。学校中の生徒の髪の色は、示し合わせたように黒一色だったので、純太郎の金髪はひときわ目立っていた。

「杜、よそ見するな」

 教師に注意されても、純太郎は瞬きひとつしなかった。梢に茂った緑葉が陽光を透かしながら風に揺れている様子をじっと眺めている。枝葉の影が、純太郎の机の上でゆっくりと波打っていた。

 おい、聞いてるのか。教師が語気を強めてもう一度言った。そんな授業態度なのはお前だけだ。純太郎は口をつぐんだまま首を教師に向け、目を合わせた。純太郎の席の斜め後ろの席で薫はその様子を見ながら緊張していた。その場の空気に、教室中の生徒たちは凍り付いていた。

「お前のために言ってるんだぞ」

 教師のその言葉を耳にした瞬間、純太郎は突然立ち上がった。椅子の足の底が床に引き摺られる音、机が跳ねた音、椅子の背が純太郎の背後の机に衝突する音。それらは純太郎の心の内を代弁するように、薫の鼓膜を激しく振動させた。うるせえ! 俺にメイレイするな! 純太郎の感情は、導火線を介さず突如爆発したのだ。純太郎は目の前の机を跳ね除け、駆け出し、教師に飛び掛かった。

 純太郎が集団に属していなくても周りから虐げられたことがない理由が、薫は分かった気がした。皆、純太郎の逆鱗に触れることを恐れていたのだ。純太郎は、群れから弾き出された黒い羊ではなく、孤高の狼だったのである。

 教師の上半身にしがみつこうとした純太郎は、軽々と受け止められ、両脇を抱えられた。

「落ち着け!」

 教師に持ち上げられ、両手をがむしゃらに振り回す純太郎の姿は、無謀な愚か者だった。妥協や協調や恐れを知らず、己の感情の躍動のみに従ったのだ。

 同じなのに、違う。薫はまたしてもそう思った。薫も教師のことが嫌いだった。教師の吐く言葉は何もかもが張りぼてで、都合が良く従順で個性の無い生徒を作り上げているように見えたからだ。しかし、薫はどんなに教師が嫌いでも反抗しようとは思わなかった。薫にとっては、学級という大きな群れの一部と化すことが何よりも重要だったのだ。

 ちくしょう、ちくしょう! 暴れる純太郎を、教師は廊下まで引き摺った。

「いい加減にしろ!」

 廊下に響き渡る教師の怒号が、教室の欄間らんまを震わせた。生徒たちが騒めいた。薫は、純太郎が座っていた席をぼんやりと見ていた。恐怖に服従し続けていた心が、微かに熱を帯び始めたような気がしていた。

 その日の学校からの帰り道、薫は純太郎に声を掛けた。純太郎はランドセルの肩ひもを左肩にだけ提げて、ネットに入ったサッカーボールを蹴りながら歩いていた。

「サッカー、好きなの?」

 純太郎は表情を変えずに、うーん、と唸った。改めて見ると、純太郎のティーシャツから覗く腕や首は浅黒く焼け、半ズボンから伸びた脚のふくらはぎは筋肉が発達し、引き締まり、滑らかな曲線を描いていた。

「俺、サッカーしか知らないからさ」

 純太郎は恥ずかしそうに言って、歩き出した。純太郎がボールを蹴り上げる音が心地よいリズムで響いている。道路沿いに立ち並んだ家々も、夕日を吸い込んだ桜の葉も、今は押し黙っている。

 小学校の近くには小さな公園がある。かつて賢が薫にビワの摂り方を教えた公園だ。純太郎はその公園の前を通りかかった時、やってみる? と薫に訊ねた。薫は笑顔で頷いた。ふたりは青いペンキが所々剥げた石のベンチにランドセルを置いた。純太郎はネットから白黒のボールを出して、薫に向かって蹴った。薫が砂利の上を滑るボールを足の裏で受け止めると、純太郎は、違うよ、と言った。

「ここで止めるんだよ」

 純太郎は自分の右足の土踏まずを掌で叩いて示した。西日を受けたふたりの影が、公園の中心で伸びている。少し肌寒い風に乗って土埃の匂いと、どこかから夕飯の匂いが漂ってくる。カレーかな、と薫は思った。

