機械仕掛けの華

結城ヒカル

第1話

 青年は、自らの弟である少年の頭に鉄の塊を振り下ろした。

 薄暗い部屋に差し込む橙色の光が青年の背中に当たり、少年の視界では青年の姿が影のようになって見えていた。

 頭頂部からやや左にずれた位置に直撃した重く硬い鉄は少年の頭蓋骨を振動させ、内包された柔らかい脳を揺らした。少年は膝から崩れ落ち、フローリングの床に四つん這いになった。少年の視界で白黒の斑模様が激しく点滅している。耳の後ろと額と瞼と頬に生温い液体が伝った。口に入って、錆臭くて苦くてしょっぱい味がした。

 液体が手の甲と床に滴った時、少年はそれが血液であることに気付いた。少年は声を発することができなかった。ただ茫然と、赤黒い血が弾けて円形に広がる様子を見つめている。

 少年の傍らには、猫の死体がある。手足をぴんと伸ばした体勢で硬直し、眼球は乾き、その網膜には皺が寄って光が無い。

 青年は少年の襟首を掴んで、引き摺るようにして洗面所に連れて行った。

 水が流れる音。髪を乱暴に掴まれて、洗面台に引き上げられる。冷たい。刺々しく冷えた水が髪を伝って流れた。

 少年は、黴が張り付いた排水溝に吸い込まれる自分の血を見つめていた。

「お前が悪いんだからな」

 青年は、少年の頭を濡らし、見下ろしながら言った。少し声が震えていた。

「うん、ごめんなさい」

 青年は、実の弟に暴力を振るうことに一抹の罪悪感を抱くと共に、胸の中の異物が解消されるような感覚があった。


 斎藤家に次男が生まれたことによって親の愛情が分散されてしまったことが全ての暴力の根源だった。

 斎藤家に初めて生まれた子は、けんと名付けられた。賢は両親の愛情を独占し、すくすくと育った。

 5歳の時、賢は母親に弟が欲しいと言った。七夕の日には、青い短冊に弟が欲しいと書き笹に吊るした。その1年後に、賢にとっての弟が生まれた。賢の弟は、かおると名付けられた。賢は自分に弟ができたことを喜んだ。赤ん坊の薫がぐずれば駆け付け、あやし、薫の笑顔を見て賢も微笑んだ。薫が歩くことができるようになると、賢はどこへ遊びに行くにも薫を連れて行ったため、薫はすぐに賢に懐いた。

 そして賢が12歳の時、斎藤家に変化の兆候が訪れた。

「薫、見てろよ」

 賢は手首にビニール袋を引っかけて、太い枝にぶら下がり、幹を蹴って木に登った。賢の姿は生い茂った葉に隠され、薫からは木がざわざわと揺れている光景しか見えていない。

 しばらくすると、膨らんだビニール袋を持った賢が自慢げな表情で降りてきて、薫に中を見せた。黄色く小さなビワの実が袋いっぱいに入っていた。それからふたりはビワを水道水で洗って食べた。ビワは大味だったが、賢も薫も夢中になって食べた。

 家に帰ると、その日あった出来事を薫は母親に嬉しそうに報告した。母親は薫の頭を撫でながら笑顔で話を聞いていた。薫の目線の高さに合わせて話を聞く母親の姿が、賢の記憶にある母親の笑顔と重なり、賢は一抹の寂しさを感じた。

 薫は、賢と遊ぶたびに嬉々として母親に報告した。賢は母親の微笑みと薫の照れくさそうな後ろ姿を黙って見ていた。今日は兄ちゃんと飛行機を飛ばしたんだよ。今日は兄ちゃんと土手滑りをしたんだよ。

 賢は薫を連れていつものように公園に行った。よく晴れた日だった。

 その日賢は何もする気になれず、楽しそうに走り回る薫の姿をベンチに座ったままぼんやりと眺めていた。薫の小さな靴が、代わる代わる地面を蹴る様子だけが賢の視界の中で動いていた。右足、左足、右足。動きが繰り返される。

 薫のつま先に、大きな石があった。薫は気付かず、その石を蹴飛ばし、弾みで転んだ。受け身も取らずに地面にうつ伏せに倒れた薫は一瞬茫然としたあと、驚きと痛みで声を上げて泣き始めた。賢は薫に駆け寄り、傷口に付いた砂と流れ出る血を水道で洗い流してやり、薫が泣き止むまで頭を撫でて慰めた。

「ほら、痛くないだろ? もう泣くなよ」

 ふたりが帰宅し、薫が怪我をしたと知った母親はそんな賢を頭ごなしに叱った。

「薫はまだ小さいんだから、ちゃんと見ててあげないとダメでしょ」

 賢が、でも、と口を開くと、母親は、言い訳なんか聞きたくない、と一蹴して、薫の傷口を消毒し、絆創膏を貼ってやり、痛かったね、と頭を撫でた。

「でも…薫は勝手に転んだンだ。俺のせいじゃないよ」

 薫に対する妬みが、賢の喉元に迫り上がっていた言葉を声として押し出した。母親は賢を睨みつけた。軽蔑するような、冷たい視線だった。

「じゃあ、薫のせいだって言うの? 薫が可哀想。薫は、賢が見ていてあげなかったせいで転んだの」

 母親の言葉に、賢は愕然とした。薫が怪我をしたのは、俺のせい? 理不尽に突き付けられた疑問が頭の中でどろどろと溶けて渦巻いた。薫の柔らかい髪に乗せられた母親の掌は、賢の頭を撫でるためにあったはずだったのに。気付けば賢は、痛いほど拳を握りしめていた。

 じゃあ、俺が怒られたのは、薫のせいだ。

 そう思うと、涙ぐみながら上目遣いで母親を見る薫が途端に憎たらしくなった。

 俺は悪くない。

 親の愛情が賢よりも薫に向けられていることに、賢は気が付いていた。


 賢は中学生になり、薫は小学生になった。

 賢はテニス部に入り、目まぐるしく心身を消耗する日々を送り、薫に構ってやる頻度は少なくなった。それでも薫は変わらず無邪気に賢に甘えた。テニスラケットの手入れをする賢の背中に向かって、薫は、ねえ、一緒にゲームしようよ、と話しかけた。賢は答えなかった。慣れない上下関係、難解な授業、過酷な部活動、それらの学校生活にストレスを抱え、薫に構っている暇は無かった。ねえ、ここの進み方が分からないから教えてよ。薫の疎ましい声が賢の神経を逆撫でた。俺は辛い思いばかりしているのに、どうしてこいつは呑気でいられるんだ。背後から聞こえてくる甲高く甘ったるい声が耳の中を這いずり回り、迸る怒りとなり、ラケットを握る手に力が入った。拳から前腕、肩に掛けての筋肉が震えた。ねえ兄ちゃん、ゲームやろ。ねえねえ。

 賢はラケットを窓に投げつけた。ガラスにフレームがぶつかって大きな音が鳴った。窓ガラスに蜘蛛の巣のような罅が入ると、賢の内なる暴力性は目を覚ました。

「うるせえんだよ!」

 賢のこめかみの筋は収縮し、心拍数が上がった。振り返ると、ゲーム機を持って目に涙を浮かべる薫がいた。腹の底から更に苛立ちが込み上げてきた。賢は薫の泣き顔が大嫌いだった。薫が涙を流せば誰かが駆け付けて甘やかす。いつだってそうだった。

 部屋の扉が開いて、母親が入ってきた。

「何の音?」

 険しい表情の賢、泣き出しそうな薫、窓際に転がったテニスラケット、罅割れて窪んだ窓ガラス。母親は賢を睨みつけた。

「こいつがゲームしようってしつけえから」

「自分がイライラしてるからって薫に八つ当たりしないでよ! 可哀想でしょ!」

 母親は賢の頬を打ち、薫を部屋から連れ出した。

 賢は堪らず、喉が裂けるほどの大声を上げた。横溢した怒りが沸騰し、もはや制御することは不可能だった。部屋の壁を何度も何度も殴った。壁紙が破れ、石膏が粉々になった。拳の皮が捲れて周囲に血が飛び散った。

「くそ、くそ! 死ね! 全員死ねばいい!」

 薫は、賢が狂ってしまったと思った。中学校に入って頭をやられてしまったんだ。優しかった兄ちゃんはもういなくなってしまったんだ。薫は母親に抱かれながら、部屋の中で響く衝撃音が空気を振動させている様子をぼんやりと眺めていた。


 ある日薫は、部屋の床に落ちていたCDを誤って踏み、ケースを割ってしまった。

 学校から帰宅した賢は、CDが割れていることに気付いた。

「お前が割ったのか?」

 薫は、2段ベッドの下段の隅で怯えた様子で小さく頷いた。その瞬間、賢の頭に一気に血が上り、理性の抑止力が働くよりも先に拳を振り上げていた。拳は薫の側頭部に当たり、薫は蹲って泣き叫んだ。賢はその時、弟を殴ってしまった罪悪感よりも、怒りが和らぐ感覚を強く覚えた。薫の金切り声も、拳の骨が痺れるような痛みすらも心地よく感じた。怒りの捌け口を発見した瞬間だった。

 両親は仕事で家を空けていたため、薫がどんなに泣き喚いても、その時賢を咎める人間はいなかった。

 薫の甲高い泣き声と女々しい泣き顔が癪に障った賢は、薫をベッドから引きずり下ろし、背中を何発も何発も力いっぱい蹴った。足の甲に衝撃を感じる度に、薫の小さな背中に自らの溢れ出る怒りが吸い込まれていくような気がした。

「死ね、死ね、死ねクソガキ」

 弟なんて邪魔なだけだ。

 賢は、弟が生まれてくることを自らが望んでいたことを忘れていた。

 頭を殴られた際に脳震盪を起こしていた薫は、床に半透明で粘り気のある黄色い汁を吐き出した。胃の中で混ぜられ、溶かされた飯が酸っぱい臭いを放ちながら地面に広がると、賢は薫自体を汚物のように見下し、汚ねえ、と吐き捨てた。

 優しかった兄ちゃんはもういない。兄ちゃんは狂ったんだ。薫は再びそう思うと眼球の裏側が焼けるほど熱くなり、唇が痙攣し、涙が出てきた。涎と鼻水と涙と吐瀉物で顔が汚れても構わなかった。優しかった兄ちゃんを返して。誰に願うわけでもなく心の中で叫び、泣きじゃくった。


 それから薫は賢に対して常に怯えるようになり、賢の顔色を窺って生きることが当たり前になった。賢が苛立っている時は部屋の隅で目立たないように膝を抱え、些細な音さえ立てぬように心がけ、賢の機嫌が良い時は大袈裟に甘えた。薫の生存本能が薫自身の人格の歪を生み出してしまったのだ。目線の位置、口角の傾き、言葉の抑揚、仕草までをも自在に操り、幼くあどけない心は畏怖の鎖で封じ込められた。

 それでも、賢の機嫌が一段と悪い時は暴力を振るわれた。薫という存在自体が癪に障る時があったのだ。薫は、たとえ自分に非がなくとも謝り続けた。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。火に油を注ぐことになるので、親に告げ口をすることもなかった。ただただ、賢の溢れ出る怒りを吸収する海綿となり続けた。


 ある日賢は捨て猫を拾ってきた。尾が途中で折れ曲がったカギ尻尾で、焦茶色の胴に黒の縦線が入った痩せた雌の子猫だった。賢は猫にミルクと缶詰を与えた。猫は怯えたように小刻みに体を震わせながら、缶詰に入った餌を食べた。

 賢は猫を可愛がった。学校から帰宅すると真っ先に猫を抱き上げ、いつもより高い声を出しながら頭や背を撫でた。猫は目を瞑って喉を震わせて喜んだ。薫はその様子を眺めて、猫が可哀想だと思った。きっと最初のうちだけ過剰に可愛がられて、そのうちに叩かれたり、蹴飛ばされたりするんだ。たぶんこいつは俺と一緒なんだろうな。

 賢と薫の部屋で飼われていた猫は、そこが自分の部屋であるかのようにあらゆる所で眠った。ある時は勉強机の上、ある時はハンガーラックに掛けられた服の奥、ある時は薫のベッドの枕元。

 ある日薫は不意に思った。俺はこの猫を殺すべきだ、と。薫は日常的に賢から暴力を受けているというのに、猫はいつまで経っても甘えることが許されている。賢の機嫌を窺うこともせずにいつでも賢にすり寄り、吐き気を催す耳障りな鳴き声を上げているのだ。母親は薫を庇い、賢を怒鳴りつける。賢は猫を愛で、薫を殴る。斎藤家の公平な関係性を形成する上での自分の立ち位置を考えた時、薫は、親に良い顔をし、猫を殺す、という結論に至った。全員が納得できる最適解だと思った。

