第44話
その言葉で俺は夏の言いたいことをようやく理解することができた。
いや、受け入れることが出来たといった方が正しいかもしれない。
記憶喪失になった元恋人のことを気になってしまう理由を探している時に、俺は夏が記憶を無くしたことで何もかも変わってしまったんだと思っていた。
俺の知っている飽きて捨てた夏ではなく記憶を無くした別人のようになった夏だからこそ、一緒に過ごすうちに惹かれていったんだと俺は思っていた。
でも冷静になって考えてみればその答えが間違いであることはすぐにわかる。
夏のことを1番近くで見守ってきた俺にしかわからない真実。
それは夏が記憶喪失になって変わったことが記憶の有無以外には何一つなかったこと。
顔も匂いも仕草も、子供のような元気さも包み込むような優しさも、時折見せる我儘な一面も。
それらは全て記憶を無くす前の夏も等しく持っていたものだった。
それを裏付けるように久保田と夏が喧嘩した夜の電話で俺は記憶を無くした夏と本来の夏を見分けることが出来なかった。
海に行った時もそうだ。
俺は夏の儚げな表情を見て彼女の記憶が戻ったんじゃないかと勘違いしていた。
もちろん今日の遊園地も。
何より俺自身がその違いを説明することができなかった。
もうそこから既に答えは出ている。
変わったのは夏自身ではない。
変わったのは俺だ。
夏も言っていたように記憶を無くす前の夏も出会った当初は余所余所しかった。
2回目の初デートで行った水族館の時のように。
それが話していくうちに仲良くなって、明るくて元気で優しい性格だって知って、いつしか彼女のことを好きになり始めて、遂に勇気を出してデートに誘って。
さらに仲を深めていって、決心してクリスマスの日に告白して、想いが重なって付き合うことができて、そこからまた色んなところにデートに行って。
記憶喪失になった夏と出会ってからこの観覧車に乗るまでの俺たちの関係は、付き合っていたあの頃と何も変わらない。
変わったのは飽きて捨てた元恋人への俺の気持ちだけだ。
こうやって夏に指摘されるまで俺はこんな簡単なことにも気づけなかった。
夏に抱いた感情の正体は単純だった。
埋まらなかった最後のピースが今夜ようやく見つかったことで全ての謎が解けた。
「夏、俺は……」
沈黙を破ろうとした、その時だった。
「足元に気をつけて降りてくださーい」
密室からの解放を告げる声。
それとともに観覧車の扉が開いた。
「あ、降りないと……。ごめん、私ちょっと熱くなってたみたい」
「あ、ああ……」
歯がゆい気持ちを抑えながら夏に続いて俺も観覧車を降りる。
「そもそも私が記憶喪失になったからこうなっちゃったんだよね。祐樹はそれを手伝ってくれてたのに……。そうだ、私が記憶を無くしてた間の出来事はさ、無かったことにしない?」
「な、無かったこと……?」
「うん。何かを思い出すことは難しいことかもしれないけど、何かを忘れるのって簡単でしょ? だから無かったことにして明日からはいつも通り私たちは赤の他人に戻るの」
許すのではなく完全に縁を切る。
確かにそれが一番合理的な終わらせ方だ。
実際、観覧車に乗るまでは俺もそう考えていた。
「そう……だな……。普通はそうだよな……」
「もちろん記憶を取り戻すのを手伝ってくれたことには感謝してる。でも私たちはもうこれ以上一緒にいないほうがいいと思う」
「夏はそんな……そんな簡単に無かったことにできるのか……?」
「え?」
「別れてから時間はそんなに経ってないけど夏はもう俺のこと、好きじゃなくなったのか……?」
俺の問いかけに夏は目を見開く。
「どういうこと。冗談はやめてよ。何回か立ち直れないかもって思ったことはあったけど、今はもう前を向いてるから」
「この数日間でそれは変わらなかった?」
「何でそんなこと聞くの? もちろん変わらないよ」
「それは……本当に……?」
「うん」
夏はもう俺を忘れて前を向いている。
最初からわかっていたことなのに、今さらそれが喪失感となって俺の胸を締め付ける。
「じゃ、じゃあ約束してた明日のクリスマスはどうするつもりなんだ……。あんなに楽しみにしてたイルミネーションはどうなるんだよ……」
「そうだね……祐樹には悪いけど健太と前から約束してたからそっちに行くつもり。告白もされちゃったしね。今も緊張してるだろうし早く答えを伝えにいってあげないと」
「その……どうするんだ……告白は……」
「どうするんだろうね。私もまだわからないよ。でもすごくいい人だから。私が途方に暮れてた時ずっと側で励ましてくれたし。でもこれは……祐樹には関係のないことでしょ?」
この状況を好転させる一筋の希望を探していた俺に夏が見せたのは血の気の引くような現実だ。
夏の心の中に俺はもういない。
俺ではない他の誰かがいる。
でもそんなのは当然だ。
俺は今まで散々、自分勝手に行動して彼女のことを振り回してきた。
もちろんそれだけではない。
振り回すたびに彼女の心に傷を負わせてきた。
そんな俺が夏のためにできることは一つ。
