第32話

 最初は状況が飲み込めずにいた久保田だったが、北見、夏、そして俺へと視線を移していくにつれて目の中から光が消える。


「ちょっと待って健太。意味わかんないんだけど。解散したからって電話で言ってたよね?」

「それに関しては謝る。見た通り電話で言ったことは嘘だ。でもわかってくれ。これは久保田のためなんだ」

「わかるわけないでしょ。私のため? 夏のための間違いじゃないの。わざわざ歩いて来たけどこんなことならもういい。私は帰る」


 久保田は夏と一言も言葉を交わさないまま背を向けようとする。

 だがそれを見越していた北見が動き出す前に彼女の腕を掴んだ。


「せっかくここまで来たんだから話だけでも聞けって。落ち着いて話せる場所に移動して……いや、別にここでもいい。時間も一分くらいでいい。だから頼むよ、久保田」

「健太と違ってこっちは夏と仲良くする気なんてない。だからもう放っといて」

「大事な友達が喧嘩してるのを見て放っとけるわけないだろ。俺はお前が素直になるまで諦めるつもりはないからな」

「それはそっちの都合でしょ。お願いだから余計なことはしないでよ」


 久保田は北見の話を聞いても尚、その手を振り払おうとする。

 予想を裏切ってほしい気持ちはあったが、北見が言っていたように現状では久保田は夏と仲直りする気はないらしい。


 まあだからといって諦めるわけではない。

 こういう状況になることがわかっていたからこそ、嘘をついてでも夏を連れてきた。


「あ、あの……!」


 どんよりとした空間に夏の覚束ない声が響く。

 その瞬間、二人の注目が一気に夏に集まった。


「久保田さん、ですよね。私、本当に反省してるんです。記憶を無くしたとはいえあんなに酷いことを言ってしまって。後で何度も後悔しました」


 さっきまで騒々しかった久保田だが、夏が話し始めると黙って耳を傾け出す。

 それを見た夏はさらに言葉を続ける。


「久保田さんが私を許せないのも当然です。あんなことになったのも私のせいです。それは自分でもちゃんと理解してます」

「……」

「でも出来るなら久保田さんと仲直りしたいです。友達じゃないって言ったことも取り消したいです。あの時は本当にごめんなさい」


 夏が口にした誠心誠意の謝罪の言葉。

 聞いてもらうことすら出来ない可能性のあったそれが最後まで久保田の耳に届くのを俺はこの目で確認した。

 あとは心に届いたかどうか。


 俺を含めた三人が固唾を飲んで見守る中、久保田は閉ざしていた口をゆっくりと開け始める。


「……そう。そんなに私と仲直りしたいんだ」

「はい。私は本気です」

「もういいよ、夏」

「よくないです。私は許してくれるまで何度だって謝ります」

「いや、そういうことじゃなくて大丈夫だから頭を上げて。心配しなくても私、怒ってないから」


 久保田はさっきまでの態度が嘘のように、夏を見据えてそう言った。


「ほ、ほんとですか?」

「ほんとだよ」

「後で嘘だったってならないですか?」

「ならないよ」

「よかった。本当によかった……。私の言葉は届いたんですね。それじゃあ……」

「……うん。夏のことなんてなんとも思ってないし、もうどうでもいいから」


 久保田はそう言った後、振り返って歩き出した。

 まるで近所の公園を散歩でもするような軽い足取りで。


 俺はその一連の動きがあまりにも自然すぎて何が起きているのかわからなかったが、直後に聞こえてきた北見の声で遅れて気づく。


「ちょっ、久保田! 本当にそれでいいのかよ! メッセージで見ただろ。記憶喪失だって。俺も疑ってたけど本当らしいんだ。だから話だけでも聞いてやってくれ!」

「健太も聞いてなかったの。もういいって何度も言ったでしょ。健太には悪いけど、これが私の答えだから」

「だからこんなところで頑固になってんじゃねーよ! お前も本当はわかってるんだろ? これが意味のない喧嘩だって」


 北見がいくら呼びかけても久保田の返事が変わることはない。

 言葉はないが、少しずつ遠ざかっていく背中が彼女の意思を代弁している。


 もちろんこうなったのは北見のせいでも夏のせいでもない。

 夏の心からの訴えも、北見の粘りの説得も、やれることは全てやった。

 その上で失敗したということは、二人には気の毒だが認めるしかない。


 久保田は夏を突き放す選択をした。


「おい、ほんとにお前はもう……」

 

 その声を最後に北見は口を閉ざす。

 それに対して夏はまだ足掻こうとしているのか視線をずっと俺の方に向けている。

 どうにかしてくれ。

 そんな表情を浮かべながら。


 確かにこの状況で何かを変えれるとしたらまだ何もしていない俺だけだ。

 他人の言葉が届くかどうかはさて置き、やるだけやってみることはできる。

 その上で無理なら仕方ないと言い訳もできるだろう。

 だが今までの三人の会話を聞いていた俺の考えは違った。

 記憶を失う前の夏、あるいは記憶を取り戻した夏にとって久保田と仲直りすることが本当に最良の結果なのか、と。


 仲直りを提案した俺が言うと無責任かもしれないが、俺が夏の立場ならここまで突き放された態度を取られていると知った時点で久保田との仲直りは望まないだろう。

 むしろ信じてくれない友達はこちらから願い下げだと言って自ら手を離してしまうかもしれない。

 もし仮にそれが俺の思い込みじゃないのなら、ここで無理して久保田を説得することは全くの無意味になる。


 そんな俺がここで仲直りする必要がないと考え直すのはおかしなことだろうか。

 今の夏ももしかしたらそれを望んでいるのではないだろうか。

 もちろん考えても答えは出ない。

 でも一つだけ確かなのはそう考えれば考えるほど久保田にかける言葉が見当たらなくなったこと。


 俺はそこでようやく夏に視線を合わせた。

 もう諦めるしかない。

 そんな表情を浮かべながら。


「……夏?」


 その時、夏と目が合った。

 俺の方から見つめ返したからそうなるのは当然だが、俺が言いたいのはそういうことじゃない。

 最初は仲直りに乗り気ではなかった夏。

 そんな彼女が今では崩れそうな表情になりながら、必死にこの状況をどうにかしようと踠いている。

 まるで久保田のことを本当の友達だと思っているみたいに。


 つまり俺の目には夏の姿が記憶を無くした夏としてではなく、記憶を無くす前の元恋人として映っていた。

 そしてそんな彼女がたった今、俺に向かって助けを求めている。


 その事実が俺の意識を変えたことは言うまでもない。

 気づくと俺は諦めかけていた心を奮い立たせてもう一度頭を動かしていた。


 夏と久保田の関係、そして現状。

 赤の他人から見た久保田という人間。

 知り合いでも友達でも北見でも夏でもない、俺だからこそ出来ること。

 もし俺と久保田が友達だったら俺が彼女にかけていただろう言葉。

 それらを重ね合わせて辿り着いた一つの答え。


 そこからは本当に一瞬だった。


「後悔するぞ」


 その声に久保田は足を止めて、顔だけをゆっくりと俺の方に向けた。


「……何?」

「後悔するって、そう言ったんだよ」


 言葉の意味を理解した久保田は当然、不満そうな顔を浮かべる。


「何でそんなことあなたに言われなきゃいけないの。元はと言えばあなたのせいでこうなったんでしょ?」

「そうだよ。だから俺のせいで夏にもお前にもこれ以上辛そうな顔をしてほしくないんだ」

「辛そう……? そ、そんなわけないじゃん。他人のあなたに何がわかるって言うの。適当なこと言わないでよ」

「わからない。二人がどんな関係だったのかも、友達と喧嘩することがどんなことなのかも。でも最近、似たような経験はしたよ」


 久保田はさらに不満を表すように眉を顰める。

 だがそこで同時にわかりやすい動揺を見せたことで俺は確信した。

 彼女の中にはまだ夏への気持ちが残っていると。


「その子を突き放して俺は後悔して……ないと思う。何回探しても空っぽだったから。でもお前は違うだろ。まだ夏への気持ちは残ってるはずだ」

「さ、さっきから何が言いたいの。意味わかんないんだけど」

「じゃあ手遅れになる前にもう一回よく考えてくれ。もしこのまま仲直りせずに帰ったらお前らは二度と元の関係には戻れないかもしれないんだぞ」


 さっきまで平静を装っていた久保田がそこで完全に落ち着きをなくす。

 俺はそれを見てさらに畳み掛ける。


「それでもいいなら俺は止めない。けど嫌なら意地を張ってないで夏の話を聞いてやってくれ。夏がまだお前と仲直りする気がある内に」

「そんなの……」

「お前だって心の中では仲直りしたいって思ってるんだろ。だから今も俺の話を無視せずに聞いてるんじゃないのか」


 この言葉は何も今を指すだけのものではない。

 久保田と俺たちが出会ってから今までの全てに当てはまるもの。

 久保田にその気がなければ、俺たちを無視してそのまま帰ったはずだと。


「わ、私は……」

「どうなんだよ。俺の言ってることは間違ってるか」

「私だって……」

「聞こえない。もっと大きい声で話してくれ」

「私だって本当は」


 わざとらしい煽りに徐々に声から覇気がなくなっていく久保田。

 そしてそれが俺の最後の言葉になった。


「私だって辛いよ……!」


 久保田の声が三人の間に響き渡った瞬間、その場を包んでいた絶望感のようなものが嘘のようになくなった。 


「夏、あなたは一体誰なの?」


 久保田がそう問いかけると、夏は慌てることなく口を開く。


「私は私です。中井夏です。でもあなたの記憶はありません」

「私と話したことも、二人で出かけた場所も、そこで笑い合ったことも何もかも忘れちゃったってこと?」

「はい。全て忘れました」


 久保田は苦悶の表情を浮かべる。

 だが彼女はそこで憤ることも疑うこともなくさらに質問を続けた。


「何でそのことをすぐに教えてくれなかったの」

「本当に仲のいい友達なのか見ただけじゃわからなかったからです。記憶喪失のことは親しい人にしか話すつもりはなかったので」

「じゃあ何で急に私たちに話す気になったの」

「夏さんのために伝えたかったからです。友達じゃないって言ったのは本心じゃないって、私と違って夏さんはみんなに愛されていたままの人なんだってことを」


 久保田の想いに応えるように夏も自らの想いを切実に告白する。

 これで久保田の心が動かないならもう仲直りは諦めるしかない。

 俺はその覚悟で二人のやりとりを見届ける。


「……そっか。わかった」

「これで記憶喪失のこと信じてもらえますか?」


 久保田は顔を俯かせる。

 そして数秒の沈黙を作った後に再び意を決したように顔を上げた。


「……変わらない」

「え……?」

「記憶を失っても変わらない。夏は私の大好きな夏のままだよ」

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