第17話 黒駒一家、誕生(四)

 伊豆訪問を終えた勝蔵たちは再び東海道へ戻り、西へ向かった。

 まずは駿河を抜けて、それから遠江、三河、尾張を経て伊勢へ向かうつもりだ。

 その間、各地の賭場に顔を出すことになる。目的は金稼ぎ、賭場の実地見聞、貸し元(親分)との顔つなぎ等いろいろある。

 賭場は博徒の命綱だ。賭場があるからこそ、博徒の命脈は保たれるのだ。日本一の幹線道路である東海道の賭場がどんなものか、それを生身の感覚で確かめてみたいと思うのは、博徒としての本能的な欲求と言うべきであろう。


 ところで勝蔵たちのような博徒の旅は、一般人の旅とはずいぶん様子が違う。

 博徒がどこかの町や村へやって来た場合、そこの博徒の親分に顔を出してあいさつすることが多い。むろん両者の立場によっては顔を出せない場合もあるが、基本的には地元の親分のところへ顔を出し、そこで「一宿一飯」の世話を受けたり、「草鞋わらじ銭」をもらったりするのが博徒たちの慣習となっている。

 例えばよその博徒が自分たちの村へやって来た場合、その対応は地元の博徒が引き受ける、というのが多くの村では暗黙の了解となっている。あるいは、その役目を名主が引き受けることもある。こういった場合、役人はほとんど頼りにならないのだ。

 これはある意味「博徒が村を守っている」とも言える。

 仮に黒駒へよそから博徒がやって来れば、その対応は勝蔵が引き受けることになる。勝蔵が喜平次たち黒駒の人々に期待されたのも、こういった役割があるからだった。

 一宿一飯の世話をしたり草鞋銭をくれてやるのは、

「こうやって面倒を見てやるから、大人しくさっさとよそへ出て行ってくれ」

 という趣旨も込められている。ただし両者の関係が友好的か否か、また訪問した博徒の貫禄によってもその内容は大きく変わってくる。それほど友好的な関係ではなく、大した貫禄もない博徒であれば世話をする代わりに、星(博打の借金)を取り立てる仕事をやらせたり、場合によってはケンカの助っ人として駆り出すこともあった。


 その点、勝蔵の場合は「甲州の武闘派」として東海道まで名前が売れていたので、勝蔵がひょっとしてやるかも知れない賭場荒らしを回避したいという思惑分も上乗せして、草鞋銭の相場は破格の扱いだった。

 それで、そうやって稼いだ金をタネ銭として各地の賭場で、賭場荒らしをするのはひとまず手控え、普通に博打を打ちながら賭場の様子を見て回った。

 勝蔵は一家を背負っているという立場上、今は博打自体を楽しむ感覚はあまりない。ただし子分たちは結構、この旅打ちを楽しんでいるようだった。

 綱五郎、兼吉、猪之吉はしょっちゅう賭場へ足を運んで勝ったり負けたりをくり返していた。

 中でも兼吉は「博打狂い」としか言いようのない博打好きで、東海道を歩いている時でも年下の猪之吉に向かって、

「次に通りの向こうからやってくるのは男か女か、賭けてみねえか?」

 などと賭け事の話ばかりして猪之吉を辟易へきえきとさせていた。さらに、ときどき親指で四文銭をピンと空中にはじいて、落ちてきたところをサッと握りしめて「裏か表か」などといった遊びもしょっちゅうやっている。ただしこれは博打というよりも運を占うという、軽い感覚でやっているらしい。

「よし、予想通り表が出たから、今日の賭場での勝負はきっと勝つぜ」

 といった具合だ。こういった兼吉の予想は結構当たり、実際、兼吉の博打運はなかなか勝負強かった。賭場での勝率は綱五郎と猪之吉を圧倒している。


 猪之吉はあまり博打が好きではない。

 というよりも、今まで狩猟ばかりやっていたので賭場に足を運んだ経験がなく、黒駒一家に入ってから初めて賭場の事を一から学んだ。

 要するに、まだまだ博打の初心者なのだ。こうして旅打ちをしていても、兼吉からいろいろと博打のことを教えてもらっている。

 本音を言えば、勝蔵の身辺警護をしたり、勝蔵の命令の下に敵の賭場を荒らす仕事のほうが猪之吉は好きだ。事実、祐天の賭場へ攻め込んだ際、猪之吉は勝蔵と共に真っ先に敵のところへ飛び込んでいったものだった。勝蔵の役に立つことができて猪之吉は嬉しかった。

 けれども、賭場での仕事ではまだまだ上手く役立ってない。猪之吉としては、どうにも歯がゆく感じている。


 駿河を抜けた勝蔵一行は遠江に入り、横須賀の都田みやこだ一家を訪れた。現在で言えば浜松市の北部の地域にあたり、近くに遠州鉄道の浜北はまきた駅がある辺りだ。

 ここの吉兵衛、常吉、留吉の三兄弟が取り仕切る都田一家は遠州一の勢力を誇っている。この兄弟は広沢虎造の浪曲『清水次郎長伝』では「都鳥三兄弟」と言い換えられている。

 都田一家も安五郎、久八、伝兵衛の系列にくみしているので、勝蔵はここでも快く迎え入れられた。

 お互いの一家同士で酒を囲んで話をしていると、都田兄弟が遠州の博徒のことをいろいろと語ってくれた。

 その話の中で、ここから少し西にある小松村に七五郎という、そこそこ有名な博徒がおり、その七五郎の知り合いで常吉の知り合いでもある石松という男がなかなかの暴れん坊で遠州各地の賭場で打って回っているのだが、森という村を拠点にしているので通称『森の石松』と呼ばれている、という話だった。

「へえ~、それで、その男は一匹狼なのかい?」

「いや、駿河の貸し元の盃を受けているらしい。清水に一家を構えている小さな貸し元で、確か名前は、何て言ったっけかな……。ああ、そうそう『次郎長』とか言ったはずだ」


 勝蔵が次郎長の名前を耳にしたのは、この時が初めてだった。


 前にも書いた通り、次郎長の名前が広く世に知れ渡るのは後世のことで、この当時はまだ、ほとんど世に知られていなかった。

 それで勝蔵も、このとき耳にした次郎長の名前をあまり気にも留めなかった。


 このあと勝蔵一行は浜名湖を過ぎて三河に入った。そして平井の雲風亀吉のところで草鞋を脱いだ。この平井というのは現在の豊川市の南端にあって豊橋市と隣接しており、東海道線の西小坂井駅が近くにある辺りだ。

 亀吉は以前力士だったことがあり、雲風はその時の四股名だ。本当に、この世界には呆れるほど相撲好きな奴が多い。

 勝蔵も相撲好きである。それに亀吉も安五郎たちの系列に属する博徒であり、二人はすぐに腹を割って話せる間柄となった。もちろん兄弟分の盃も交わした。勝蔵はまったく亀吉を気に入ってしまい、しばらくこの平井に逗留とうりゅうすることになった。

 暇な時には二人で草相撲を取って遊んだりもした。そのときはお互いの子分たちも相撲を取り合って余興を楽しんだ。

 その土俵の脇で亀吉が勝蔵に語った。

「俺と同じく昔は相撲を取っていた奴が、今では尾張で貸し元になって、この辺り一帯ではなかなか威勢がいい。そいつは昔、四股名を八尾やおヶ嶽がたけと言って、今では『保下田ほげたの久六』と皆から呼ばれている」

「久六ね。なんだか間宮の久八親分とごっちゃになりそうな、まぎらわしい名前だな」

「詳しくは知らねえが実際、久六は久八親分と昵懇じっこんらしい。それで今、久六は名古屋で十手取り縄を任され、二足の草鞋として結構な羽振りをきかせている。なにしろ天下の尾張様の後ろ盾があるからな。それで噂によると昔、相撲取りだった頃に清水で『次郎長』という貸し元に金をめぐんでもらって助けられたって話だ。その次郎長自身もかなりの相撲好きらしいが、ひょっとするとこの噂話は次郎長がでっちあげた自慢話かも知れねえ」

「清水の次郎長?前にどっかで聞いたような名前だな……」

「本名は長五郎で、親父おやじの名前が次郎八だから『次郎長』なんだとよ。清水の妙慶寺の近くでほそぼそと貸し元をやっているらしいが、あの辺りには『首つなぎの親分』安東の文吉というエラい奴がいるから地元じゃ頭打ちだ。次郎長も文吉親分には頭が上がらねえ。それで、なかなか暴れん坊の子分を何人か持っているから、今では黒駒の兄弟、あんたと同じように、もっぱら旅打ちで稼いでいるって話だ」

