第43話

 この日が来ることはずっとわかっていた。

 最初から覚悟もできていた。

 その上で俺は夏と偽りの恋人関係を演じる道を選んだ。

 しかしいざこの状況が目の前に現れると何もかもなかったことにして逃げ出そうとしている自分がいることに気づく。


「そうか……」


 もしここに記憶を無くした夏がいたとして、その子がもし逃げてもいいんだよと言ってくれたら、俺は確実に逃げ出していただろう。

 でもわかってる。

 もうあの頃の夏はいない。

 代わりにそこにいるのは飽きて捨てた元恋人。


 確かこの状態の夏と会うのはあの日以来だ。

 忘れもしない、誰もいない静かな夜道で告げた別れの言葉。


 ◆


「別れたい」


 そんな重苦しい言葉を投げかけたのにも関わらず、夏は「どうして?」と理由を聞くだけで驚く様子はない。

 本当のことは夏の心に聞いてみないとわからないが、夏はここで別れを切り出されることになんとなく気づいていたんだと思う。


「好きなのかわからなくなったから」

「そう、なんだ……。私はまだ好きだけどな……」

「それは……ごめん……」


 夏のその言葉を聞いても少しも嫌な気分にはならない。

 でももうその気持ちに応えることはできない俺は夏に対して謝ることだけしか出来なかった。


「祐樹のこと困らせたくないけどさ……本当に好きな気持ちを忘れちゃったの……?」

「ごめん……」

「ごめんごめんって、私が嫌な女みたいになってるじゃん……。それに私、謝ってほしくて言ってるわけじゃないんだよ……」

「そうだよな……。でも悪いのは確実に俺だから。今も夏の言うことに否定も何もできてないし。だからもうこれだけははっきり言うよ。夏も……俺のことは忘れて」


 話し合うつもりもなかった俺は夏にはっきりとそう告げた。


「もう……変わらない……?」

「うん……」

「そう……。じゃあわかった……」

「……今までありがとう。じゃあな、夏」


 理解を示してくれたのを確認した俺は呆然と立ち尽くす彼女を背に1人で歩き出した。


 ◆


 場面は変わって夏に記憶が戻ったと告げられた観覧車の中。


「なんか久しぶりに感じるよね。昨日も今日も会ってたのに」


 記憶が戻ったという言葉がまた嘘なんじゃないかと疑いたくなるほど目の前の夏は冷静で、特に変わったところなども見られない。

 だが戻っていないという確証がなかったのと、ここで嘘をつく理由が見当たらなかったので俺はその言葉を信じるしかなかった。


「……いつから記憶が戻ってたんだ?」

「いつからだと思う?」

「えっと……観覧車に乗ってから?」


 質問の質問に俺が恐る恐る答えると、夏は小さく笑った。


「やっぱり気づいてなかったんだね」

「ち、違うのか? じゃあいつから……」

「遊園地に来る前からだよ。今日の朝起きたら全部思い出してた」


 俺は夏の言葉を聞いて絶句する。


「ま、待てよ。嘘、だよな? さっきまで俺が笑い合ってたのって……じゃあ夏は今日ずっと記憶を無くした夏のフリをしてたってことか?」

「記憶を無くしたフリか。言い出さなかったのは私が悪いけど、私はいつも通り接してたつもりだったんだけどな。いつバレるだろうってドキドキしてたら祐樹、結局最後まで気づかないんだもん」

「え?」


 俺は夏が何を言っているのかが理解できず、いつまで経っても頭の中がまとまらない。


「じゃ、じゃあ記憶が戻ってたならなんでわざわざ観覧車に乗ってから……」

「それはお互いが逃げ出さないためだよ」

「そ、それは……。それはわかったよ。でもじそれなら何で最初に記憶が戻ったことを言わなかった? 観覧車の中で言いたかったんだったら最初に乗ろうって言えばよかっただろ。こんな……こんな無意味な時間を過ごす必要があったのか?」

「それはできなかった。だってあんなに私が楽しみにしてたんだから。祐樹も知ってるでしょ? 行かないって選択肢もあったけど最後まで付き合ってあげたいって思っちゃった。あ、もちろん記憶を無くしてた間のことは覚えてるよ」


 その言葉で俺は一瞬にして我に返る。

 今までのことを考えたら俺は彼女に対して何も文句を言えない立場だった。


「それは……ごめん……」

「うんうん、私の方こそごめん。もう恋人じゃないのに私のせいでこんなことに付き合わせちゃって」

「いや、俺が進んでやったことだから……」

「うん、知ってる。私といる時ずっと楽しそうだったもんね。記憶喪失になった私の方も楽しかったみたいだし。でもさ、思い返してみたら敬語で話してたってなんか笑っちゃうよね」


