第二章・激闘

第18話 安五郎の帰国

 春三月。

 桜の花はすでに散り終え、その枝には緑の葉が目立ちはじめている。

 などと書くと何だか季節がずれているように聞こえるかも知れないが別にこの年が異常気象だったわけではなく、これは旧暦の三月だからである。

 現在の暦に直すと、もう四月の下旬だ。甲州もこれから新緑の季節へ向かおうとしている。


 曇の切れ目からときどき御坂みさかの峰に日が差す程度の曇り空。おそらく雨は降らないだろう。まず、穏やかな春の一日と言って良い。

 黒駒の鎌倉街道を勝蔵と猪之吉が歩いている。

 二人はこの日、戸倉を出て武藤家の八反屋敷へ向かっていた。

 別段何か用事があって出向いているわけではない。八反屋敷の賭場とばは竹居一家が管理しており、その竹居一家と提携している勝蔵の“黒駒一家”としても、単にこの辺りを見回っているだけのことだ。それに、この二人は元々しょっちゅう武藤家に出入りしている身の上なのだから、二人の感覚としては、ちょっと近所へ散歩に出たようなものだ。


 ところが八反屋敷の近くまで来ると数人の村人が「ケンカだ、ケンカだ!」と言って騒いでいた。

 勝蔵がその先の方へ目をやると、八反屋敷の門外で十人ほどの男が一人の男を袋叩きにしていた。その殴ったり蹴ったりしている男たちは、八反屋敷の賭場を管理している竹居一家の子分と、さらに勝蔵の子分も何人か混ざっていた。

 勝蔵はすぐにそこへ駆けつけて、子分たちに尋ねた。

「おい、何をやっているんだ。お前たち」

「あっ、これは親分。おいっ、お前ら!親分がお見えだ。そんな野郎は放っておいて、親分にごあいさつをしろい!」

「いや、あいさつなんかいいから、何があったのか言ってみろ」

「へえ。こいつは本当に悪い野郎で、賭場を荒らしやがったんです」

「賭場荒らしか。そいつは良くねえ。それでカタギ衆に迷惑はかけなかったか?」

「ええ、すぐに叩き出してやったんで、大きな騒ぎにはなってません」

「そうか。良くやった。しかし、たとえ賭場荒らしにせよ、大勢でよってたかって一人を殴るなんていうのは、村の人々からすれば見苦しい見世物だ。きっと不安に思っていなさるだろう。……よし、分かった。俺がその男を預かるから、お前たちは賭場へ戻って仕事をつづけろ」


 そう勝蔵が命じたので、子分たちは賭場へと引き上げていった。

 一人残された男のところへ勝蔵と猪之吉が近寄ってみると、男は路上で身をかがめた姿勢のままうずくまっている。ところどころ傷だらけになってはいるものの見た感じ、大事はなさそうだった。

「親分、この男をどうなさるつもりなんです?」

「下手な恨みを買ってもつまらねえ。『情けは味方、仇は敵なり』と信玄公もおっしゃっているじゃねえか。よくよく道理を説いて、メシの一つも食わせてやれば恩義に思って、きっと敵には回らねえだろうさ。さあ猪之吉、そいつを起こしてやれ」

 それで言われた通り、猪之吉が男に手を貸して立たせようとした。

「おい、お前。立てるか?」

 図体は結構大きめだが、歳は猪之吉と同じぐらいか、と勝蔵はその男の素性を見積もった。

 ちなみに猪之吉はこの年、二十歳になっている。体格は中肉中背。顔はなかなかカワイイ顔をした好青年だがかつて浮浪児だった経験が長かったせいか、どことなくあか抜けしない雰囲気がある。

 猪之吉がその男に肩を貸し、勝蔵と一緒に近くの飯屋まで歩いて行った。


 飯屋の中で三人は席を囲み、勝蔵が男に尋問した。

「さあ、俺のおごりだ。遠慮なく食え。ところでお前は、どこの何という奴だ?」

「へえ。助けていただいた上にメシまでご馳走になって、このご恩は決して忘れません。失礼ですが貴方様こそ、何というお名前で?」

「俺か。俺はこの辺りで一家を構えている黒駒の勝蔵という者だ」

「なんと!貴方様が黒駒の勝蔵親分!これはこれは、初めてお目にかかります。あっしは名を大五郎と申します。生まれはすぐそこの二之宮で、百姓をやったり駿河から魚を運んだりしてたんですが、やはり『飲む、打つ、買う』が大好きなもんで、最近ではすっかり博打三昧になっちまいました」

