第38話

 聞こえるはずのない声が響いた。


「……夏?」


 突然目の前に現れた人物は見た目も声も俺の知っている女の子で間違いない。


 でも俺は確かに彼女に来るなと伝えた。

 来てほしくない理由と来ても意味がないという事実も一緒に。

 だから彼女がなぜここにいるのか、なぜ息を切らしているのか、なぜ安堵したような表情を浮かべているのか。

 俺は目に映る全てが理解出来なかった。


「うん、私だよ。よかった、間に合って」

「いや、全然よくないだろ。どうして来ちゃったんだよ……。俺、電話で追いかけて来るなって言ったよな?」

「それはその通りだけど……」


 自覚はちゃんとあったのか、俺の言葉に夏はばつが悪そうな表情を浮かべる。


「わかってるならどうして言う通りにしてくれなかったんだ。俺がたまたまここに居座ってたから会えたけど、そうじゃなかったら無駄足になってたんだぞ?」

「わかってるけど、だって……」

「それに、久保田と北見はどうしたんだよ。近くにはいないようだけど。まさか学校に置いてけぼりにしてきたなんてことはないよな?」


 俺は浮かんだ疑問を全てぶつけた。

 そもそも俺のことを良く思っていない久保田なら、俺を追いかけようとする夏を全力で止めようとしたはず。

 夏はそれをどう掻い潜ってここまでやって来たのか。

 そして電話で伝えた俺の忠告も、あれだけ仲良くなっていた友達の存在も、何もかも無視してここまで走ってきた理由とはなんなのか。


 一体、何が夏を突き動かしたのか。


「なあ、どうして……」

「記憶が……」

「え?」

「記憶が戻った」


 夏の口から飛び出した言葉が耳に入った瞬間、俺は真っ先に自分の耳を、次に自分の目を疑った。


「よ、よく聞こえなかったんだけど今なんて言った?」

「だから、私の記憶が戻ったんだよ! 久しぶり、祐樹。私、やっと戻ってこれたよ!」

「夏が、戻ってきた?」

「うん!」


 聞き間違いであることを願いながらもう一度夏に聞き直してみたが、夏は即座にそれを否定した。

 しかもこの状況には似つかわしくない無邪気な笑顔を浮かべながら。


「そう、か……」


 少し悩んで俺はそんな適当な相槌を打った。

 もちろん目の前の事実から逃げようと気づかないふりをしているわけではない。

 俺も馬鹿ではないので今の状況を少しずつではあるが理解してきている。

 ただそれらを自覚した上でも俺は夏の言動を受け入れることができなかった。


「ねぇ、やっと戻ってきたよ、祐樹」

「……」

「ねぇ、私の話ちゃんと聞いてる? どうしたの? どうして何も言わないの?」


 微動だにしない俺の態度を見て、夏の笑顔が徐々に引き攣っていく。


「ど、どうしてそんな顔するの? ねぇ、祐樹。どうして私の記憶が戻ったのに喜んでくれないの?」

「……」

「ねぇ、黙ってないで答えてよ」


 沈黙を続けていると、少しずつ声にも元気がなくなってきた。

 もう少し様子を窺うつもりだったが、俺はそこでこれ以上は無理だと判断する。

 そして数秒の沈黙を使ってある程度頭の中を整理した後、ようやく重たい口を開けた。


「……わかってるから」


 それだけでは意味が伝わらなかったのか、夏の反応は薄い。


「わかってるって、何が……?」

「記憶が戻ったのが嘘だってことが、わかってるから」


 俺の核心を突く言葉に夏は笑顔以外の表情を見せる。


「ど、どうしてそう思ったの? 本当に嘘じゃないよ……嘘じゃ……」