 罪悪感で暗い空気を纏っている俺とは違い、何故か夏は記憶喪失だった頃の思い出のことを楽しそうに喋り始める。


「あの頃を思い出さない?」

「あの頃?」

「高校で初めて出会った時のこと。1番最初の会話以来だったかな、敬語を使って話してたのは。そこから仲良くなって電話もするようになって……そこで祐樹がデートに誘ってくれて。懐かしかったね、水族館」

「ああ……」


 夏にそう言われて比べてみると、俺と夏が出会った時と俺と記憶喪失の夏が出会った時は確かに似ている気がした。


「私だけはしゃいじゃってさ。祐樹もがんばって合わせてくれてたけど最初は私、祐樹は楽しくないのかなって思ってたんだ」

「そう、だったな……。緊張してたから」

「うん。でも最後に売店で何か買ってあげるって言ってくれたでしょ? あの時は本当に嬉しかったんだよ」

「そうだな……。うん。本当にそうだったな……」


 夏の言葉で朧げだった数々の思い出が、頭の中で生き返ったように鮮明に再生される。


「祐樹が1番興味ありそうだったのを私が選んで買ってもらったんだっけ。あんまり可愛くないキーホルダー」

「そっか……。不思議だったけどあのキーホルダーを選んだのってそんな理由だったんだな……。ってことは……」

「うん。記憶を無くした私もちゃんと祐樹のことを見てたんだね。記憶喪失になっても私はやっぱり変わらないなぁ」

「そう、だったのか……」


 答え合わせをするかのように俺のぼやけきった記憶に付き合っていた頃の思い出が加わっていく。


「次はショッピングモールか。買い物する時とか、行くところないって時はいつもあそこだったね。あ、祐樹が好きだったアイスクリームの店、閉店してたの知らなかったんだ」

「……夏は知ってたのか?」

「当たり前じゃん。だから私、別れる2週間前にショッピングモールに行きたいって言ったんだよ? 閉店する前に祐樹をあのお店に連れて行ってあげたいなって思ってたから。ていうかこれ、祐樹に言ったよ」

「そうだったんだ……。多分、聞いてなかったかな……」


 その時から好きな気持ちを忘れてしまっていた俺は、ちゃんと夏と向かい合って話してなかったことに今さら気づいた。

 そしてこの頃になると俺はもう真剣に彼女の話を聞くようになっていた。


「祐樹に告白されたのもショッピングモールに行った時だったね。ていうか記憶喪失の私、恥ずかしいことばっかり言ってるじゃん。なんていうか……変じゃなかった?」

「……うん、変じゃなかったよ」


 罪悪感からそう言ったわけじゃない。

 俺の目から見たあの時の夏は確かに普通の女の子であり、夏そのものだった。


「ほんとかなー? 2回目の告白って何か変な感じしない? あ、でも祐樹も結構恥ずかしいこと言ってるね。ふふっ、今考えたらイルミネーションの下で告白ってロマンチックだよね。あの時は緊張したなぁ」

「俺も……いや、俺の方が緊張した」

「言い出すのに時間かかってたもんね。私も告白されるのはなんとなく気づいてたから心の中でがんばれって応援してたんだよ」

「そうだったんだ……」


 知らなかった。

 でも俺が告白を言い出す直前に安心するような言葉をたくさんかけてくれたのはそういうことだったのだろうか。


「あの日は私たちにとって本当に特別な日だったよね」

「ああ……」

「だから私はてっきり今年のクリスマスもイルミネーションを見に行けるのかと思ってたけど……そうじゃなかったね」

「……ごめん」


 謝って許されるようなことではないというのは自分が一番わかっている。

 でも俺はそうしないと気が済まなかった。


「帰りに華奈と喧嘩しちゃったし。でも華奈とあんなに言い合ったのは初めてだからいい経験にはなったのかな。祐樹も仲直りに協力してくれてありがとう」

「うん……」


 身勝手に別れを告げて、そしてその後も俺は夏に対して間接的とはいえ酷い行いをしてきた。


「海、また来れたね」

「うん……」


 あの日の果たせなかった約束が俺の心をさらに抉る。


「1回目の時は子供みたいに不貞腐れてごめんね」

「俺も、遅刻してごめん」

「記憶喪失の私にも謝ってたね。やっぱりあの時は祐樹もへこんでたんだ?」

「そうだな……結構へこんでた」


 そう、俺はへこんでた。

 恥ずかしくて言えなかったが、あの時の俺は夏に拒絶されたことに恐怖すら感じていた。

 だって夏のことが大好きだったから。


「そっか……。じゃあ二回目の時はちゃんと遅刻せずに来れてよかったね」

「うん……」

「こんな形にはなったけどまた海に行けたんだね、私たち。あ、でも祐樹、記憶喪失の私にももう一度来ようねって言ってるじゃん」


 夏は子供に諭す時に浮かべるような笑顔を向けながら口を開ける。

 俺はその時点でもう既に彼女が何を言おうとしてるのかわかってしまった。


「祐樹、守れない約束はしちゃダメだよ」

「そうだな……。本当、その通りだよ……」


 彼女の言った通り、俺は懲りずに何度も同じ間違いを繰り返している。


「スギサキベーカリーのパンも今日の遊園地も、他にもたくさんある。数えきれないほど。1年間で色んな場所に行ったね。色んなことを話したね。たまに喧嘩もしちゃったけど……でもとっても楽しかったね」

「うん。楽しかった」


 今ならはっきりと思い出せる。

 夏と過ごした1年間は楽しかったと。


「そうだよね……ほんと……」

「……」

「ほんと思い出しただけで涙が出ちゃうよ……!」


 夏と目が合わせられずに窓の外に視線を向けていた俺はその言葉で初めて夏の目から大粒の涙が溢れていることに気づいた。


「な、夏……」

「どうして……どうしてまた私の前に現れたの?」


 さっきまでの優しい口調ではない。

 静かだが、言葉の節々に感情が込められた力強い声だった。


「どうして好きじゃないくせにあんなに優しくしてくれたの……? どうして好きじゃないくせにキスなんかしたの……?」

「……」

「祐樹に振られてから私、毎日が空っぽだった。華奈と健太が支えてくれなかったらどうなってたかわからない。それでも時間をかけてようやく忘れられそうって思ってたのに……。ねぇ、どうしてなの……?」


 俺は耳を塞ぎたくなるのを堪えながら、必死に頭と口を動かす。


「……それは多分、何も知らない記憶喪失の夏だったからだと思う」

「記憶喪失の私? それはどういうことなの。もっと詳しく説明してよ」

「だから記憶が無い状態の夏だったから……夏と違うこの子なら別に本当の恋人になってもいいんじゃないかって……俺はそう思って……」

「だから理由になってないよ! それはどういう感情なの? 私と記憶喪失の私、何が違ったの?」


 感情を露わにした夏に急かされて、俺は今まで導き出してきた感情を頭から引っ張り出そうとする。

 だがいくら経っても出なかった。

 あれだけ自信を持って夏に向けていた感情が具体的なことになるとなぜか一切出てこなかった。


「それは……えっと……」

「性格? 仕草? 表情? 話し方? 声? 匂い? 顔? 何が今の私とそこまで違ったの?」

「何がって……そんなこと……」

「早く答えてよ!」


 考えれば考えるほど頭が真っ白になった。

 もちろん緊張してそうなっているわけではない。

 ただそのことについて考えようとするとフリーズしたように頭が動かなくなる。


「えっと……あれ……。だから……あれだよ、あれ……なんだっけ……。何が今の夏と前の夏を分けたんだっけ……」

「あれだけじゃ分からないよ」

「だ、だから……あれっていうのは……」


 見てきたことをそのまま説明するだけなのに、俺は一体どうしてしまったというのか。

 まさか違いを別人と解釈したあの前提がそもそも間違っていたとでもいうのか。

 それとも夏だけでなく俺まで記憶を無くしてしまったとでもいうのか。


 そうやって今まで積み上げてきたものが崩れ落ちていくような感覚に襲われた時、同時にある一つの可能性が俺の頭をよぎった。


「言い訳しないで本当のことを言って。ただからかってただけなんでしょ……?」

「そ、それだけは絶対に違う……」

「じゃあ暇だったから記憶喪失になった私を抱きしめたりキスしたりして馬鹿にしてたんだ……?」

「それも違うって……」

「じゃあどうして……? 祐樹、記憶喪失の私も私だよ……?」


 夏が口にしたのは記憶喪失の夏も何気なく使っていたあの言葉だった。


「私は……私……」

「その言葉の通りだよ。記憶を無くしている間も私はいつも通りの私だった」

「そんな……だってそれだと……」

「それだと何? 今日だって祐樹、記憶喪失の私と元の私、見分けついてなかったじゃん。うんうん、それだけじゃない。電話の時だって海の時だってどっちの私か判断できてなかった」


 確かにそうだ。

 俺は夏が変わったことに気づいていなかった。

 それどころか俺は今日、記憶が戻った夏と一緒に遊ぶことを幸せだと感じていた。


「それは祐樹自身が記憶をなくした私に変わったところが一つもないってわかってたから」

「……」

「何よりこの1年間ずっと隣にいた祐樹ならわかってるでしょ? 私がどんな人間だったか」


 俺は夏とたくさんの時間を二人きりで過ごした。

 自慢ではないが、家族を抜けば夏のことを一番知っているのは俺だ。

 だから俺は夏がどんな人間だったのかなんて簡単に答えられる。

 俺の知っている夏は……


「そんなことも、忘れちゃったの……?」

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