第37話

 夏がそう言いかけた直後、俺は右手に持っていた携帯の電源ボタンを押した。

 画面がゆっくりと暗転していき、それと同時に夏の声も途中で聞こえなくなる。

 電源が入っていないのでもちろん次の電話はかかってこない。


 つまり俺の方から夏に電話をかけない限り、あれが俺が彼女から聞く最後の言葉だったということだ。


「これでいいんだ」


 駅がある方向へ歩き出した俺は再びそう呟く。

 結局俺は夏と話してみても距離を置くという意思が変わることはなかった。

 むしろ最後に別れの言葉を伝えることができたせいで、どこか吹っ切れたような感情さえも抱いている自分がいる。


 このまま夏を置いて帰ることが正解なのかは未だにわかっていないが、最後に電話に出たことは恐らく正解だったんだと思う。

 今の夏についても暫くの間は混乱してしまうかもしれないが、その日が来たら嫌でも理解するだろう。 


 だからこれでいいんだ。

 理屈という面でも、感情という面でも、夏と俺を縛り付けていた柵はもうなくなってしまったのだから。


「——いらっしゃいませー。クリスマスキャンペーンやってまーす」


 ようやく夢のような時間から普通の日常へと心置きなく戻ることができる。

 そう思っていたところに不意にそんな声が耳に届いた。

 クリスマスという言葉が気になって声の方に振り向いてみると、そこには久保田が紹介していた夏のお気に入りのパン屋があった。


「これは……」


 そこでさらに俺を驚かせたのは店の前に客の列ができていたこと。

 数え切れるほどではあるが、ここまで人気の店だとは知らなかった。

 確か前に来た時もそれほど繁盛していなかったはず。


 というのも俺がこの店に来るのは今日が初めてではない。

 夏とまだ恋人だった頃に一度だけこの店に連れてきてもらったことがあり、当然その時の印象もそれほど人気のない寂れた店というものだった。


 ちなみに夏がこの店のチーズパンが好きだったこともその時に知った。

 一緒に食べたこともあるのでどんな味なのかも知っている。

 もちろん今となっては何の役にも立たない記憶だが。


 そんなくだらないことを頭の中で考えながら店を見つめていた時、突然誰かに肩をたたかれる。

 慌てて振り返ると、そこにいたのは店の制服を身に纏った見知らぬ女性だった。


「あのー、お兄さん……って、すっごくがっかりしてそうな顔……!」

「え、いや、俺はそんなつもりじゃ……」

「まあいいです。それより気になるならメニュー表をどうぞ。待ち時間に見てください。あ、列の最後尾はあちらですからね」


 呆気に取られていると、女性店員からメニューが書かれた紙を渡される。

 察するにどうやら俺は彼女に買い物に来た客と思われてしまったらしい。


「すいません、俺は別に……」

「どうぞどうぞ」

「いやだから……あ、はい」


 そのあとすぐに誤解を解こうとしたが、俺はその女性店員からのプレッシャーに負けて情けなくも同意の返事をしてしまい、言われるがままに行列の1番後ろに回った。

 目の前にはもちろん10人程の人の列が行く手を阻むように並んでいる。

 見ているだけで憂鬱になってくるが、ここまできて列から出るのは流石に罪悪感を感じるので俺は止むを得ず順番を待つことにした。


「クリスマス、どこいく?」

「悩むなぁ」


 特にすることもないので大人しく列で待機していると、俺の一つ前に並ぶ男女の仲睦まじい会話が聞こえて来る。

 話題はまたしてもクリスマスに関すること。

 一年に一度のイベントが明後日に控えているということもあり、最近は人も街もうんざりするほどそれ一色に染まっている。


 まあこの情緒漂う雰囲気に浮き足立ってしまったり、寒さを忘れてはしゃいでしまったりするのはおかしなことではない。

 実際、一年前のこの時期は俺もそうだった。

 だから俺がクリスマスという言葉に対してこんなにも過剰な反応を示してしまうのにはちゃんとした理由がある。


 それはクリスマスが俺と元恋人の夏にとって忘れられるはずのない特別な日だったから。


 もし俺たちが恋人のまま今日を迎えていたとしたら、明後日は付き合ってちょうど一年目の記念日になる。

 つまり一年前のクリスマスの日、俺は記憶を無くした夏とも訪れたショッピングモールで彼女に告白した。



「夏のことが好きだ。だから俺と……付き合ってください……」


 イルミネーションに照らされながら俺は自らの気持ちを打ち明ける。


「うん、私も祐樹が好き。だから……よろしくお願いします」


 優しく微笑みながらそう答えた彼女。

 気づくと俺たちは人目も憚らずに抱きしめ合っていた。



 奥底にしまっていたはずの記憶がクリスマスという言葉をきっかけに鮮明に、そして残酷に浮かび上がってくる。

 もちろんこの映像だけなら特に何かを思うことはなかった。

 何度も言うが夏との恋人関係を終わらせたのは俺が自ら望んだこと。

 その過程も決して感情任せなものではなく、何日も悩んで、何度も好きだった気持ちを探して、その上で選んだ道だ。


 それでもこの映像を見て胸の苦しみを感じてしまうのは恐らく、俺の頭の中にはまだもう一人の夏が存在するからなのだろう。

 彼女のことを忘れると心に誓ったのはついさっきのこと。

 にも関わらず数分も経たないうちにその誓いを破って感傷に浸っている自分が少し笑えてくる。


 ただその上で俺は言いたい。

 できることなら今の夏とクリスマスを過ごしたかったし、一年前に見たあのイルミネーションを見せてあげたかった。

 その思いは今でも俺の中に存在する、と。


「いらっしゃいませ!」


 物思いに耽っているとようやく俺の順番が回ってくる。

 まだ何を注文するのかを決めていないことに気づいたのはその時だったが、考えている暇もないので俺は頭の中で一番最初に浮かんだ映像に従うことにした。


「えーっと……」

「……?」

「それじゃあチーズパンを1つ……」

「かしこまりました!」


 暫くして商品が入った紙袋を受け取る。

 そして店員の女性に小さくお礼を言ってから俺はそのパン屋を後にした。


 ここから少し奥に進むと久保田との待ち合わせに使った駅が見えてくる。

 余計な時間を過ごしてしまったが、これで後は数分後にやってくる電車に乗って帰るだけだ。

 ここまで来たら引き返そうなんていう気は起きない。

 さっきも言ったようにこれがお互いにとって最良の決断だ。


「……じゃあな、夏」


 最後にもう一度別れの言葉を呟く。

 そして全てを終わらせるために一歩を踏み出した。




 ———その時だった。


「祐樹」

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