「そんな奴らと一緒にされたんじゃあ、たまらねえなあ。少なくとも喜ぶような話じゃねえな……。ああ、思い出した。清水の次郎長か。都田の親分のところで聞いたんだった。確か『森の石松』とかいう有名な子分がいるとか言ってたっけな」

「ああ。他に大政という子分がいて、そいつが次郎長の腹心らしい。ここへ来る途中、江尻宿(清水)で次郎長の名を聞かなかったかい?」

「いや、聞かねえ。江尻では大熊という貸し元がいたぐらいだったと思う」

「その大熊の妹が次郎長のカミさんだ。だから大熊は次郎長の兄弟分だ。実はこの三河の寺津にも次郎長の兄弟分がいて、次郎長は時々ウチの近くを通ってそこへかよっている。それと保下田の久六と兄弟分なのも確かなようだ。なんにしても、ウチの一家にとってはなかなか目障りな奴さ」

「う~む、よく分からねえが、その保下田の久六と兄弟分ということは、久八親分とも繋がりがあるのか?一体その次郎長という奴は、俺たちにとって敵なのか、味方なのか、どっちだ?」

「おそらく、いずれ敵になるだろう。血の気の多い奴だから誰にでもすぐ嚙みついてきやがる。噂によると武州高萩たかはぎの万次郎という博徒とも親しいってことで、時々甲州を通って高萩へ行っていると聞いた。いずれ黒駒の兄弟のところにも顔を出すんじゃないか?もし奴と会ったら、兄弟だったらどうするね?」

「そうさなあ。多分、噛みつかれる前に、たたっ斬ってやるさ」


 平井でずいぶんと長逗留した勝蔵たちは、そのあと尾張を通ってようやく伊勢に着いた。

 もちろん伊勢神宮も参拝した。そしてそのすぐ近くの古市に屋敷を構える丹波屋伝兵衛のところへあいさつに行った。

 伝兵衛は『近世侠客有名鏡』で西の大関に位置付けられる伊勢の大親分である。ただし実際に会ってみると普通の小柄な中年男で、表面的にはそれほど恐ろしさは感じられなかった。

 これが噂に名高い伊勢の大親分か?と勝蔵は少し拍子抜けした。伝兵衛の親戚である久八から事前に少し話は聞いていたが、もっぱらケンカの仲裁で名を高めてきただけあって腕っぷしよりも人徳で人をひきつける親分らしい。確かに話してみると、その懐の深さには勝蔵もそれなりに感銘を受けた。



 ともかくも、これで会うべき身内の親分には全て会い、勝蔵の東海道の旅もようやく終わりとなった。

 あとは一路、故郷ふるさとの甲州へ向けて引き返すだけだ。

 実に半年以上の長旅となった。もう、季節は冬に入っている。

「親分、早く黒駒へ帰りましょう。こう寒くなってくると久しぶりに国のが食べたくって仕方がねえ」

 と綱五郎が言った。

「アハハ。綱五郎さんは相変わらず食い物のことばっかりだなあ。でも確かに俺も食べたい」

 と猪之吉が応える。

「ここまで立ち寄ってきた賭場で、もう一回行ってみたい賭場もあるんだけどなあ……」

 と、これは兼吉。

「言われなくても用事は全部済んだから、後は帰るだけだ。きっと玉五郎や大岩小岩が心配しているだろうぜ。だが、こうして旅打ちをするのも案外、悪くないもんだ。全然賭場荒らしをやらなかったからお前たちは腕がなまってしまっただろうがな。とにかく、今回の旅でいろんな人と会えたのは収穫だった。いずれまた、この東海道へ戻って来ることになるだろうさ」


 勝蔵たちが戸倉の屋敷に戻ったのは、もう年の瀬が押し迫っていた頃だった。

 それからすぐに年が明けて安政五年(1858年)となった。

 この年は、将軍徳川家定が死に、日米修好通商条約が結ばれて日本の「開国」が決定するという、幕末の激動が本格化する年である。


 そして勝蔵にとっても、本格的な博徒人生が始まる年となる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る