「純ちゃんは、学校が嫌いなの?」

 薫はボールを蹴り返して訊ねた。ボールは地面の凹凸に合わせて細かく跳ねたあと、純太郎の足元でぴたりと動きを止めた。

「うん。でも、俺が悪いんだと思う」

 純太郎の言葉に、薫がそれ以上言及することはなかった。薫も同じことを思っていたからだった。自分の行いが正しいと思うには、ふたりはまだ若すぎたのだ。

 ふたりは、互いの影が見えなくなり、額に浮いた汗が乾くまでボールを蹴り合った。ボールを受け止め、蹴り返す度につま先から頭まで高揚感が駆け上り、ふたりは時間を忘れていた。孤独を分かち合ったのである。

 その次の日は、今度は薫が純太郎を遊びに誘い、駅前のゲームセンターで対戦型のアーケードゲームの遊び方を教えた。サッカーしか知らなかった純太郎は、自分の指の動きに合わせて画面の中のキャラクターが動くことに感動していた。

 煙草の煙と、雪崩のような機械の音や人の声や熱気が立ち込める地下1階の空間で、ふたりは夢中になってゲームをした。紫煙しえんを透かしながら薄暗く灯る照明の下で、煌々こうこうと光る画面に照らされた純太郎の横顔の引き結ばれた唇を見て、薫は純太郎があまり笑わないことに気付いた。周囲の悪意や狂気から身を守るために完璧な作り笑いを覚えた薫とは対照に、純太郎の表情は薄氷はくひょうのように脆く、針のように鋭く繊細な心を映し出していた。純太郎から放たれるその雰囲気を、薫は脳に焼き付け、自分の物にし、いつでも記憶から引っ張り出して作り物の表情の上から貼り付けられるようにしようと思った。


 斎藤家の影が肥大し、濃くなったのは、ちょうどその頃だった。

 大手不動産会社に勤める薫の父親は、真面目で、口数はあまり多くはない人間だった。家庭のことに干渉せず、いつも無表情を貫いていた父親は、ある日突然鬱になってしまった。誰にも吐き出せずにいた鬱屈としたものが父親の心の中で破裂し、あらゆる感情が漏れ出し、カラになってしまったようだった。

 斎藤家の夫婦仲は既に傷付いていたが、父親が鬱になったことでその傷はより深い溝へと変わった。

 母親はそんな父親を見捨てるように賢と薫の分の夕飯だけを用意して眠り、夜遅くに帰宅した父親は薄暗いリビングでコンビニ弁当を食べるのが日常になった。父親の様子は次第に変化した。白髪の本数が急激に増え、両目は穴が空いたように黒々とし、頬はこけ、家族と会話することはほとんどなくなった。

 薫は、父親の心に空いた穴に子供が触れてはいけないと思い、父親を労わることができなかった。 

 そんな父親を救ったのは、とある新興宗教だった。憔悴していた父親は会社の上司の勧誘を受け、藁にも縋る思いで入信し、傾倒するには時間を要さなかった。父親の部屋には額に入った教祖の写真が飾られ、観音開きの仏壇が置かれた。教祖の顔は、どこにでもいるような小太りで白髪の老人だった。朝晩と仏壇に念仏のようなものを唱えるうちに、父親はみるみるうちに活力を取り戻していった。

 薫の母親は、そんな父親を軽蔑した。

「薫、あの人に何か言われても信用しちゃだめだからね」

 ある日母親は薫の頭を撫でながら優しい口調でそう言った。薫は従順に頷いたが、内心は誰を信用すれば良いのか分からなかった。家族や、周囲の人間が巧妙に薫を騙し、陥れようとしているようにさえ思えた。それは、薫に訴えかける母親の目が嘘を吐いている人間の目をしていたからだった。母親の優しく細まった瞼の中にある瞳は、影になった薫の姿を反射していた。

 薫自身が正誤、善悪の判断をしなければ、形容しがたい深い陰影のようなものに引き摺り込まれてしまいそうだった。

 

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