第35話

 久保田が指差した方向に目を向けると、そこには周りの住宅を見下ろすほどの大きな赤い外壁の建物と、それを厳重に囲む黒い柵が堂々と構えていた。


 駅から歩くこと僅か数分。

 ちょっとしたトラブルもあったが、遂にその時が来た。


「……ほんとだ。あれがそうなんだね」

「今のうちにしっかりと目に焼き付けてね。あそこが私たちの出会った場所だよ」


 今日の目的の場所でもあり、三人が出会った場所でもあり、記憶から消えてしまった思い出の場所でもあるそこは三人が現在も通う大学。

 俺の目にはどこにでもある普通の校舎にしか見えないが、それを見つめる彼女は少し大袈裟に感じるぐらいの真剣な表情を浮かべる。

 さらにそこで俺が悪い意味でドキッとしたのは、それが何かある時の反応だったからだ。


「うん。なんだか今までで一番面影みたいなのを感じる気がする。関係あるかはわからないけど、ちょっと頭痛もするし」

「えっと、それは記憶が戻る前兆ってことでいいの? 期待できそうなのは嬉しいけど無理だけはしないでよ。疲れてるだけかもしれないし」

「疲れか。確かにそうだね。心配してくれてありがとう、華奈。じゃあ出来るだけ無理はしないようにするよ」

「で、出来るだけって。私が言いたいのはそういうことじゃなかったんだけどな……」


 夏の回答を聞いた久保田は偶然にも俺と同じように頭を抱える。

 だがそんな俺たちの不安を余所に夏の視線はずっと入り口の方に固定されていた。


「心配しすぎなんだって、久保田は。これはチャンスかもしれないんだぜ?」

「それは私もわかってるけど……」

「なら時間も勿体ないしさっさと行こうぜ。なあ、中井もそう思うよな」

「……うん」

「健太も夏も考えてなさすぎるんだよ……」


 俺や久保田と違ってどこかこの状況を楽しんでいる様子の北見。


「もういい、わかった。とりあえず中に入ろっか」


 結局最後は久保田が北見に押し切られる形で三人は大学へと歩き出した。

 後ろにいた俺も久保田がこちらを気にする素振りがないことを確認してから敷地の中に足を踏み入れる。

 何事もなく進んでくれ。

 そう心の中で願いながら。


「……思ってたよりもずっと広いね。一人で来てたら絶対迷子になってたよ」


 門の奥から飛び出してきた四方八方を埋め尽くす校舎を見て、夏はいつもの調子で感想をこぼす。


「俺も初めて来た時はそんな反応だったな。実際、迷子になったし。そういう時は中井に助けてもらってたっけ」

「ちょっと。思い出を懐かしむのはいいけど、そんなんでちゃんと案内できるの? すっごく不安なんだけど……」

「大丈夫大丈夫。中井と一緒に行動してた場所でいいんだろ? それなら覚えてるし。最初はそうだな……勉強会を開いた場所とかどうだ?」

「お、おお……。健太にしてはやるじゃん。ここ二、三週間はテストが近づいてたせいでずっと入り浸ってたからね。そこなら夏も思い出しやすいんじゃないかな。夏はどう思う?」


 こういう些細な情報からも思い出すきっかけを得られるかもしれない。

 多分そんな気持ちで久保田は夏に話を振ったのだろう。

 しかしどういうわけか夏は悩む仕草を見せるどころか返事すらしようとしない。


「夏?」

「……え、私?」

「これからの予定を考えてたんだけど……どうしたの、あっちの方をずっと見つめて。もしかして何か気になるものでも見つけた?」

「あっ、いや、大したことじゃないの。ただあそこだけ人が多いなって思って」


 夏はそう言って芝生が広がっているスペースを指差す。

 確かにそこには他の場所よりも不自然に人が多く集まっている。


「あー、あそこは中庭だからね。誰でも使える溜まり場みたいなところだよ。でもいいところに目をつけたね。実はあそこも思い出の場所に入るんだよ」

「そうなの?」

「空き時間に座り込んでみんなで会話したり、待ち合わせに使ったり。ああいう何気ない所にも思い出はたくさん詰まってる。そうだ、気になるなら寄ってみる?」

「別に気になったわけじゃないんだけど……でも、うん。もう少し近くで見てみたいって気持ちはちょっとだけあるかも」


 夏のその一言で次の目的地が急遽、中庭に決まった。

 とは言えすでに視界の中に入っている場所。

 何回か足を入れ替えるとすぐに見えやすい場所に着いて、夏はさっきと同じような姿勢で中庭を見つめ始める。

 ドキドキしながら夏の反応を待っていると、先に隣にいた二人の口から感想の声が聞こえてきた。


「最近まではここで中井とくだらないことを話すのが普通だったのに、なんか今じゃ懐かしく思えてくるよな」

「そうだね。実際は一週間程度なのにすごく長い時間離れてたみたいに感じる。でももしあのとき仲直りしてなかったらほんとにそうなってたんだよね」


 ホッとした表情を浮かべながらあの時のことを振り返る久保田に北見は楽しそうに笑いかける。


「あの時の久保田は大学生とは思えないくらい頑固だったからな。まあ手を焼かせられるのは今に始まったことじゃないけど」

「ちょっとやめてよ健太、恥ずかしい。私だって反省してるんだから。でもそれを言うなら健太だって泣きそうになってたじゃん。どうしよー嫌われたーとか言いながら」

「お、おい。それは言わないって約束だろ……」


 いつのまにか友達同士の軽い言い合いが繰り広げられていた。

 その浮ついた空気感に俺は思わず気が抜けそうになったが、直後に夏が「ねぇ、二人とも」と反応を見せたことでこの場にいた全員が向き直った。


「どうした、中井」

「1つ、聞いてもいい?」

「おう。俺らに答えられる質問ならなんでも答えるぞ」

「間違ってたら申し訳ないんだけど、華奈と健太はその……恋人同士なの?」


 久保田と北見は意表を突かれたように「え……?」と同時に声をあげた。


「……その反応、もしかしてあってた?」

「いや、ないないない、絶対ない! 健太とはそんな関係じゃないから!」

「そ、そうだぜ中井。久保田と俺は仲の良い友達ってだけで全く恋人なんかじゃないぞ」

「男女だからそう見えても仕方ないけど、本当に私たちはただの友達だから!」


 ようやく状況を飲み込めたのか、久保田と北見が早口で弁明しだす。

 その時の二人の慌てようは凄いもので、見ているこっちが恥ずかしくなってしまうほどだった。

 だがそれもそのはず。

 夏が冷静に口にしたのは全員が注目していた中庭に関することではなく、久保田と北見の個人的な関係という突拍子のないものだった。


「そうだったんだ。じゃあ私の勘違いだったんだね。ごめん。よく一緒にいるし男女で仲が良さそうだったからそう思って」

「私と健太が仲良いのは高校からの友達だったからだよ。その繋がりで三人でよく遊ぶようになったの。だから高校の時も今も私と健太に恋愛とかはないから」

「そうそう。他の友達よりかは仲がいいってだけだよ。いやー、でもびっくりだな。俺たちが関係を疑われるなんて」

「ほんとにね。私たちにそんなの、あるわけないのにね」

「だな……」


 夏の誤解は解けた後も二人の間には微妙な雰囲気が残ったまま。

 さっき何かが起こるかもしれないと言ったが、これもそれに入るかもしれない。

 そんな嫌な空気を感じ取っていると、夏がこの場が静まり返る前に再び口を開いた。


「それとごめん。最初は一つって言ったけどやっぱりあともう一つだけ聞いておきたいことがある」

「ま、まだあるの?」

「うん。また記憶を取り戻すのに関係ないことを聞くかも知れないけど、二人は記憶を無くす前の私のことをどう思ってた?」


 さっきほど突拍子のないものではなかったが、また釈然とはしない質問だ。

 自然と警戒心が強まる。


「どう思ってたって、夏のことを好きか嫌いかってこと? そんなの友達なんだから大好きに決まってるじゃん」