「誤魔化さなくてもいいよ。上手く演じてるつもりかもしれないけど、夏の反応でもう全部わかってるから」

「反応……? そ、それは……」

「他の人間なら騙せるかもしれない。けど俺には意味ないよ」


 俺があの状況でほとんど焦りを感じていなかったのは、夏の記憶が戻ったという言葉が偽りであると確信していたからだ。

 その根拠は一つ。

 夏が記憶が戻ったことを伝えた時に見せた笑顔。

 俺の目から見たあの反応は明らかに違和感があった。


「祐樹……」

「夏、もういいから」

「祐樹、くん……。そ、そうだよね。ごめん。祐樹くんの言う通り本当は戻ってない」


 そこで夏はようやく記憶が戻ったのが嘘だということを認めた。


「まあ、そうだろうな」

「うん……。でもやっぱり祐樹くんならどっちの私なのかすぐにわかっちゃうよね。だって私たち、恋人だったんだもんね……」


 夏はそう言っているが正直彼女にしては上手く演じていた方だと思う。

 俺でさえ記憶を取り戻したことを伝えられた直後は気づかなかった。


 しかし彼女は知らない。


 本当に記憶が戻っているのだとしたら、俺の知っている記憶喪失になる前の夏は俺を見て喜ぶことはない。

 その単純で残酷な事実に。


「……うん、わかるよ。恋人だったから」

「そうだよね……。本当にごめん……」


 夏はか細い声で謝罪の言葉を述べると、その後はすぐに口を閉ざしてしまった。

 もちろん夏の性格を考えたら嘘をついたことに対して強い罪悪感を感じるのも無理はない。

 だが記憶が戻っていないことを確信していた俺にとっての本題はこの続きにあるので、彼女にはもう少し頑張ってもらう必要がある。


「それよりもう聞いていいよな。どうして記憶が戻ったなんて嘘をついたのか」


 俺がそう切り出すと、夏は地面に向けていた視線をゆっくりと俺の方に向ける。


「……そうだね。うん、全部話す。だからちゃんと最後まで聞いてほしい」


 夏が嘘をついた理由に心当たりはないが、冗談で言っているわけではないということは彼女の真剣な態度を見てればわかる。

 だからその真意が何であれ、俺は覚悟を持って夏の声に耳を傾けるだけだ。


「……わかった。どんなことを言われても今だけはそうする」

「うん……。それでいいよ。じゃあ一つずつ話すね。私が嘘をついたのは……」


 本来ならここで夏の嘘をついた理由が聞こえてくるはずだった。

 常識という意味でも俺の頭の中で描いた予定という意味でも。


 だが夏が喋り始めた直後、どういうわけか中途半端なところで声が途切れた。


「夏、どうした……って、泣いてる……?」


 夏の瞳から何の前触れもなく零れ落ちた一粒の涙に気づいて声を上げると、夏は慌てて服の袖を目に当てた。


「ご、ごめんね、急に。祐樹くんと電話で話した時のことを思い出しちゃって……。あの時はすごく苦しかったから」

「く、苦しい?」

「うん……。祐樹くんに嫌われちゃったんだって、もう会えないって、そう思ったら急に胸が苦しくなって……。それで気づいたら祐樹くんのことを追いかけてた」


 夏はくぐもった声で涙のわけを説明する。

 そしてそれを聞いていた俺はというと、もちろん後ろめたさで言葉を詰まらせていた。


「だから……私が嘘をついたのは私の記憶が戻ったって知ったら、私が本当の夏さんだって知ったら、祐樹くんが私から距離を置くことを考え直してくれるんじゃないかと思ったから」