 賢よりも早く学校が終わった薫は、ベッドの下を覗き込んだ。猫のお気に入りの場所だった。カーテンの隙間から差し込んだ橙色の光は届かず、暗闇の中で猫の双眼が鈍く光っていた。ベッドの下に両腕を深く差し込む。壊れた電動の鉛筆削りと、日に焼けた漫画本と、何かのケーブルの束を掻き分けると、指先が柔らかい毛に触れた。警戒心の無い猫はあっさりと薫に捕まり、腕の中で丸くなった。誰もいない家の中で、薫の耳に届く音は、薫自身の息遣いと、猫の喉が鳴る音だけだった。硬い床に鉄の球体が転がるようなその音と、毛むくじゃらの温もりと規則的な鼓動に、特別何かを感じることもなかった。今からこの猫はただ殺されるだけなのだ。死ぬということは、生きることの反対でしかない。

 薫は、猫の前足の付け根に両手を差し込み、掲げた。胴が伸び、後ろ足と尻尾が宙に揺れている。黒く、丸い瞳が不思議そうに薫を見つめていた。髭が微かに動いている。

 せめてこの猫は、理不尽で傲慢な人間の感情に振り回されることのないように今、殺さなければいけない。薫は猫に対して慈悲の心を持っていた。

 薫は腕を振り下ろし、猫を床に叩きつけた。鈍い音と、蛙の鳴き声のような気管が振動する低い音が鳴った。横向きに倒れた猫の前足が宙を掻き、後ろ足の爪がカーペットの毛に引っ掛かりブチブチと音を立てた。薫はもう一度猫を抱え上げ、同じように叩きつけた。また同じ鈍い音と、今度は、液体を誤飲したようなゴボ、という音がした。猫が完全に動かなくなるまで、薫は猫を殺すためのを繰り返した。8回目の作業を終えたあと、薫は跪き、動かなくなった猫を観察した。苦しそうに開かれた口から鋭い歯と薄桃色の歯肉が覗き、力なく垂れたヤスリのような舌を伝って白い泡が床に滴り糸を引き、飛び出した黄色い眼球の中の瞳孔は開き、その体は頭の先から尻尾まで硬くなっていた。胸に手を置いてみたけれど、鼓動は感じなかったが、体はまだ温かかった。やっぱり俺と一緒だな、と薫は思った。あんなに可愛がられてたのに、こんなに痛い思いをするんだもん。可哀想だ。


 帰宅した賢は猫の死体を見て泣き叫んだ。既に冷たくなり、瞳から光を失った体を抱き、死骸の張りのない体毛に涙を落とした。薫はその様子を見ながら、俺が死んでも、兄ちゃんは悲しんでくれるのかな、と思った。

「お前がやったんだろ」

 目を充血させた賢が、今から薫を殺してやると言わんばかりに睨みつけた。薫は答えなかった。悲しそうな賢の姿を見て胸が痛くなり、声が出なかったのだ。人の悲しそうな表情を見ていると、自分まで辛くなる。

 賢は日ごろから薫の悲しそうな表情を見ているというのに、薫に暴力を振るうのを止めなかった。やはり、兄ちゃんはおかしい。薫はそう思った。

 賢は2人の共同の部屋から5kgの鉄亜鈴を持ってきて、薫目掛けて振り上げた。薫は避けようとしなかった。やっぱり、俺は猫と一緒なのか。猫は俺に殺されて、俺は兄ちゃんに殺される。頭上から降ってくる黒い鉄の塊の動きがゆっくりとして見えた。その時の薫は不思議と平静だった。

 こうして賢は、自らの弟である薫の頭を殴りつけた。鉄亜鈴が薫の頭を捉えた時、賢は理性の歯止めにより鉄亜鈴をその場に落とした。眼下で四つん這いになり頭から血を流す薫を見て、このままでは本当に薫を殺してしまうのではないかという恐怖に駆られた。幸い、薫は頭を切っただけで済み、命に別状はなかった。

 薫はこの痛みを、悲しみを、恐れを、弱さを、記憶の最も確かな部分に刻み込んだ。

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