第28話

 今の自分の気持ちをわかってもらいたい一心でその言葉を投げかけると、夏はまるでわかりきったことを話す時のように生真面目な顔を浮かべる。


「お互いに好きな気持ちがあるならきっと今の私とじゃなくても戻れますよ」


 俺の悩みも、俺たちに起こっている問題も何一つ知らない彼女が口に出した言葉。

 それは誰もが思いつきそうな一般論で、記憶を取り出すまでの短い時間に対する彼女の個人的な考え方が知りたかった俺にとっては欲しかった言葉ではない。


 でも俺はその夏の声で紡がれた夏らしい言葉を聞いて以降、彼女にしつこく追及をすることはなかった。


「……そうだよな。うん。なんか難しく考えすぎてたけど夏の言う通りだ。本当に好きだったらいつでもあんな風に純粋に笑えるよな」

「そうですよ。祐樹くんもあんな風に口を大きく開けて笑えば……あ、でもさっきあの子たちにキスしようとしてたの見られてたかもしれないです」

「まじか。そう言えば今まで気づかなかったけど、よく考えたらここ砂浜のド真ん中じゃん」

「あ、ほんとだ……」


 自然と笑い合う場面だが、夏はそこで控えめな微笑みを向けてくる。


「……キス、途中で終わっちゃいましたね」

「そうだな。どうする、今からやり直すか」

「いえ、今はやめておきます。ごめんなさい、私から誘ったのに」


 申し訳なさそう言った夏に対して俺も小さな微笑みで返した。


「うんうん、大丈夫だよ。よく考えたらキスをすることが恋人の証ってわけじゃないし、焦ってすることでもなかったな」

「そうですね……。このままじゃダメだって、どうにかしなくちゃって思いが段々強くなって。祐樹くんの言う通り私、焦ってました」

「そんなに思い詰めなくてもいいよ。夏が俺のことを好きになってくれたらその時でいいから。それまでは手段の一つって考えとこう」

「はい。本当に申し訳ないんですけど今は祐樹くんの優しさに甘えさせてもらいます。でも祐樹くんのことが好きじゃないってわけじゃないですから、そこは勘違いしないでくださいね」

「保留だろ。ちゃんとわかってるよ」


 恋人という関係がまだよくわらない夏との2度目のキスも結局、失敗に終わった。

 でも俺はそれでよかったと思っている。

 あの時キスをしていた結果よりも、キスをしなかった今の方が二人をいい方向に連れて行ってくれるような気がしたから。


「そんなことよりも今は綺麗な海にいるんだ。楽しまないと損だよな」

「そうですね。なら砂浜沿いを散歩しませんか?」

「見ているだけなのも飽きてきたしそうしようか」


 俺たちは波が来ないぎりぎりの場所を見つけてそこに移動する。


「この辺りでいいか」

「はい。でも歩き出す前にちょっといいですか?」

「どうした」

「海で遊べないのは残念ですけど、手で触るぐらいならいいですよね」


 夏はそう言って押し寄せた波の表面を少し撫でた。


「冷たっ……」

「ははっ、冬の海なんだから当たり前だろ」

「手がかじかんで痛いです……。あ、でもここから海を見たら底の方まで見えますよ」

「わかったわかった。ここからでも十分見えてるから。だからあんまり前には行きすぎるなよ」

「わかってますよ、って……あっ!」


 俺の忠告も虚しく、夏が悲鳴を上げた時にはすでに彼女の靴が波に乗りあげているところだった。


「あーあ、だから言ったのに」

「さ、最悪です……。祐樹くん、私の鞄からタオルを出してくれませんか。どう言うわけか右手が濡れてまして」

「はぁ、全く……」


 反省の色が見えない彼女に呆れながらも、俺は鞄の中にあるタオルを取り出して夏に手渡す。


「ありがとうございます。でも靴が濡れてるせいでちょっと歩きにくいです……」

「さっきからしょうがないやつだな……。ほら、手出して」

「手?」


 何が始まるのか分からずあたふたしている夏を余所に、俺は彼女の手を握った。


「あっ……」

「流石にもう恥ずかしいとか言うなよ?」

「わ、わかってますよ。もうハグもしてるんですから。でも……」

「でも?」

「どうしてわざわざ左に回ったんですか?」

「あー、右手はちょっと嫌かなって」

「もう!」


 もしあの日、俺が遅刻せずに来ていればこんな未来もあったのかもしれない。

 そんな何とも言えない言葉を心の中で一度呟いてから、俺はいつかは途切れて進めなくなる砂浜を夏と並んで歩き出した。


「祐樹くん、あそこ何か動いてませんか? もしかしたら生き物かもしれませんね。見失う前に見に行きましょう」


 俺は今日、夏への気持ちに気づくことができた。

 記憶を無くす前の夏を裏切る行為だとわかっていても止められなかったこの想いに。

 もちろんそれは後から自分の一歩通行な想いだったということがわかったのだが、幸いにも彼女は俺のことを恋人だと思っているので、何をしなくても俺が望む関係でいられる。


 キスの件だって結果的には失敗したが、あの時間は確実に俺たちの中途半端な関係を前に推し進めるものだったと思う。

 だから俺はこの状況へ自ら飛び込んできたことに後悔も不安も感じていなし、何なら最悪の結末を迎えてしまったとしても自業自得としか思わないだろう。


 ただだからこそ俺は一つだけ疑問に思うことがある。

 俺が唯一できることは少しでも長い時間を彼女と共に過ごすこと。

 そしてそのためにはこれまで通り嘘を隠し通しながら彼女の記憶を取り戻す手伝いをしなければならない。

 つまり何が言いたいのかというと、この関係にはいつか終わることが決まっていて、俺は自らこの関係の終わりを早めている立場にある。


「祐樹くん」

「……ん?」

「石が転がってるだけでした!」


 そんな矛盾した旅で俺は一体、何を探しているというのだろうか。

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