「ほお~、お前も博徒か。それで、どこの一家の身内なんだ?」

「いえ。まだ、どこの身内にもなっておりません。それで……、メシまでご馳走になってこんな事を言うのも図々しい話ですが、これを縁に、黒駒の親分さんのところでお世話になりたいと思うんでござんすが、いかがでしょうか?」

「また出し抜けに何を言いやがる。ところで、お前はなんで八反屋敷で賭場荒らしなんかしやがったんだ?」

「え?それはその……、有り金全部やられたんで思わずカッとなって、気がついた時には『イカサマだぁ!』と叫んで、そのまま暴れてしまった、という訳で……」

「まったく短慮な野郎だ。そんな奴をウチの子分として抱えたんじゃ、後で何をされるか分かったもんじゃねえ。何か特技はあるのか?ケンカは強えか?」

「へい。草相撲ではそこそこ鳴らしたほうなんでケンカはまあまあ自信があります。特技といえば、そうですねえ、女をかっさらってくるのが得意です」

「ああ?悪い野郎だな、こいつは。それにしても珍しい特技をもった奴がいたもんだ。それで、どうやって女をかっさらってくるんだ?」

「口八丁で上手く誘い出して、スキを見てサッと口に猿ぐつわをかますんです。後はぶん殴って大人しくさせて、手足を縛っちまえばこっちのもんです。この稼業でも借金のカタに女をさらってくる事だってあるでしょう?きっとお役に立ちますぜ」

「こいつはどうも、実際に何度かやったことがあるような口ぶりだなあ」

「ええ。そりゃもう、お命じくだされば、いつでもお安いご用です。ああ、そうそう。あの八反屋敷の庭で巫女みこ姿をしたきれいな娘を見かけたんですが、あれは実に上玉だった。なんなら今晩、実際にあの娘をかっさらってきましょうか?助けていただいたお礼に、あの娘を親分に差し上げますよ」


 こう大五郎が言い終わらないうちに間髪を入れず、

「てめえ、この野郎!ぶっ殺してやる!」

 と猪之吉が叫んで大五郎に飛びかかり、本当に殺しかねない勢いで何発もぶん殴った。このあと勝蔵も加わって大五郎を店から引きずり出し、店の親父にハサミを持って来させて大五郎の髪の毛を全部切って丸坊主にしてやった。そして、

「二度とその面ぁ見せるな!」

 と言って叩き出した。大五郎はほうほうのていで逃げて行った。


 大五郎としては、一体何が二人の逆鱗げきりんに触れたのか理解できなかった。

 言うまでもなく、八反屋敷の若い巫女といえば、お八重以外に当てはまる人物はいない。


 勝蔵によって丸坊主にされ、甲州にいられなくなった大五郎はそのあと駿河へ流れて行き、最終的には清水で次郎長の子分となる。

 坊主頭にされてしまったために駿河へ逃れる道中、山伏に変装したのだが、その姿を見た周囲の人間が彼のことを「法印」と名付けた。

 この男がのちに清水で法印大五郎と呼ばれることになるのである。




 この大五郎の話があったからという訳でもないが、二人は八反屋敷へ戻り、久しぶりに武藤家の母屋へ顔を出して藤太とお八重の兄妹に会おうとしたところ、藤太の後妻となったおとうが玄関まで出てきて、二人とも振鷺堂しんじゅどうへ行っていると告げた。振鷺堂とは、かつて勝蔵も学問を学び、さらに剣術修行をしていた近所の塾のことだ。

 この藤太の後妻の名前がお藤というのは冗談のような紛らわしい名前だが実話である。彼女は亡くなった前妻のお直の妹だ。夫の名前と紛らわしいので書状に書く際はお登婦とうと書いた。そして口頭では皆から「おとうさん」と呼ばれていたという。これもある意味、実に紛らわしい。また「前妻の妹を後妻として迎える」というのは現代の感覚からすればほとんど受け入れ難い話であろうが、当時の感覚からすればよくある話であった。


 こうして玄関先で勝蔵がお藤と話をしていると、たまたま廊下の奥から小沢一仙がやって来た。

「おや、これは勝蔵さんじゃないか。久しぶりだなあ」

 一仙は屋敷の中で藤太の父、外記げきとの面談を済ませ、これから振鷺堂へ行って藤太にも会う予定だという。それで勝蔵と猪之吉も、一仙と一緒に振鷺堂へ向かうことにした。

 小沢一仙は宮大工として、火災で焼けた檜峯神社を再建する仕事に従事していた男だ。

 檜峯神社は昨年、すなわち勝蔵たちが東海道の旅打ちをしている間に再建作業が完了した。一仙は伊豆の松崎出身の男だが、この仕事の最中ずっと甲州で暮らしつづけ、その間に甲府勤番役人の小野寺金弥の娘、鈴子と結婚して甲州に居を構えていた。

 そして例の「無難車船」の建造についても昨年、松崎の領主である掛川藩に建白書を提出したところ、これがまた不思議なこともあるもので、この建白書が前藩主でご隠居の太田資始すけもとの目にとまり、掛川藩はこの一仙の計画に乗り気となったのである。

 資始はかつて幕府の老中を勤めたこともあり、実はこの年、再び老中に就任して幕府の最重要課題である外交問題、つまり条約問題に取り組むことになる優秀な閣老なのだが、この海の物とも山の物ともつかない一仙の「無難車船」に興味を示したのは、大いなる謎というしかない。

 実のところ一仙はこの建白書の中で、

「もしこの案をご採用される場合は、私を士分としてお取り立ていただきたい」

 などと虫の良い願いをちゃっかり書き添えていたのだが、これまた不思議なことに掛川藩はこの願いを認め、「一仙を百石で召し抱える」との返事をちょうどこのころ一仙に伝えたのであった。

 小沢一仙、二十九歳。今まさに人生の絶頂期を迎えていた。


 道すがら、勝蔵と一仙はお互いの近況を報告しあった。

 以前会った頃とは、二人とも境遇が様変わりしていた。勝蔵は博徒の親分として一家を構え、一仙は掛川藩の士分になることが決まっている。

 かたや無宿人で、かたや武士である。

 たった数年で全く両極端な立場になってしまったものだ、と二人はお互いの境遇が一変したことに驚いた。

 武士になることが決まった一仙のことを、勝蔵が羨ましく思ったのは事実である。

 なんせ勝蔵も、かつては武士になることを望んでいたのだ。が、すでに博徒の道を選び、甲州一の博徒となる決心をしている勝蔵からすれば、それはもはや別世界の話で、その羨望の思いはすぐに消えていった。

 実を言うと勝蔵は、一仙とは肌が合わないと思っている。

 それはそうだろう。勝蔵のような博打とケンカに明け暮れる男と、宮大工や造船といった職人的な仕事に従事している一仙とでは、まるで水と油だ。

 といって別に、勝蔵は一仙を嫌っているわけでもない。

 二人とも武藤家との繋がりが深く、その影響を受けてもいる。そんなこともあって、「保守的な常識にとらわれない」と言えばまだ聞こえは良いが、悪く言えば偏屈、あるいは天邪鬼とも言えるであろう。この二人は、何か普通の人とは違った道を選びたがるという「厄介な性向」とでも言うしかない不思議な共通点があった。




 三人は振鷺堂に着いた。

 庭では子どもたちが元気に遊び回っており、その脇で、たすき掛け姿のお八重が洗濯物を干す仕事をしているところだった。

 一仙は藤太に会うため学塾の建物へ入って行った。一方、勝蔵と猪之吉は久しぶりに剣術道場の様子を見ようと思ってそちらへ向かい、その途中、お八重に声をかけにいった。

 勝蔵が戸倉に一家を構えて以来、祐天一家への殴り込みやら東海道への旅打ちやらでバタバタとした状態が続いていたが、それでも勝蔵と猪之吉はときどき藤太やお八重のところへ来て顔を見せており、二人が博徒になったからといって武藤家との関係が疎遠になったわけではなかった。とはいえ、博徒の親分になった勝蔵が剣術道場で師範を続けられるはずもなく、道場では新しく迎えた剣術師範が塾生たちを指導している。


「あら、お二人さん、いらっしゃい。ここへ顔を出すなんて久しぶりじゃないの。どうしたの?」

 お八重、十八歳。娘盛りの年頃だ。

 「娘十八、番茶も出花」とか「鬼も十八、番茶も出花」とか言うのは、あまりよろしくない器量を茶化して使う慣用句なので、お八重には使えない。彼女の場合は番茶どころか玉露の出花だ。その器量での十八歳だ。


 猪之吉は、ついさっき大五郎からあんな話を聞いたので無性にお八重のことが心配だった。けれども別段、彼女に変わった様子もなくホッとした。

「危ない野郎がお八重ちゃんに手を出そうとするかも知れないから、変な男には気をつけなくちゃダメだぜ。特に賭場に出入りするような男には要注意だ」

「大丈夫よ、猪之吉さん。私は小さい頃からウチの賭場を見て育ってるから、そういう男の人たちには慣れてるの。大体、賭場に出入りする男って、猪之吉さんの周りにいる人たちだって、そうじゃないの」

「いや、ウチの一家の人間は大丈夫さ。親分と武藤の旦那の関係は皆が知っているから、誰もお八重ちゃんに変なことはしないよ」


 このあと勝蔵もお八重と少し話をした。話の中身はたわいもない日常の話とか、塾や道場に関するささいな話だった。

(勝の兄貴……、いや親分と話をしている時のお八重ちゃんは、本当に楽しそうだ……)

 と猪之吉の目には映った。

 もともと猪之吉としては、勝蔵とお八重が将来結婚するものと思っていたのだが「お花の事」があってから、二人の関係がよく分からなくなっていた。

 しかしこうして二人の様子を見ていると「お花の事」など二人ともふっきれたように見える。むしろ勝蔵は以前と比べて幾分、お八重とよく話をするようになった感じさえある。

(これできっと、二人は元のかたちに戻ったのだろう……)

 そう思って猪之吉は、なんとなく安心した。


 実はお八重も勝蔵と「お花の事」は噂で聞いて知っていた。

 その話を聞いたとき、お八重はショックを受けた。

 といって、その相手の女性はすでに亡くなっている。自分が何をどうこう出来る話でもない。それに元々、勝蔵はお八重にとって婚約相手でも何でもないのだ。

 いや。確かに婚約相手ではなかったが、兄の藤太からごととはいえ「勝蔵の嫁さんになって、一緒に道場の面倒でも見るか?」などと言われて多少なりともその気になったことはあった。が、勝蔵が博徒の道へ進み、剣術道場から完全に離れたことによって、その話はご破算となった。

 ただ、今のお八重としては、こうして時々勝蔵と会って話をしているだけで満足していた。

 あとは時間が解決してくれるだろう、という気持ちだった。




 夏が過ぎて八月になった。

 日ごとに少しずつ涼しい風が吹くようになり、秋の気配が近づいてきている。

 お察しの通り、冗漫なことは承知のうえで書くが、これは旧暦である。現在の暦に直せば九月のことだ。


 この月、とうとう「竹居の吃安どもやす」こと安五郎が甲州に帰ってきた。

 新島に送られてから七年、新島を脱出してから五年の月日が経っている。


 が、その少し前に江戸では幕府を揺るがす大事件が二つも起きていた。

 六月、幕府はアメリカのハリスと日米修好通商条約を結んだ。

 七月、将軍徳川家定が死去し、それに合わせて大老の井伊直弼が徳川斉昭などの一橋派を処罰して政府から追放した。


 これ以降、幕末の風雲が本格化することになるのだが、勝蔵たち甲州人はこれらの事件にあまり関心を抱かなかった。

 そもそも甲州には海がないのだから、外国と通商条約を結んだところで別に関係がない。

 そして、一応甲州は幕府領ではあるものの、江戸の将軍様のことなど普段ほとんど意識せずに暮らしている。むしろ甲府の幕府役人のだらしなさもあって、徳川将軍よりも昔の信玄公に対する愛着のほうが強いぐらいだ。


 ところがこれらの事件を非常に重要視していた甲州人が一人いた。

 それが安五郎だった。

 安五郎は、この幕府が混乱しているスキを狙って甲州へ帰ってきたのである。

 なにしろ安五郎は島抜けという大罪を犯した上に、島の名主まで殺している札付きの凶悪犯だ。

 幕府もその威信にかけて「何としても安五郎を捕縛せよ!」と役人や目明しに命じ、懸命に行方を追いつづけている。が、こういった大事件があったために幕府の統治機構は今、混乱状態にある。

