第33話
ようやく答えを出した久保田はよく見ると目に涙を浮かべていた。
「……ほんとはね、記憶喪失のことを健太から教えられた時、すっごく怖かったの」
「怖かった……?」
「だって辻褄が合ったから。夏が私に怒ったことに。夏のことを認められなかったのも悪いのは私だったかもしれないってそこで気づいてたから」
久保田は夏の話を信じたことで自分の心に素直になれたのか、心の底にしまい込んでいた本音を包み隠さず曝け出し始める。
「……そうだったんですか」
「うん。でももう逃げない。私も夏が悪いって決めつけて酷いこと言った。夏は優しいままの夏だったのに。だからこれだけは言わせて。私も、気づいてあげられなくてごめん」
「なら私は信じてあげられなくてごめんなさい。本当はあの夜から友達なんじゃないかって心のどこかではわかってたんです。なのに確信が持てなくて。それどころか記憶が戻ったらどうにかなるだろうって見て見ぬふりをしました」
「……そうだったんだ」
「でもだからこそ私も同じです。ずっと怖かった。何もかも忘れたせいで誰かを信用できないことも、気づかない間に周りの人を傷つけてることも」
俺も初めて聞く夏の本音はいつもより僅かに震えた声で紡がれる。
今までの会話からして結果はもうすでに決まったようなものだったが、俺も彼女を見習って気を抜かずにその時を待つ。
「それが今の夏なんだよね。こんなにも簡単なことならもっと早くこう言う会話をしておけばよかった。そうすればあんなことにはならなかったのに」
「そうですね。あんなことになるのはもう二度とないようにしたいです。だから改めて聞かせてください。こんな私のことを許してくれますか?」
「……敬語、やめてよ」
「え?」
夏の口から出たのは驚きを示す短い言葉。
しかしそれはなんとなく、期待のような感情も含まれていたように思う。
「敬語だとすごく余所余所しい感じがするから……。だって私たち友達でしょ……?」
「そ、そうですね……! あ、うんうん。そうだね。友達だよね。えーっと、とりあえずまずは名前、聞いてもいい?」
「そう言えばまだ言ってなかったね。久保田
「うん、華奈。もう絶対に忘れない」
夏がそう言った直後、久保田は夏の側まで駆け寄っていきその体を躊躇なく抱きしめた。
夏も嫌がる素振りを見せずそれに精一杯応える。
辛いのはどちらも同じ。
ここまで来るのに本当に苦労したが、二人がわかり合うにはそんな単純な事実だけで十分だった。
そこで俺は大きく息を吐く。
これこそが俺たちの求めていた光景。
つまりこの瞬間、裏で進めていた夏と久保田を仲直りさせる計画がようやく実を結んだ。
「……夏は今、大変な状況なんだよね」
「うん、そうだね」
「なら今さらって思われるかもしれないけど私、夏の手助けがしたい。夏の力になれるなら何だってするから」
目的が達成されて後は解散するのを待つだけ。
そう思っているのはもちろん俺だけで、二人の会話は一向に終わる気配を見せない。
それどころかさらにそこに北見も参加する。
「もちろん俺もそのつもりだぜ。あと俺も敬語は使わないでくれると嬉しい」
「ありがとう華奈、それから健太。なら困ったことがあったら遠慮せず伝えるね」
「まだ記憶喪失のことについてよく分かってないけど、今悩んでることとかはないの?」
「それは大丈夫。日常生活で苦労するようなことはそんなにないし、記憶の方は祐樹くんのおかげで戻りかけている状態だから」
「あー、そう言えば池野と記憶を取り戻すために思い出に残ってる場所に出かけてるんだったな」
「池野……。ふーん、そうだったんだ」
余韻に浸る三人になかなか解散するタイミングを見出せないでいると、不意に会話の中で自分の名前が出てくる。
もはや考えなくてもわかることだが、膠着していた状況が動き出したのはそんな時だった。
「それならこの後まだ時間あるし私たちも出かけてみない? その思い出の場所ってところに」
久保田からの思いがけない提案。
それに夏が顔を
「お、いいなそれ。俺らでしか思い出せないこともあるかもしれないし」
「そうだよね。問題はどこに行くかだけど……うーん、こういうのって結構悩むね。夏はどう思う?」
「え、あ、私……? 私は……」
「ん? どうかしたの、夏」
「なんて言うか……ごめん。すごく言いづらいけど私、今回は二人とは行けない」
夏の言葉に二人は困惑した表情を浮かべる。
「ど、どうして? もしかして私たちと出かけるのはまだ抵抗があるの?」
「そうじゃないの。実はこのあと別の人と出かける予定があって」
「別の人……。それってもしかして……」
「うん。祐樹くんと昨日から約束してて。だから本当にごめん」
夏の言った通り俺たちの間には、目的を達成した後に二人で思い出の場所を巡るという約束がある。
だから俺はこの場が解散されるのを心待ちにしていたし、夏も久保田から差し伸べられた手を快く握ることができない。
そうなると必然的に話題の中心になるのは断る原因を作った俺だ。
「……わかった。それならさ、私たちもそれについていっちゃダメかな?」
「も、もちろん私はそれでもいいよ。でも祐樹くんが……」
「多分それは大丈夫だと思うよ。だって夏がいいって言ってるんだし。だよね?」
俺との約束を反故にしろと言わなかっただけ大人なのか、無茶な要求をした時点で大人気ないのか。
とにかく敵対心を孕んだその声は確実に俺に向けられている。
「……そういうことならもちろんいいよ。っていうかそれなら俺は今日はいいかな。夏のことは二人に任せる」
本当は限られた時間を夏と二人で過ごしたいが、それをそのまま伝えたところで久保田が納得するとは思えないし、下手をすればいつかのような不毛な言い争いに発展してしまう可能性もある。
だからここでの感情を抜きにした正しい選択は俺が大人しく譲ることだけだった。
「それって池野は来ないってことだよな? ほんとにいいのか。二人で行こうって昨日から約束してたんだろ」
「いいって言ってるだろ。俺がいたら邪魔になるだけだし。それに今日に拘らなくても明日以降も時間はまだあるしな」
「おいおい、そんなこと言わずに池野も行こうぜ。俺は気にしないし。なあ、久保田もいいだろ?」
「いや、俺が気にするんだよ。だから三人は気にせず……」
俺はそう言いかけて、途中でやめた。
「行こうよ、祐樹」
二人が仲直りできてようやく俺も落ち着けると思っていたが、その名前を呼ばれた瞬間、心臓の音が跳ね上がるように大きくなる。
「ごめん、すごく違和感あるよね。敬語はそろそろ変えようと思ってたけど、祐樹くんは祐樹くんの方がしっくりくる気がする」
「……うん。俺もそっちの方がいいかな」
「じゃあ祐樹くんは祐樹くんで。こう言ったら祐樹くんが断れないってわかってて言うけど、私は来て欲しいな。そうじゃないと今日記憶が戻ったら私、きっと後悔すると思うから」
きっと後悔する。
俺が久保田に向けて放った言葉を今度は夏が俺に向かって言い放つ。
「……わかってるなら言うなよ」
「うふふ。やっぱりダメかな?」
「いや、ダメってわけじゃないけど……」
「じゃあ来てくれる?」
冷静に考えたら行くべきではない。
それは自分が一番わかってる。
しかし夏本人からの頼み、残り僅かな時間、昨日の約束、そして今の気持ち。
そういう大事にしたいものが積み重なってしまえば話は違う。
「……わかった。そこまで言うなら俺も行く」
「ほんと?」
「ああ。そっちの二人もいいだろ。夏がこう言ってるんだし」
「……まあ、そうだね。でも行き先に関しては私が決めるから」
「もちろんそれで文句はないよ。でもどこに行くか迷ってなかったか」
「さっき決めたの。私たちの通ってる大学。見慣れた場所だし、ここから近いからすぐに行けるし問題ないでしょ」
俺には全く関係ない場所だが、確かに通っている学校を見に行くのは記憶を取り戻すのに効果的かもしれない。
そう感じたのは俺だけでなく、夏や北見も同じだったようだ。
「おー、いいんじゃないか。毎日通ってた大学なら思い出すことも多いと思うし」
「うんうん。私も学校にはそろそろ行こうって思ってたから賛成」
「じゃあ大学で決まりだね」
ということで仲直りの目的を果たした俺たちは、そこから久保田と北見を入れた四人で思い出の場所へと向かうことになった。
具体的な場所は俺以外の三人が今も通う学校。
ここまで来たら俺が行く必要性とか危険性は一旦置いておく。
それよりも考えなければならないのは今日を無難に乗り切ることだ。
夏は上手く馴染めたようだが、残念ながら俺はそうはいかない。
久保田から何らかの接触があることはほぼ確定だろう。
その時の会話によってはまた状況が振り出しに戻ってしまう可能性もあるので、そこでの俺の対処の仕方が重要になってくる。
「祐樹くん、行くよ!」
夏に呼ばれて俺は一足遅れて歩き出す。
今はとりあえず久保田の動向に注意しつつ、目立たないように心がけることが得策だ。
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