「俺も久保田と同じだ。って言うか当たり前だろ、そんなの。中井のことを知ってて好きじゃないって方がおかしいぜ」


 二人が戸惑いながらも夏の質問に答えると、夏は納得したような表情を浮かべる。


「さっきからどうしたの、夏。もしかしてまだ何か夏の中で引っかかってることがあるの?」

「そうなのか、中井」

「うんうん、そういうことじゃないの。むしろ今は大丈夫だって思ってる。ただ……」

「ただ?」

「ほんとにちょっと確認しておきたかっただけだよ。記憶を無くす前の私は周りとちゃんとうまくやれてたのかなって」


 それを聞いて、他の二人が何を思ったのかはわからない。

 言葉に詰まっていたから、もしかしたらまた動揺していたのかもしれない。


 ただこの中で少なくとも俺だけは確実に動揺していなかった。

 いや、正確に言うなら動揺はしていた。

 でも同時にある程度の冷静さも持っていた。

 この動揺と今までの漠然とした胸騒ぎが綺麗に繋がったから。


「そういうことか……。なんて言ったらいいのかわからないけど、私たちが思ってるより記憶を失うのが大変なんだってことはわかった」

「私が優柔不断なだけかもしれないけどね。みんなから嫌われてたらどうしようって、そう考えたら大学に行くのも躊躇っちゃって。最初は記憶を思い出すのも怖かったくらいだもん」

「中井……」

「でもね、今は違うの」


 冷静さを失わなかった俺の頭にそんな弾むような声が流れた直後、夏が俯き気味だった顔を上げる。

 その瞬間に現れた彼女の二つの瞳。

 そこには久保田と北見がいた。

 嘘をついている俺ではなく、夏のことを本当の意味で想う友達の二人が。


「華奈も健太も優しくていい人だから全然怖くない。むしろ今は記憶を取り戻すのが楽しみになってるの!」


 満面の笑みでそう語った夏と、そんな夏を優しげな表現で見守る久保田と北見。

 何の汚れもない3人だけの世界。

 それは夏と上手くやれていなかったどころか関係さえもとっくに終わってしまっている俺には絶対に用意できない場所であり、俺みたいな嘘つきが居てはいけない場所。

 そして俺の目が写した偽りのない光景だ。


「よし、じゃあ俺は約束するよ。記憶が戻るまで出来る限り手助けする。それから記憶が戻った後も中井を絶対に悲しませたりしない」

「じゃあ私も。今の私たちの言葉にはまだ説得力はないかもしれないけど、私たちは絶対に夏を裏切らないからね」

「ありがとう、二人とも。最初からわかってたことだけど、ちゃんと言葉で聞けて安心したよ。ほんと、みんながいてくれてよかった」


 久保田から接触があったわけでも夏の記憶が戻ったわけでもない。

 今みたいな記憶をなくした弊害のようなものを何度も目の当たりにしていて、その度に重く受け止めはするものの、記憶を無くした夏のためという理由をつけてのらりくらりとかわしてきた。

 そんな俺が見守るつもりだった三人から目を逸らしたのはこの時だった。


「うふふ、こんなこと夏が記憶喪失じゃなかったら恥ずかしくて言えないけどね」

「ごめん、いきなり変な質問して。目的からも脱線しちゃったし」

「全然大丈夫だよ。でも夏が満足できたならそろそろ記憶探しを再開しよっか」


 話に一区切りついたところで久保田がそう切り出すと、夏は迷わず首を縦に振る。


「そうだね。ここはもう一通り見終わったし。次の場所は確か勉強会を開いた場所だったよね?」

「そう言えば途中で終わってたな。あそこを見てくれ。あの隙間から建物が見えるだろ? ここからちょっと遠いけどあの中にあるんだ」

「見えた見えた。あそこだね。じゃあさっそく記憶を取り戻しに行こう。華奈、健太。あともちろん祐樹くんも」


 夏が動き出す前に声をかけてきてくれたが、俺は動く気になれなかった。

 夏はそんな俺を見て不審に思ったのか、わざわざ足を止めて俺の方に体を向けた。


「祐樹くん?」

「……悪い。ちょっと急用ができたから先に行っててくれ」

「え、急用?」

「うん。電話がかかってきててさ。バイト先からだから無視できないんだ」


 俺は右手に持っていた携帯を夏に見せる。


「それなら電話が終わるまで待ってようか?」

「いや、長くなりそうだから気にせず行ってくれ。終わったら連絡するから」

「そう? じゃあわかった。私たちは先に見て回ってくるね」

「うん、気をつけて」


 俺は夏が余計な心配をしないように笑顔で見送った。

 その後、三人は北見を先頭に次の思い出の場所へと歩みを進める。

 徐々に遠ざかるその背中が建物の中に完全に消えたのを確認した俺は、耳に当てていた携帯を無言のままポケットにしまう。


「……ごめん、夏」


 俺はそう呟いた後、来た道を戻り大学を後にした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る