(今が甲州へ帰る絶好の機会だ)

 と、五年間も各地を転々として潜伏生活をつづけてきた安五郎は、とうとう意を決して甲州へ戻って来たのである。

 奇妙な偶然の符合がある。

 五年前にはペリーの黒船来航があったことで幕府が混乱し、そのスキを突いて安五郎は新島を島抜けした。この黒船来航をきっかけに翌年、日米和親条約が結ばれた。

 そして今回は日米修好通商条約が結ばれたことによって再び幕府が混乱し、そのスキを突いて安五郎は甲州へ戻ってきた。

 奇しくも五年前には将軍家慶が死に、今回は将軍家定が死んだ。

 この二度の条約騒動の最中に二人の将軍が死んだのはおそらく偶然の出来事であったろうが、安五郎の心境としては、どこにあってどんな国なのかも全く知らないアメリカという国に対して、

(まったくアメリカ様々だぜ)

 と心の底から感謝したい気持ちだった。


 その日、勝蔵はすぐ隣りにある堀内喜平次の屋敷へ呼ばれて行った。

 座敷に入ると喜平次と、もう一人、大柄で目つきが鋭く、多少やさぐれた感じの中年男が座っていた。それで、喜平次が勝蔵に声をかけた。

「おお、来たか、勝蔵。まあ、そこへ座れ。今日はお前に紹介したいお方がいてな、実はこのお方は……」

「いや、分かってますよ、堀内の旦那。こちらの方は竹居の安五郎親分でございましょう?」

 と勝蔵が言うと、その男の表情がピクッと動き、それから勝蔵に尋ねた。

「ほお、よく分かったな。お前さんとは以前、どこかで会ったことがあったかな?」

「いえ。直接お目にかかるのはこれが初めてですが、以前、八反屋敷の賭場でお見かけしたことがございます」

「それはまた、ずいぶんと昔の話だなあ。どうだ?俺もすっかりジジイになり果てて驚いただろう?島で二年、放浪生活で五年だ。名主の倅だった男が、今では土工どこうか人夫のような風体ふうていになっちまったよ」


 この時の年齢は竹居安五郎、四十八歳。黒駒勝蔵、二十七歳。

 安五郎は話をつづけた。

「だけど、俺もお前さんのことを知っていたよ。といっても、むろん最近になってからのことだが。ウチの子分たちと一緒に祐天のところへ殴り込んだり、吉田の長兵衛親分や間宮の兄弟のところへあいさつに出向いたそうじゃねえか。皆『黒駒の勝蔵って奴は大した男だ』って、お前さんのことを褒めてたよ。実は俺も潜伏中に何度か甲州へ戻って来てお前さんたちの様子を陰から眺めてたんだが、どうやら俺の出番は必要なさそうだなあ、竹居に戻るのは止めて、このまま隠れつづけていたほうが安全だなあ、って思ってたんだよ」

「そのようなご冗談を言われては困ります。手前は竹居の親分の威光を借りて動き回っていただけの事。是非とも竹居にお戻りになって、この若輩者をご指導いただきたい」

「そうは言っても、俺は島抜けの凶状持ちだ。俺を頭にかつぐと、お上をまるっきり敵に回すことになるが、それでも良いのかい?」

「元よりその覚悟がなければ目明しの祐天に殴り込んだり致しません。目明しや甲府の勤番役人など恐るるに足らず。……ただ、その島抜けの件について、七十過ぎの年寄りの名主を殺したと、これを悪く言う連中が周りにも結構おります。そういう連中に、どうやって言い含めてやったらよろしいでしょうか?」

「ふん。そんな批判はこれまで耳にタコができるぐらい聞いたよ。それで、お前さんはどう思ってるんだい?」

「その時の状況を詳しく知りませんので何とも言えませんが、女子供や年寄りに手をかけると後々まで悪評が残るでしょうから、やはりなるべく手をかけないのが賢明かと……」

「勝蔵!悪評を恐れてヤクザができるか!どうせヤクザなら、後々まで残るでっかい悪評を残してみやがれ、っていうのがこの世界だ。むろん、こっちだって好き好んで年寄りを殺したわけじゃねえ。こっちが生きるか死ぬかの瀬戸際だったから、やむを得ず殺したんだ。そうして一旦悪評を作ってしまったからには、だったら逆に、世間の連中がこっちを恐れるぐらい、それを利用するのがヤクザってもんじゃねえのかい?」

