第39話
お互いの意思を確認しあった俺たちはその後、近くの公園で見つけたベンチに移動していた。
「……さっきはごめん」
目の前にある遊具をぼんやりと見つめながら夏より先にそう切り出すと、夏も遊具の方に目を向けたまま恐る恐るという感じで口を開ける。
「……色々あったけどもちろん許すよ。でもその前に……」
「ん?」
「冷静になって考えてみたら本当にこれでよかったのか心配になって……。ほら、祐樹くんが迷惑だって言ってたから」
怒鳴られることも覚悟していたが、夏の口から出たのはそんな弱気な言葉だった。
「確かにそんなことも言ったけど、あれは仕方なくついた嘘っていうかなんていうか……。とにかく俺は記憶喪失になった夏のことも恋人だって思ってるから」
「そ、それは本当?」
「もちろん本当だよ。何ならあの言葉を聞いた今は夏と一緒にいたいって気持ちが強くなってるし」
「あの言葉って、あの言葉だよね……」
「そう。好きだからってやつ。あれを聞いた時は本当にびっくりしたけど、それ以上に夏に認めてもらえたことが嬉しかった」
失ったものを取り戻すためとはいえ、本当に自分は都合のいい人間だと思う。
でも夏が俺のことを信じてくれるというなら、俺は今度こそ全力でその気持ちに応えたい。
俺が抱いたその気持ちに偽りはないし、俺も夏が抱いている気持ちが偽りではないと信じている。
「ちゃんと嬉しいって思ってくれてたんだね……」
「信じてくれるか?」
「もちろん私は祐樹くんを信じるよ。っていうか本当は最初から信じてたんだけどね」
「それはほんとか?」
「うん。ほんとだよ」
夏はそう言ってくれた。
はっきりとした口調で、屈託のない笑顔を浮かべながら。
慎重な人間でもない限り、ここは安心してこちらも笑顔を見せる場面だ。
「ほんとにほんと、だよな?」
「うん。間違いなく」
俺は夏に同じことを確認する。
少ししつこいくらいに。
もちろんそうしたのは自分に言い聞かせたいとかそういう女々しい理由ではない。
ただ何となく自分の気持ちがまだ消化しきれていない気がした。
「うーん……」
「どうしたの、祐樹くん」
「いや、俺が言うのも変だけどほんとにそう思ってるのかなって」
「ど、どうしてそう思ったの?」
「疑ってるとかじゃなくてなんとなくさっきから違和感を感じてさ。あ、そうだ夏。さっき言ってたあの言葉もう一回言ってみてよ」
「あの言葉って……えっ!? あれをここでもう一回言うの!?」
恋人に好きと言うだけの簡単な行為だ。
だが提案された夏は少し大袈裟に感じるぐらいの驚いた声を出した。
「なんだよ。そんなに嫌なのか?」
「別にそういうわけじゃないけど……」
「じゃあ他に理由があるってことか。もしかして嘘だったとか?」
「わ、わかったよ! 言うから! 頑張って言いますから! もう、祐樹くんだって嘘じゃないってわかってるくせに……」
「そうだけど、そんなに恥ずかしがらなくてもいいだろ。前にも何回か言ってたし、さっきだって普通に言ってたし」
「私も言った覚えはあるけど……」
やっぱり何かあるんじゃないかと感じた俺がさらに問い詰めると、夏は観念したように彷徨わせていた視線をまっすぐ俺の方に向けてこう言った。
「……今はなんだかすごく緊張するの」
直後に俺は思わず「あっ」という声を上げた。
驚いたというか、閃いたというか。
とにかく間抜けな声だった。
俺の目の前には今、二つの映像がある。
一つはもちろん夏の顔だ。
体が密着するぐらいの距離にいたので、顔と顔の距離もものすごく近い。
それにいつもより色や輪郭がはっきりと見える気がする。
もう一つは夏の背後にある公園だ。
公園にいるから公園が見えるのは当たり前なのだが、この映像からは何がどこにあるのかが読み取り難くて具体的に説明できない。
だから公園と呼ぶしかなかった。
鮮明に見える夏の姿。
そしてあやふやにしか見えない背景。
よく考えたら簡単なことだった。
先ほどの言葉を借りるなら恋人に好きという気持ちを伝える行為くらい簡単なこと。
ここは今、二人だけの世界。
あの砂浜の上と同じ、誰にも邪魔することができない俺たちだけの空間だ。
そのことに気づいた瞬間、あれほど理解に苦しんでいた夏の緊張が俺の中でも生まれる。
それも今までにないくらい大きな緊張が。
「私、祐樹くんのことが好き」
静まり返る空間。
向かい合う二人。
待ち構えていた告白。
あの時と変わらないのは心臓の鼓動が音を立てて騒いでいること。
あの時と違うのはお互いの気持ちが通じ合っていること。
「俺も……」
「俺も?」
「夏のことが好きだよ」
思い出の場所を巡る度によくわからない感情が膨れ上がって、それはいつしか俺の心を蝕んで、制御すら出来なくなって。
一度はそれを諦めた。
でも今は目の前にある。
手の届く距離で、俺が欲しかったものを大切そうに抱えながら。
「なら、これからもずっと側にいてくれる?」
別に夏との間に何かを決めた覚えはない。
だがその声が合言葉だったかのように俺の心が勝手に熱を帯びていく。
今まではこの熱が何なのかわからなかった。