「夏……」

「それだけ私は祐樹くんの側にいたかった……。会えないってわかってても、嘘がバレる可能性があっても、祐樹くんが側にいないことの方が怖かったから……」


 俺を想う言葉が、弱り切った声が、苦しそうな表情が。

 全てが俺の固く閉ざした心を激しく動揺させる。

 もちろん夏から信頼されていることは前からわかっていた。

 そんな彼女が別れを告げられてパニックを起こしてしまうことも。


 だが俺は知らなかった。

 涙を流してしまうほど、会えないとわかっているのに追いかけてしまうほど、彼女が俺を必要としていることを。


「……夏の言いたいことはわかった。でも、それでもだめなんだ」


 目の前の少女を抱きしめたくなっている自分がいることを自覚しながら、入った亀裂が広がる前に再び夏を突き離す。


「どうして……?」

「理由は言えないけど無理なんだ。もちろん夏は悪くないよ。悪いのは俺だ。でもこうしないと後で面倒なことになるから。だからごめん。何も聞かずに俺のことは忘れてくれ」

「嫌……」

「……そう、だよな。俺も夏を置いていくのは心が痛いよ。でもだめなんだ。俺は君の隣にはいられないんだ。だから……」

「絶対に嫌……」


 夏も頑なに自分の意志を曲げようとしない。

 当然、俺の焦りは次第に大きくなる。


「じゃ、じゃあもうわかった。こんなことはしたくなかったけど言うことを聞いてくれないなら仕方ない。俺は無視してでもいくから」


 こうなったらもはや手段を選んではいられない。

 喧嘩してでも、物理的に突き放してでも夏を諦めさせなければならない。

 最後ぐらいは綺麗に終わらせたかったが、このままだらだらいって夏のことを許してしまうよりかはマシだ。


 俺は有言実行するように夏に背を向ける。

 そして後ろから感じる気配から逃げるように駅の方へと歩き出そうとした。


 だがその時、誰かに左手を引っ張られたことで俺は半歩も進まないうちにまた足を止めた。


「……頼むよ、夏」


 何が起こったのかを瞬時に理解した俺は前を向いたまま、絞り出すように声を出した。


「あんなに楽しい時間を過ごしたのに、こんなところで諦められるわけないよ」

「そんなことない。君は俺が恋人だから側にいるのが当たり前だと思っているだけで、本音は別にある。そうだろ?」

「違う」

「違わない」

「違うって!」


 こんな子供じみた会話になるのはお互いに譲れないものがあるからだ。

 俺が必死であるように、夏も必死だった。

 でもそれなら俺はどうしたらよかったというのだろうか。

 どうしたら俺は自分の覚悟を最後まで貫き通せたというのだろうか。


「……そうか」


 そんな切羽詰まった状況の中、場違いにも一つの疑問が解消する。

 というよりも俺は多分、最初からわかっていたんだと思う。


「もちろんちゃんとした理由もあるよ」

「理由? どうせ俺に恩を感じてるだけだろ。でもそれは気にしなくていいって言ったよな? また忘れたのか?」

「だって私は」

「しょ、正直、迷惑なんだよ。こうやって付き纏われて。ほら、前に夏も言ってただろ。恋人として見れないって。隠してたけど俺もそうなんだよ。夏が別人になって……」

「祐樹くんのことが——」


 次に声に出そうとしていた言葉は口が動かなくなって出なくなって。

 今度こそ歩き出そうとしていた体は足が固まって動かなくなって。


 時間が止まった。


 今の状況はこの言葉が1番当てはまる。

 だから直後に俺が唯一働く頭を稼働させたのも必然だったのだろう。


 いつからなのか、きっかけは何なのか、ほとんどのことは覚えていない。

 ただ俺はずっと欲しかったものがある。

 どれぐらい欲しかったかと言うと、それが本物でも偽物でも貰えるならどちらでもいいと思えるくらい。


 まあ残念なことに今までそれは手に入らなかったのだが、驚くことにちょうど今手に入れることに成功した。

 欲しかったものだし、一長一短で手に入るものではなかったからその時の俺の気持ちはもちろん幸せだ。

 俺はそれを頭の中で何度も噛み締めて、何度も味わった。

 

 だがそうしているとなぜか幸せな気持ちと同じくらい複雑な気持ちが込み上げてくる。

 どれくらい複雑かというと、手に入れたそれを捨てようか迷ってしまうくらい。

 中々に奇妙な現象だが、そのせいで俺は心の底から欲しいと願っていたはずのそれを手に入れても素直に喜ぶことができなかった。


 そういえばそれを俺にくれた人も渡す際に何の躊躇もなかった気がする。

 今思えばその人も扱いの難しいそれを持て余していたんだと思う。


 ということは俺はそれを受け取るべきではなかったのだろうか。

 そもそも欲しいと願うべきですらなかったのだろうか。


 もちろん今の俺がいくら考えても答えには辿りつけない。

 もしかしたら今のこの状況が正解だった可能性もあるし、これから間違いが待ち受けてる可能性だってある。

 だからわからない。

 俺には何もかも。


 俺が欲しいと願ったそれはそんな得体の知れない厄介なものだ。

 そこに何か確かなことあるとすれば、それは恐らく一つだけ。

 決して驚くようなことではない。

 むしろ最初から分かりきっていたこと。


 それはとにかく俺がずっとそれを欲しくて欲しくてたまらなかったことだ。


 理由はわからないが、その事実だけは今も変わらず俺の心を満たし続けている。

 

「——好きだから」


 動き出した時間。

 唐突に始まった告白。

 その瞬間、忘れようとしていた感情が心の中でゆっくりと目を覚ました。


「やめてくれ……」

「だから私はここで諦めるわけにはいかない。祐樹くんが折れるまでこの手は絶対に離さないから」

「今さらなんだよ……。そんなの、おかしいだろ……」

「遅くなったことは祐樹くんに悪いと思ってる。でもせっかくこの気持ちを思い出せたのにこのままお別れなんて嫌だよ」


 俺は押し寄せる痛みに必死で抵抗する。


「だめなんだって……。そう何回も言ってるのに……。だからそれ以上はもう……」

「祐樹くん」

「……?」

「思い出の場所、また二人で行こ?」


 背中越しからでも伝わってくる夏の存在。

 その全てがいちいち俺の心に突き刺さっては、痛みを広げようとする。

 ここまま覚悟を捨てた方が楽なほどに。


「お喋りしながら、手も繋いでさ……。うん、そんなの絶対楽しいに決まってる。祐樹くんもそう思うでしょ?」

「だからやめてくれって言ってるだろ。俺にはわかる。どうせまた嘘をついてるんだ」

「うんうん、私は本気だよ。祐樹くんがどうしても信じられないって言うなら……」

「嘘だ。だって夏、俺のこと友達としてしか見れないって言ってたじゃんか。なのに今さらそんなこと言われたって俺は……」


 そう言いかけた直後、俺の左手が解放される。

 そしてその事実を頭の中で処理するよりも先に今度は俺の背中を柔らかい感触が包んだ。


「な、夏……」

「えへへ……。今ならキスも、できるかもね……。でもそれって変じゃないよね。だって祐樹くんのことが好きなんだから……」

「俺は……」

「だからさ、もうどこにもいかないでよ。明日も明後日もその先も、ずっと私の側にいて」


 夏のために夏から離れることと、夏のために夏の側にいること。

 どちらが正しいのかはわからないが、今わかることは俺たちの気持ちはようやく1つに重なったということ。


 もうどこを探しても偽りの恋人関係を必死で演じようとしていた彼女はいない。

 そこには俺のことを好きだと言ってくれた女の子が一人と彼女に惹かれている男がもう一人いるだけ。


 今まで俺を苦しませていた悩みを綺麗に溶かしたのはそんな単純な事実。

 そしてその単純な事実に気づいてしまったことがとどめだった。


「俺は……俺は……」


 こんなことになるならあのパン屋には並ばずに抜け出してくればよかった。

 夏の小さな体に包まれながら、そんなどうもならない言葉を心の中で呟く。


 苦しみが去った後に残ったのは背中から全身へと駆け巡る熱い感情。

 その熱さが痛みから心地よさへと変わってしまった時、遂に俺の答えは一つだけになった。


「俺も夏の側にいたい……」


 俺は彼女の手を取ってしまった。

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