「……」

「そんな甘い覚悟でよく『お上を敵に回しても恐るるに足らず』なんて言ったもんだ。生きるか死ぬかの瀬戸際で判断に迷ったら、まず間違いなくお前の命は助からねえ。お前だけならまだしも、大勢の子分も死ぬことになる。分かったか?それがこの渡世の厳しさだ」

「……おみそれしました。手前の料簡が甘うございました。その親分の言葉を深く肝に銘じます」


 こうして勝蔵は安五郎から盃を受け、黒駒一家は正式に竹居一家の傘下に入った。

 ただし勝蔵は安五郎の子分になったわけではなく、兄弟分として扱われることになった。むろん「五分の兄弟」ではない。安五郎が兄貴分で勝蔵が弟分である。

 確かに安五郎の盛名は広く知れ渡っていたが、なにしろ凶状持ちのため表立っては動けない。安五郎は竹居に戻ったあとも目明しからの追及を避けるため、ひんぱんに居所を変えなければならなかった。

 そのため現場の指揮は勝蔵にほとんど委ねられた。

 実際、一家の力としては黒駒一家のほうが強かった。このころ勝蔵の元にはどんどん子分が集まりはじめていた。

 安五郎と正式に手を握ったことにより、これ以降、黒駒一家は急速に力を伸ばすことになるのである。




 同じ頃、清水次郎長が甲州に手を伸ばしはじめていた。

 狙いを定めたのは鰍沢かじかざわである。

 もともと鰍沢は安五郎の縄張りだった。それで安五郎が島送りとなってから、三井卯吉の手下である祐天仙之助が手を伸ばしていた、というのは『鰍沢の秋祭り』の章で書いた。

 しかし鰍沢には鬼神おにがみ喜之助がいたため三井一家の手には落ちなかった。それどころか逆に三井卯吉が喜之助兄弟によって殺され、その喜之助兄弟も仙之助に追われて甲州から逃亡した。

 つまりこのとき鰍沢は空白状態となっていたのである。

 そこへ次郎長が、兄弟分の江尻の大熊と組んで乗り出してきたのだ。

 以前書いた通り、清水と鰍沢は富士川水運を利用する物流経路として繋がっている。清水を地元とする次郎長と大熊にとって鰍沢の利権は喉から手が出るほど欲しい。ここを押さえれば富士川水運に絡む利権を一気に手に入れることができるかも知れないのだ。それで二人は数名の子分を引き連れて鰍沢へ乗り込んできたのだった。


 だが、そんなことをされて祐天仙之助が黙っているはずがない。

 このころ仙之助は、卯吉が殺されて混乱していた三井一家をようやくまとめ上げ、再び鰍沢に目を向けはじめていた。

 なにしろ「竹居安五郎が甲州へ戻って来た」という噂も聞こえてきていた。

(安五郎に取り戻される前に鰍沢を手に入れなければならない)

 そう考えた仙之助は、大勢の子分を引き連れて鰍沢へ乗り込んだ。それで、たちまち次郎長たちとの抗争事件に発展した。


 結果は仙之助側の勝利に終わった。

 数でまさり、目明しとしての強みもある仙之助が次郎長たちを駆逐したのだ。この抗争によって大熊の子分三名が死んだ。

 ただし次郎長たちもただでは済まさず、仕返しとして仙之助側の幹部一名を殺害してから甲州を脱出した。


 この殺害事件によって次郎長は目明しから追われることになった。目明しである仙之助の身内を殺したことで、そのように追及されたのだ。

 追及の手は駿河にも及び、次郎長は他国へ逃亡せざるを得なくなった。こうやって他国へ落ちのびることを博徒の世界では「国を売る」「長い草鞋わらじを履く」と言う。


 次郎長は大熊の妹である女房のおちょうや数名の子分を連れて、尾張へ逃げた。

 清水次郎長は勝蔵と同じ辰年生まれの三十九歳。

 次郎長が逃げたのは安政五年(1858年)の冬のことである。

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