第36話
俺はついさっき通ってきた道を歩きながら、まだ僅かに混乱している自分の頭に言い聞かせるように「これでいいんだ」と呟く。
今の俺の状況は一見すると、夏と夏の友達の輪の中から居ても立っても居られずに逃げ出してきたという風に見えるかもしれない。
実際あのまま俺が3人の側に居続けていたとしたら、間違いなく動揺は膨れ上がり続けていつかはパンクしていただろう。
だが今の俺の状況はそれとは少し違う。
どちらかと言えば逃げ出したのではなく諦めて受け入れたという方が正しいかもしれない。
なぜなら俺は明日以降を含めてもしこれから夏と2人きりの時間が作れたとしても、彼女とはもう二度と会わないと決めたから。
つまり何が言いたいのかというと、俺は夏の記憶が戻る前にこの偽りの関係に終止符を打つことにした。
あれだけ苦労して夏と仲を深めて、久保田の言葉にも耳をかさなかった俺が今になってどうしてそんな選択をしたのか。
そもそも動揺が広がり続けていたことと夏から距離を置くことに何の関連性があるのかという疑問もあるだろう。
だがそれらの疑問は少し考えれば簡単に解決する。
だって夏はもう一人じゃないから。
今の夏には久保田と北見がいる。
たとえ最後が最悪な終わり方だったとしても一人で途方に暮れる夏を手助けしてあげたいと、そう思っていたあの時とは状況が変わった。
夏の記憶を取り戻すために俺が無理して彼女の側にいる必要はもうない。
今までのように偽りの恋人関係を無理やり押し付ける必要も、傷つけてまで俺との思い出の場所を巡る必要も。
そのことに気づいたのは中庭で3人の会話を聞いていた時。
もっと具体的に言えばありもしない未来を期待している夏を見てしまった時だ。
言葉では上手く説明できないが、そこで俺の心の中にある何かが崩れ落ちた。
そしてそれがトリガーになり、そこからすぐに俺は夏のことを諦めてその場を後にした。
これがここに来るまでの経緯。
客観的に見たら決断を急ぎ過ぎている気がしなくもないが、皮肉にも大学を離れてから動揺は収まりつつあるのでこれが正解だったんだと思う。
ただわかっていてほしいのは夏のことが嫌いになったとか、未練がないとか、そういう理由で距離を置こうとしているわけではないということ。
むしろ俺の中にはまだ夏と同じ時間を過ごしていたいという気持ちは残っている。
それは今まで俺と夏が過ごした日々を考えれば当然のことだろう。
なのに俺がここまで一度も振り返ることなく歩いてこれたのは、この行動が夏のためになると確信しているからだ。
今の夏にとっても、その後の夏にとっても、この気持ちは足枷にしかならない。
だからたとえ本心は別だとしてもこんなところで立ち止まるわけにはいかなかった。
俺が今するべきことは一つ。
振り返らずに前に進むこと。
今さら恐れる必要なんてない。
その先には本来俺がいるはずだった日常があるだけだ。
いつかは必ずやって来る夏のいない当たり前の日常が。
俺は自分にそう言い聞かせた後、重い足にさらに力を入れた。
だがその時、タイミング悪く俺の携帯に電話が入った。
中井 夏
今頃なんのために。
最初に頭に浮かんだその疑問は思ったよりもすぐに解決する。
よく考えたら夏は俺が大学からいなくなったことを知らない。
夏たちと別行動になってから結構な時間が経っているので、心配した彼女が電話かけてくるのは当然の流れだった。
なら次に俺が考えなければならないことはこの電話に出るのか出ないのか。
もちろんさっきまでの話を繰り返すなら出ない一択だ。
突然の夏からの電話で心が揺らいでいるのは事実だが、それだけで俺の覚悟は揺るがない。
ただ無視するという選択はそれはそれで躊躇いがある。
夏の言い分も聞かずに黙って姿を消したことを今になって無責任さを感じ始めている自分もいるから。
もしかしたら彼女はこのまま俺が出るまでずっと電話をかけてくるかもしれない。
それこそ記憶が戻って全てを知るまでの間ずっと。
そうこうしている内に1度目の電話が鳴り止んだ。
そして予想通りその後すぐに2度目の電話がかかってきたところで俺はようやく決心する。
別に覚悟を曲げるわけではない。
ただ言い忘れたことを伝えるだけだ。
一言さよなら、と。
もちろんそれで夏が納得してくれるかはわからないがそれぐらいなら許されるはず。
最後まで迷っていたが、結局俺はその電話に出ることを選んだ。
『あ、祐樹くん!?』
懐かしさすら感じるその声を聞いた俺は、電話に出たことを少しだけ後悔した。
『やっと出た! 全然連絡来ないから迷ってたらどうしようかと思って心配してたんだよ!』
「悪い、何回もかけてきてたのに。思ったよりバイトの電話が長引いちゃってさ。でもさっき終わったよ」
『そうだったんだ。よかった、迷子になってなくて。でもそれならはやく合流しないと。今まで電話してたったことはまだ中庭の近くにいるよね? 待ってて。私がそこまで行くから』
「いや、来なくていいよ」
俺の言葉に夏は『え?』とわかりやすく狼狽える。
「中庭で夏達と別れた後に色々考えたんだけどさ、記憶を取り戻す手伝いは久保田と北見に任せた方がいいと思うんだ」
『ど、どうして』
「夏もなんとなくわかってるだろ。俺がいなくても夏の友達のあいつらなら上手くできる。そしてそこに俺がいたら邪魔になるだけだ」
『祐樹くん……』
「だから来ないでくれ。もしそれでも来ようとしてるならこれだけは言っとく。無駄だぞ。今は大学を出て駅に向かってる途中だから夏がここに来る頃には俺はもう電車の中だ」
彼女に聞き分けがない場合を除いて、これで急にいなくなった俺を探し回るかもしれないという懸念はなくなった。
だが1番の問題はここからだ。
『そっか……。ごめん、私のせいだよね……。2人と話すばかりで何もしてあげられなかった。私、祐樹くんを傷つけてばっかりだね……。今日は本当にごめん。でも明日は……!』
「うんうん、そうじゃないんだ。今日もだけど、明日も明後日もその先も、記憶を取り戻す手伝いはあの2人に任せることにしたんだ」
それは俺が夏に向けて読んだ、もう2度と会うことはないという意志を伝える絶縁状。
その始まりの部分だ。
『え? ど、どういうこと? そんな急に……どうしてなの?』
「……なんかもうめんどくさくなってさ。わざわざ行ったことのある場所を回るのも、夏を騙してまでこの関係を続けるのも」
『だ、騙す?』
「うん。夏は俺のこと傷つけてるって言ってたけどそれは違う。本当は俺が夏のことを傷つけてるんだ。だって俺たちは本当の恋人じゃないから」
『え、えっ?』
夏はまだ俺の話を飲み込み切れていないのか、意味ない単語を発し続ける。
だが今はもう夏がどう思っているかは関係ない。
「いつか夏もわかるよ。だから今はとりあえず久保田たちを頼ってくれ。そしたら全部上手くいくから」
『な、何を言ってるの? 訳がわからないよ……。冗談、だよね?』
「冗談じゃないよ。ここで俺たちはお別れだ。一応もう一回言っとくけど、追いかけてきても無駄だから。じゃあな、夏。結構楽しかったよ」
『ちょ、ちょっと待って祐樹くん。話を……』
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