これ以上彼女の人生に関わることをやめて、さっさとこの遊園地から解放してあげることだけ。
今の夏からしたら俺が存在するここは息苦しくてたまらないはずだ。
そう悟った瞬間、絶望で目の前が真っ暗になった。
「……もしかして未練があってほしかったの?」
不意に出てきた言葉に俺は顔をあげる。
「違った?」
「ち、違わない」
俺は迷わず本心を告げた。
「あるか無いかで言えばほんの少しはあるよ。もしもあの時ああしてたらって後悔をする日も一度や二度じゃない」
「それなら……」
「でもね、今は不思議と吹っ切れてるの。思い出の場所を巡った後だからかな。この一年間に本当の別れを告げられた気がする。だから私のことは心配しないで。祐樹がいない毎日でも上手くやっていくから」
一言まだ好きだと言ってくれれば。
そんな浅はかな願いはいつまでも夢の境界線を突き破ることはなかった。
「時間はかかるかもしれないけど祐樹のことは全部忘れる。言わなくてもわかってると思うけど、祐樹も私のことは今日で忘れてよ……!」
「まだ言いたいことが……待ってよ……」
「ごめん、もうここにいる意味はないから。じゃあね、祐樹。今までありがとう」
そう言った彼女は俺に笑いかけたのを最後に、躊躇うことなく歩き出した。
「夏……」
一歩、また一歩と夏の姿が遠くなっていく。
もちろんここで俺は今の感情を一方的に彼女に向かって叫ぶこともできる。
でも俺はその背中をただ無言で見つめるだけで、それ以上のことはしなかった。
こんな今だからこそわかる。
俺に振られた時の彼女の気持ち。
辛くて苦しくて、何かに縋りたくて。
どこにも行ってほしくなくて、その手を離したくなくて。
でもここで駄々を捏ねたら相手を困らせることになるからと手を伸ばすことを躊躇って。
最後は泣くこともせずに自分の気持ちに蓋をして潔く俺を送り出す方を選んで。
痛いほどわかった。
ここで俺が夏を呼び止めたら夏が同じように困ることも、俺がまた自分勝手な人間になってしまうことも。
だから俺は言いかけた言葉を最後まで言えなかった。
心の中で何度も夏に謝罪して、そして自分を責めることしかできなかった。
「……ねぇ、祐樹」
やり場のない気持ちを必死で押しとどめていたその時、突然夏が俺の名前を呼びながら歩みを止めた。
「私、振られちゃったけどさ……私……あなたの側にいてよかったの?」
「……」
「……私だけが、幸せだったの?」
無言で立ち尽くす俺の方に向き直した夏は震える声でそう言った。
「俺は……」
「私、何言ってるんだろうね……。ごめんね、急に。最後の遊園地は久しぶりに楽しそうな祐樹と遊べて嬉しかったよ。それじゃあ今度こそ行くね」
「……ま、待って!」
俺は叫んでいた。
思わず出た行動じゃない。
俺が自ら選んでそうした。
「何?」
「夏と……夏とやり直したい。もう一度俺と付き合ってほしい」
「え?」
「全部思い出したから……謝るから……もうどこにも行かないでくれよ……。もう絶対に傷つけないから……もう絶対に好きな気持ちを忘れたりしないから……。だからこれからも……側にいさせてよ……」
涙でぼやけた目でしっかりと夏を見据えながら、俺は心を突き破って溢れ出てきた強い想いを言葉にする。
「俺も、夏といられて幸せだったよ……」
俺が久保田に言ったこと。
記憶喪失の夏が俺に教えてくれたこと。
そして俺が忘れていたこと。
「祐樹……」
「別れた日に行ったあの店、もう一回行こうって言ってただろ……? だから行こう。1時間でも2時間でも待つからさ……。また海にも行こう。もう絶対に遅刻しないから。チーズパンもまた一緒に食べよう。俺も好きになったんだよ、あの味。告白した日に見たあのイルミネーションを2人でまた見に行こう。遊園地だって……今ならまだ間に合うじゃん……。なあ、夏……」
「どうして今さら……」
困惑している夏に構わず俺は何度も自分の想いを語った。
「また2人の思い出を作っていこう。写真も……消しちゃったけどまた何枚でも撮ろう。だから……お願いだよ……夏」
「もう遅いよ……遅すぎるよ……。どれだけ私が悩んだと思ってるの?」
「わかってる……。だから北見じゃなくて、俺を選んでくれ。大好きだから……これからもずっと俺の側にいてよ……」
「ご、ごめん……。私もう行かなくちゃ。記憶が戻ってすぐに準備して家を出たからお母さんにもまだ報告できてないし……華奈にもそして……健太にも伝えておかないと……」
夏は再び俺に背を向けて歩き出そうとする。
それに俺は最後の希望を伝えた。
「明日! 明日の夜6時に夏に告白したあの場所で俺、ずっと待ってるから。まだやり直せるならあそこから始めよう。まだ夏に俺への気持ちが少しでもあるならその時間に来てほしい」
「無理だよ……」
「もし来なかったとしても、俺は待ってるから」
その後、駆け足で去っていく夏の姿を俺は最後まで見送った。
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