いや、わからなふりをしていた。
でもこの燃え上がるほどの熱を俺はもう疑わない。
俺は彼女を好きになってしまった。
俺をここまで導いたきたのもその感情だ。
そんな俺にできることはその熱に従って徐々に夏の方に顔を近づけていくことだけ。
そのことに夏も気づいたのか、ぎこちなく目を閉じる。
それを見てまだ緊張しているのかと思ったが、直後に優しく掴んだ彼女の手はもう震えていなかった。
「最後まで側にいるよ」
この空間を支配した二つの熱。
それらに溶かされるように俺は覚悟を決めた。
そして2人は遂に唇を重ねた。
「えへへ……」
何秒そうしていたのかはわからない。
ただ俺に優しく微笑みかけている夏が目の前にいるので、永遠ではなかったのは確かだ。
もちろん名残惜しいという気持ちもない。
どんなものにも終わりがあることを俺は身に染みて知っている。
例えばこの関係も、恐らくあと数日が限界だ。
そんな中で後悔なんてしている暇はない。
したとしてもこの関係が終わる日以降だ。
だからこの先何が待ち受けていたとしても、今の俺にできるのは目の前の彼女の笑顔を記憶が戻るまで見守っていくことだけだ。
「祐樹くん」
暫く続いた無言の時間に終止符を打ったのは夏だった。
「どうした?」
「ずっと気になってたんだけどその袋、あのお店のやつだよね?」
夏は俺の横に置いてあった紙袋に目をつける。
「あー、そういえば夏と会う直前に買ったんだっけ。色々ありすぎて忘れてたよ」
「いいないいなー。実は私も買おうか迷ってたんだよね。それで、何を買ったの?」
「チーズパンだよ。夏が好きだったやつ」
俺は手に取った紙袋から例のチーズパンを取り出して夏に見せる。
「へー、お店の前を通った時は見れなかったけどこれが私の好きだったチーズパンか……。え、これ……」
「その反応、まさか……」
「すっごく美味しそう」
夏の物憂げな顔を見て何か思い出したのかもしれないと警戒心を強めたが、夏の口から出てきたのはただの感想だった。
「私も帰りに買ってみようかな。失った記憶に何か効果があるかもしれないし」
「そんなにこのチーズパンが気になってるなら俺が買ったやつあげようか?」
「え、いいの?」
「元々夏のために買ったようなもんだからな。それに結構前に夏に薦められて食べたことあるけど好きになれなかったから」
そう言いながらパンの入った袋を押し付けるように渡すと、夏は躊躇しながらもそれを受け取る。
そして記憶を取り戻すためなのか、もしくは見た目や匂いに我慢できなくなったのか、夏はその場で袋から取り出したチーズパンを一口食べた。
「うん。やっぱり美味しい」
パンを頬張った夏は小さな口を必死に動かしながら味の感想を伝えてくる。
「そっか。それはよかった」
「祐樹くんも一口食べてみなよ、ほら」
「いや、だから俺は好きじゃないんだって」
「それはちゃんと聞いてたよ。でもそれだともったいないよ」
「もったいない?」
「うん。だって今度は好きになるかもしれないでしょ?」
見方を少し変えただけでただの屁理屈だ。
でも何故か俺はそれに対して返す言葉が全く浮かばなかった。
だから俺は返ってきた食べかけのパンをやむを得ず受け取り、そしてやむを得ず口にした。
「どう?」
「うーん……。わからん」
「だめだったかぁ。まあ好き嫌いは仕方ないよね。私も好きだけど好きだったかどうかはわからないや。前も好きだったんだよね、これが」
「俺は一回しか見たことないけど嬉しそうに食べてたよ。久保田もそう言ってたしな」
「……そうだね。華奈も言ってたね」
友達の話題が出てきた瞬間、夏の顔が曇る。
少しずついつも通りの光景を取り戻していたので、尚さらその違いはわかりやすかった。
「そう言えばちゃんと聞いてなかったけどあの2人は結局どうなったんだ。置いてきたなんてことはないと思うけど」
「2人は大丈夫……だと思う。華奈と健太は色々あって別れちゃった。祐樹くんを追いかける時にはもう2人とは一緒に行動してなかったよ」
「夏が電話をかけてきた時はまだあの大学に入ってからそんなに時間は経ってなかっただろ。解散するには早すぎないか」
3人が通っていたあの大学は一日では周りきれないほど広かったし、それに久しぶりに会えた友達と数十分程度で別れるなどあり得ない。
「もしかしてまた俺のことで喧嘩したのか」
「うんうん、そうじゃないの。そうじゃないんだけどなんていうか困ったことになってて……。祐樹くんに電話をかけたのは実はそれを相談する目的もあったの」
「困ったこと?」
「祐樹くんは驚くかもしれないけど、大学を回ってる時に健太にね……」
俺は頭になかった人物の名前が出てきて少し動揺する。
確かにあの場には北見もいたが、俺が知る北見は夏に対して常に友好的だった。
そして夏の方も北見に対して遠慮のようなものはなかったと思う。
そんな二人の間に一体何があったというのか。
「北見がどうしたんだ」
「好きだったって言われたの」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます