第16話 黒駒一家、誕生(三)

 御坂峠を越えて山を下ればすぐに河口湖があり、ほどなく吉田村に着く。

 戸倉からの距離としては、山の勾配はあるものの甲府へ出るのとさして変わらない近さだ。勝蔵もこれまで何度かここへ来たことがある。それゆえ、この富士山麓の村に着いてもあまり旅先という感じはしなかった。

 が、博徒の世界に足を踏み入れた者として長老格の長兵衛に初めて会うのは、さすがに緊張せずにはいられなかった。

 事前に聞いていた噂では「仏の長兵衛」と呼ばれる一方「人斬り長兵衛」「人食い長兵衛」とも呼ばれているらしく、綱五郎たち三名と連れ立って緊張した面持ちで長兵衛の家を訪れたところ、実際に会ってみると意外にも品の良い長者風の老人だった。

 それもそのはずで、長兵衛は安五郎や勝蔵と同じく名主出身、いわゆる「お旦那博徒」と呼ばれる身分なのである。歳は七十過ぎらしく、すでに隠居となって引退生活を送っている。

 昔のことはさておき、人斬りだの人食いだのと言われるのは間違いだ、まず「仏の長兵衛」のほうが正解だろう、と勝蔵は思った。


 そして長兵衛は、かつて安五郎を博徒として仕込んだように、勝蔵にもお旦那博徒としての心掛けを説いた。長兵衛にとって勝蔵は孫弟子にあたり、実際に孫と爺さんぐらいの歳のひらきがある。

「安五郎にこんなたくましい後継者がいたとは、実に喜ばしいことだ」

「いえ。実際に安五郎さんからじかに許しを得たわけではございません。あっしの一存で竹居一家の方々にご協力しているだけのことです」

「残念ながら安五郎はああいう形になってしまった。あいつは二度と表の世界には出られないだろう。あいつが今どこにいるか、それをお前さんに口外することはできないが、そう遠くないうちにお前さんの前に姿を現すだろうさ」

「とにかく安五郎さんがどこかで無事に生きていることが分かって、それだけでも安堵いたしました」

「これからは安五郎の代わりに、お前さんが黒駒や竹居の村民たちを守っていかないといけないよ。それと賭場に来るカタギのお客さんはくれぐれも大切にしないといけないよ」

「はい。そのお言葉を肝に銘じて、これからも精進してまいります」

 このあと勝蔵は、これから会いに行く各地の親分宛の紹介状を長兵衛に一筆したためてもらって、それを懐へ入れて吉田村をあとにした。


 勝蔵一行は山中湖の近くを通って籠坂かごさか峠を越え、甲州の外へ出た。

 そしてしばらく行くと御殿場に着いた。ここから東へ行くと小田原へ、南へ行くと三島や沼津へ向かうことになる。

 むろん、勝蔵たちの向かう先は伊豆なので南へ向かった。富士山と箱根外輪山の間(現在、御殿場線が走っている辺り)をどんどん南下して行くと、やがて東海道の三島宿に着いた。

 東海道でも屈指の宿場町である三島は、さすがに繁華な町である。

 箱根の隣りにあるため、箱根へ向かう人はここでいったん宿を取り、箱根から下りてきた人はここで一息つくために宿を取る。しかも三島大社に参詣する人も多いので、ここは宿場町として大いに栄えている。

(甲州街道も、これぐらい賑わっていればなあ……)

 と勝蔵はいくぶん羨望せんぼうの心持ちとなった。


 甲州は所詮、小国なのである。

 武田信玄が活躍した一時期を除けば、歴史上、つねに日陰に甘んじてきた土地柄なのである。


 日本一の幹線道路である東海道と比べれば、甲州街道など取るに足らない田舎道だ。なにしろ甲州街道を通って参勤交代する大名などごくわずかしかおらず、そのため道もきちんと整備されてこなかった。

 そして何より甲州には海がない。

 海上物流が発達している東海道沿いの諸国と比べて、物流の便べんが著しく劣っている。

 のみならず、このとき勝蔵が通って来た道は甲州へ塩を運ぶ「塩の道」であり、その昔、駿河の今川方が塩の物流を遮断して武田方を苦しめた有名な故事があるように(代わりに謙信が信玄に塩を送って「敵に塩を送る」逸話となった)甲州は塩を含めた海産物を駿河からの輸入に頼りきっている。

 このとき勝蔵が通ってきた富士山東側のルート、さらに富士山西側の中道なかみち往還、そして富士川沿いの駿州往還(河内路かわうちじまたは身延路ともいう)、富士川水運が駿河から甲州へ海産物を運ぶ「塩の道」なのである。


 これらのルートで一番重要なのは、やはり富士川水運である。物を大量に運ぶのは、なんといっても船が一番だ。

 以前『鰍沢かじかざわの秋祭り』の回で書いたが、鰍沢は富士川水運の甲州側の拠点としてこの当時、大いに栄えていた。

 甲州は駿河から輸入ばかりしていたわけではない。その代わりとなる物をちゃんと輸出している。むしろ甲州は富士川の上流にあるのだから、この輸出のほうが川の流れのまま運べる「順流」だ。半日もあれば船は下流の駿河側に着いた。しかるに輸入は「逆流」なので運ぶのに三、四日かかった。

 甲州から駿河へ輸出していたのは、甲州と信州で取れた年貢米である。

 この当時、国の大きさを示す単位を「石高」と言っていたぐらい、米は一番重要な産物で、ほとんどお金と同じ扱いだった。

 その大切な年貢米は鰍沢、黒沢、青柳という鰍沢周辺の三河岸かしで高瀬舟に積み込まれ、川を下ったあと駿河の岩渕河岸(旧国道1号、現静岡県道396号の富士川橋のあたり)で陸揚げされ、そのあと東海道を陸路蒲原かんばらまで輸送される。そして蒲原からは再び船に乗せて清水港へ運び、最終的には江戸へ海上輸送されることになる。

 つまり、この富士川水運における駿河側の最終集積地は清水港ということだ。

 清水と甲州は一連の物流経路によって、そのまま繋がっているのである。


 それにしても、この物流経路はなんとも複雑だ。

 いっそのこと富士川の河口に港を作って、そこから直接江戸へ運べば相当な手間が省けるだろう。

 しかし百年以上も続いてきた仕組みをそう簡単に変えることはできない。「無駄な手間を省く」というのは、その一方で「それに従事している労働者の仕事を奪う」ということでもある。当然ながら、長年蓄積されてきた複雑な利権関係が絡み合っている。

 甲州と駿河を股にかけた巨大な利権構造である。利権があれば、そこに金と力の論理が持ち込まれるのは当然の帰結であろう。

 ところで明治になってからの話として、この複雑な利権構造を打破するために岩渕河岸から蒲原まで運河を作ろうとする男が現れる。それが実は勝蔵の関係者でもあるのだが、おそらくこの物語の終わり頃に少しだけ触れる機会があるかもしれない。



 勝蔵たちは三島大社を参詣したあと、下田街道を南下して韮山方面へ向かった。

 そしてほどなく間宮に着き、そこで大場の久八のところへあいさつに行った。

「お控えなすって。手前、生国と発しまするは甲斐でござんす……」

 云々といった仁義を切ってあいさつを済ませ、親分の久八のところへ通してもらった。もちろん長兵衛からの紹介状も差し出した。

 久八は安五郎の兄弟分であり、格から言えば勝蔵よりはるかに上である。しかも六尺二寸(188㎝)の大男で、勝蔵よりも大きかった。歳は安五郎と同世代で勝蔵より二十ちかく上だ。

 ところが勝蔵が祐天のところへ殴り込んだ武勇伝が既にここまで伝わっていた。それに勝蔵を一目見れば、腕っぷしの強さはすぐに分かる。

 なるほど、あの安五郎の後釜として見込まれただけのことはある、と久八も納得した。この世界、腕っぷしが強いというのはどんな理屈も超えて、人をひきつける要素となる。それが仲間内の人間であればなおさらのことだ。

 久八はたちまち勝蔵を身内として迎え入れ、ほとんど兄弟分に近い扱いで勝蔵を待遇した。


 ただし、やはりここでも安五郎の居場所については、久八は口を濁して語らなかった。

 安五郎が島抜けした際、最初に立ち寄ったのはこの久八のところだった。それ以降、久八は安五郎の逃避行を陰ながら援助しつづけている。おそらく安五郎の居場所について一番詳しく知っている男だろう。むろん安五郎から固く口止めされているということもあるが、いくら相手が兄弟分同然の勝蔵とはいえ、秘密が漏れるのは得てしてそういった油断からほころびが生じるものだ。との考えのもと、久八は口を濁したのだ。

 もっとも勝蔵としても、その件を詮索する気もなかった。長兵衛が言っていたように、いずれ時が来れば会えることもあるだろう。甲州人なのだからいずれ甲州へ帰って来るだろうさ、というぐらいにしか考えていなかった。


 その後、勝蔵一行は次の目的地へ向かった。間宮からさらに南下して天城あまぎ峠を越え、下田に入った。

 この下田の本郷には、久八の一の子分で「赤鬼」の異名をもつ金平という親分が一家を構えており、勝蔵はそこへ向かった。

 下田の町はすでに津波の被害から復興していた。町では津波対策として“なまこ壁”や石造りの建物が増え、しかも開港場になったということもあって町並みがきれいに整理されていた。

 そしてこのころ下田の玉泉寺にはアメリカ総領事のハリスが住んでおり、彼の女性問題、すなわち「唐人お吉」の話があったのもちょうどこのころの事らしいが「唐人お吉」は後世、小説などによって作られたフィクションであり、この当時そういう騒ぎが下田であったわけではない。

 むろん勝蔵はそんな話に興味はなかったし、下田に外人がいることさえ知らなかった。


 金平は、久八ほどデカくはないが勝蔵と同じくらい恰幅かっぷくのいい体格で、いかにも博徒の親分といった感じの強面こわもてな男だった。

 事前に久八の知遇を得ており、しかも長兵衛からの紹介状を持ってきた勝蔵を、金平は心から歓待した。そして二人はすぐに意気投合した。

 なにしろ金平も久八傘下で一番の「武闘派」として名が通っている男なのである。甲州で武闘派として名を高めつつあった勝蔵とはお互い相通ずるところがあった。

 金平は「口より先に手が動く」という、いかにも博徒らしい血気盛んな男であった。粗忽そこつ、と言うより粗暴と言ったほうがふさわしいであろう。

 そんな男であるだけに後年、維新直後の話として、尊皇派にくみした金平は下田港で紀州徳川家の船を勝手に襲撃してしまい、そのことを新政府からとがめられて明治二年五月二十五日、下田で斬首されるのである。


 ただし、こういった悲運にみまわれる男は金平だけにとどまらず、のちにいくつか目撃することになる。

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