第19話 次郎長と勝蔵(一)
目明しからの追跡を逃れるために清水から逃亡した次郎長たちは
とりあえずの目的地は尾張東端の瀬戸である。むろん、瀬戸物で有名な瀬戸のことだ。そこに
次郎長の一行は次郎長のほか、女房のおちょう、大政、石松、相撲常である。五人は田舎道を瀬戸へ向かって歩いている。
歩きながら石松が大政に語りかけた。
「あーあ、腹が減ったなあ、大政よ」
これに大政が応える。
「やかましい。ぐずぐず言わねえでさっさと歩きやがれ」
「あとどれぐらいあるんだ?」
「もうちょっとだ」
「何を言いやがる。さっきからずっと『もうちょっと、もうちょっと』って言ってるくせに、全然着かねえじゃねえか」
「もうそろそろ瀬戸村が見えてくるはずだ」
「何、本当か?そうとなりゃあ、さっさとその岡一って人の家へ行ってメシを食わしてもらわねえとな。さあ、
「石松や、すまないねえ……」
そうして石松が病身のおちょうを背負って歩き出した。
しかし歩いても歩いても瀬戸村は全然見えてこない。石松がまた
「全然見えてこねえじゃねえか、大政!一体あと何町あるんだ?五町か、六町か?」
「いや、それじゃまだ着かねえ」
「七町か、八町か?」
「いや、まだまだ」
「一里か?」
「いや、二里だ」
「姐さん、申し訳ねえ、降りておくんなさい……。てめえ、大政!お前がもうちょっとって言うから、さっさと村に入っちまおうと思ったんだ!こんなに腹ペコじゃ人は背負えねえよ……。まったくデタラメばかり言いやがって。二里先が見えるかい!」
「近くまで行けば見える」
「あたりめえだい!」
それからもうしばらく歩いて行くとようやく瀬戸に入り、岡一の家に着いた。
ところがここでおちょうの病気が悪化してしまった。おそらく冬の寒さがたたったのだろう。
瀬戸のような田舎にいては薬もなかなか手に入れにくい。それに薬代の費用もバカにならず、名古屋へ行って金を工面する必要も出てきた。
名古屋には
あの元相撲取りで、清水にいた時に次郎長から助けられたとの評判もある久六のことだ。そんなこともあって次郎長とは兄弟分の間柄だ。
尾張藩の目明しを勤め、尾張ではかなりの勢力を誇る親分なので財力は申し分ない。
そこで岡一が久六のところへ使いを送って、
「次郎長親分が今ウチに来ているんだが、姐さんが病気になって困窮している。一度来てもらえないだろうか」
と要請した。しかし久六からは、
「こちらもいろいろと取り込んでいるので行けそうもない」
と言って寄こしてきた。
この返事を聞いて次郎長は当然、憮然とした。
そしてその頃ちょうど名古屋の長兵衛という博徒が次郎長に、
「瀬戸では薬の入手も難しいでしょう。よろしかったら我が家へお移りください」
と言って転居を勧めてきた。
次郎長たちはこの厚意を受け入れて名古屋へ移った。そして移ってすぐに次郎長は久六のところを訪れて詰問した。
「俺たちは長い付き合いだが俺がお前を裏切ったことがあったか?それなのになぜ、お前は俺に背を向けるのだ。俺の女房が病気になって困っているのを岡一から聞いただろう?もし俺に何か不徳があったとしても、お前の徳だって厚いとは言えねえぞ。そこんところをよーく自分の胸に聞いてくれ」
次郎長はこう、思いのたけを久六へぶつけて、それから帰っていった。
しかし久六としては「片腹痛い」と言いたい気持ちだった。
久六は尾張藩から十手取り縄を任された目明しなのである。
幕府の目明しから追われている次郎長を捕まえる側の人間なのだ。だが兄弟分の関係ということで、これまで次郎長に対してお目こぼしをしていたつもりだった。
なにしろ久六には「天下の尾張藩」を後ろ盾にしているという自負がある。国を売って逃亡中の博徒と同列にされてはたまらない。そのうえ、兇状持ちの次郎長を助けたと尾張藩に聞こえれば、目明しとしての自分の立場があやうくなる。それでせいぜい「お目こぼしする」という程度に抑えていたのだ。
(次郎長よ。お前さんはそんなに俺のことを糾弾できる立場なのかい?)
と久六としては言いたい気持ちだった。
そして安政五年(1858年)も暮れて、安政六年の正月となった。
正月飾りを整えた長兵衛宅で、次郎長が長兵衛の部屋へあいさつに来た。
「正月元旦、本来なら『おめでとう』と言いたいところだが、それが言えなくなりました。お世話になった甲斐もなく、おちょうは昨夜、亡くなりました」
重病だったおちょうは大晦日の夜、長兵衛の家で息を引き取ったのだった。
おちょうの枕元で石松が泣き喚いた。
「尾張の野郎は薄情な奴ばっかりだ!」
これは久六を恨んで言ったつもりの言葉なのだが、長兵衛とて尾張人である。それで大政が気をつかって言った。
「バカ。石。ここは尾張の国だ。ここでそんな事を言うんじゃねえ」
旅先で、しかも逃亡中の客死ということで満足な葬儀は出せなかったが、それでも多くの知人が弔問に集まり、心ばかりの葬儀を出すことができた。ちなみに、このおちょうの墓は現在、名古屋市千種区の平和公園墓地にあるという。
そして久六はやはり、今回も次郎長のところへ弔問に来なかった。
それから数日が経ち、初七日が過ぎた一月八日、突然尾張藩の捕り方数名が次郎長を捕まえるために長兵衛宅へ踏み込んできた。
次郎長や子分たちはこういった修羅場を何度もくぐり抜けてきた経験があるため、素早く活路を切り開いて家から逃げ出した。しかし長兵衛は捕まって連れて行かれてしまった。
次郎長たちは三河の寺津へ逃げた。
ここには「寺津の間之助」という兄弟分がおり、昔から次郎長が何かやったときの逃亡先として事あるごとに世話になっていた。現在で言えば愛知県西尾市にあたり、吉良上野介で有名な吉良町の少し西にある。そしてその吉良には、間之助の兄弟分で次郎長とも親しい「吉良の
次郎長たちが寺津に着いてから数日後、長兵衛の女房のお
玄関で対応した間之助の子分が彼女を乞食と見まちがえるほど、汚れきった姿をしていた。しかし彼女が「清水の親分さんに会いたい」というので、その子分が彼女を次郎長のところへ連れて来た。
次郎長がお縫から事情を聞こうとすると彼女は泣きながら、
「夫は清水の親分さんをかくまった罪で拷問され、牢屋で病死しました」
と語った。そして夫の死のあと、目明しに後をつけられないよう乞食に変装してここまでやって来た、という話だった。
(なんという事だ!これはすべて久六の差し金に違いない!)
おちょうは久六が薄情だったせいで死んだようなものだ。そして長兵衛は自分の身代わりとして久六に殺された。
そう考えればすべてのつじつまが合う。次郎長はこのように確信した。
その途端、次郎長は怒髪天を衝く表情となり、ボロボロと涙を流しながら震えるような声で言った。
「久六の野郎!地獄の果てまで追いかけて、必ずズタズタに斬り殺してやる!おちょうと長兵衛の無念は必ず晴らしてみせる!」
そう決意した次郎長は、子分たちを引き連れて
なぜ敵討ちの願掛けをするのに金比羅神社へ行くのか?と普通は疑問に思うところだろう。金比羅神社は航海安全の守り神である。実は次郎長の父は清水港で船乗りとして働く高木
それで遠路はるばる四国の讃岐まで行って金比羅参りを済ませ、そこから伊勢を経由して尾張へ戻ってきた。季節はもう六月になっていた。
このとき次郎長は十名の子分を従えていた。子分たちは、これからさっそく名古屋の久六のところへ討ち入るのだろう、と気持ちをたかぶらせていたのだが、あにはからんや次郎長は大政、石松、八五郎の三名だけを残し、他の子分たちは清水へ帰るよう命じた。
むろん帰国を命じられた子分からは不満の声があがった。が、次郎長は一喝してこれを退けた。
「大人しく言うことを聞け!大勢で名古屋へ入ると目明しに見つかるかも知れねえ。久六ごときをぶち殺すのは俺たち四人でたくさんだ。それとお前たちは『次郎長は病気になって清水へ帰ることになった』と道々で言いふらすんだぞ!分かったか!」
こうして次郎長は討手を少数精鋭に絞り込み、かつ陽動部隊に「次郎長は清水へ帰った」という風評を流布させて敵を油断させようとした。なかなか用意周到な男である。
四人は密かに名古屋へ潜入して久六の動向を探ったところ、久六は今、知多半島の亀崎(現、半田市)にいることが分かった。次郎長はこれを好機到来と見て、さっそく亀崎へ向かって南下した。
事前に入手した情報によると久六の一行は亀崎の隣り村の乙川を通ると見込まれたので、そこで待ち伏せすることにした。この亀崎も乙川も、現在の
しばらく物陰に隠れて待っていると狙い通り、久六が七人の子分を連れて通りの向こうからやって来た。久六は待ち伏せされていることに気づかなかった。次郎長たちは相手が十分近づいてから道に躍り出て、ゆっくりと正面から久六へ向かって歩いて行った。
久六は、次郎長たちが突然現れて狼狽した。
このころ名古屋では「長兵衛の死を恨みに思った次郎長が久六を狙っている」という噂が流れていた。それを耳にした久六は心配になったものの、その後しばらくして「次郎長は病気になって清水へ帰ったそうだ」という噂も流れ出し、ひとまず久六は安心していた。ところが、その清水へ帰ったはずの次郎長が突然目の間に現れたので狼狽したのだ。
今さら逃げようにも狭い一本道なので相手を回避することはできない。といって、この状況でこっちが後ろへ逃げ出すと、かえって次郎長を
「よう。久しぶりだな、保下田の兄弟。達者だったかい?」
次郎長がこう、笑顔で語りかけた。
「やあ、これは清水の兄弟。こんなところで会うとは奇遇じゃないか。それはそうと、先だっては名古屋で何かと難儀な目に遭ったようだが、お役目柄、顔を出すことができなかった。それでお互い、何か誤解があるといけない。ここであらためてお悔やみを申し上げる。あいさつが遅れてまことに申し訳なかった。勘弁してくれ」
「これはこれは、ご丁寧なお言葉。まことに痛み入る」
と言って次郎長は深々と頭を下げた。それにつられて、久六も丁重に頭を下げた。
その瞬間、次郎長は懐から短刀を引き抜き、すっと前へ出た。
頭を下げている久六は次郎長の動きに気づかない。
次郎長はそのまま体ごと久六にぶつかった。
短刀が久六の胸板を貫き、久六は路上に倒れた。そして血を吹き出しながら路上をのたうち回った。
「ハッハッハ。とぼけるんじゃねえ、久六!テメエの悪事はすべてお天道様がお見通しだ!」
次郎長はそう叫びながら長脇差を抜刀し、倒れている久六の体にやたらめったら斬りつけた。
それからすかさず大政、石松、八五郎が久六の子分たちに斬りかかった。が、久六の子分たちはとっさの出来事に狼狽して抵抗できず、すぐに後ろへ向かって逃げていった。
こうして次郎長は久六への敵討ちを見事に果たした。
と同時に、再び幕府(御三家)の目明しを殺した、という罪を背負うことになった。甲州で幕府の目明し祐天仙之助の身内を殺して追われることになったのに続き、この尾張でもまた、幕府の目明しから追及されることになったのである。
逃げた久六の子分たちがやがてこの事を尾張藩へ伝えるだろう。自分たちは急いで尾張から脱出しなければならない。ということで、次郎長たちはすぐに乙川の地を後にした。
田んぼ道には、ズタズタに斬り刻まれた久六の無残な死体だけが残された。
このくだり、次郎長の基本史料『東海遊侠伝』では次のように書いている。
「久六倒る。長五(次郎長)すなわちその罪を責め、ついに斬って肉泥となす。久六の子弟、皆散ず」
ちなみに『東海遊侠伝』を
次郎長が久六を殺したのは安政六年(1859年)六月十九日のことである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます