第27話

 自然の音に掻き消されてしまいそうな程の小さな声で一度だけ囁かれた言葉。

 それは思考を失いかけていた、あるいは放棄しかけていた俺を一瞬で現実に引き戻す。


「ダメ、ですか……?」


 そこでようやく気づいた。

 と言いたいところだが、俺は本当はずっと前からわかっていた。


 ショッピングモールの帰り道に成り行きでハグをすることになったあの時から。

 もしくは夏の知り合いに俺たちの本当の関係がバレそうになった時に、打ち明けるのではなく隠すという選択肢を取ったあの時から。

 つまりわかっていた上で気づかないふりをしてきた。

 なぜならそれが自分の中にあってはならないものだったから。


 だがここまで来たらもう気づかないふりはできない。


「……ダメじゃない」


 俺は多分、記憶喪失になった今の夏のことが気になっているんだと思う。

 記憶を無くす前の夏ではなく、記憶を無くした後の夏だけを。


 そう言えば聞こえはいいが、結局のところは俺が飽きて捨てた元恋人の顔を持つ女の子にまた興味を持ち始めているということ。

 どちらにしろその感情が持ってはいけないものだということに変わりはないし、夏を記憶喪失になる前後で分けることが歪で最低な考え方だということも変わらない。

 それは痛いほど理解している。


 だがそれだけのものを背負った上で俺は目を背け続けることができなかった。

 記憶喪失になる前の夏では決して得ることのできなかったこの暖かい何かからは。


 それが元恋人にキスを無理やり迫ろうとしたことや、自分のことを好きになりきれていないという事実に動揺したことの原因。

 さらには彼女からの提案を断ることができなかった理由。


「祐樹くん」

「ん?」

「いつでもいいですよ」


 不意に聞こえてきた夏の声。

 それは俺がはっきりとした返事をしなかったことですぐに空気と混ざり合って消える。

 俺たちが今いるのはそんな言葉を交わさなくても分かり合える二人だけの世界。


 ただ今回は冷静さを失っていないからなのか一度目の時と違って夏の顔がよく見える。

 それによって俺にまで何か変化が現れるということはないが、彼女以外の全てが少しずつぼやけいくこの現象は妙にリアルだった。


「夏……」


 背景が完全に青色になったのをきっかけに夏の名前を呼ぶ。

 彼女がそれに応えるように真剣で、でもどこか力の抜けた瞳を真っ直ぐ俺に向けてきたらここからは前の流れと同じ。

 お互いの体温を知るために手に触れ、さらに今回は少しでも安心してもらうために髪を撫でる。

 そうすることで夏は目を閉じるから、あとは自分のタイミングで唇を合わせにいくだけ。


 あの時のように途中で考えを改めることはない。

 それこそ元恋人の顔や、キスをすることで後戻りできなくなるという事実が頭をよぎっても。

 それが俺の覚悟であり、彼女との本当の恋人としての証が欲しいという願望でもある。


 だから俺は目を閉じる。

 そして今だけは記憶を、過去を、未来を、嘘を、全てを飲み込んでこの儚くて心地の良い時間の流れにそっと身を委ねた。


「……って」

「……」

「待って」


 俺は夏のその声で慌てて目を開ける。


「や、やっぱり無理だったか?」

「違うんです。見られるかもしれないから……」

「見られる?」

「後ろ、人が来てるんです」


 夏にそう言われて素早く後ろを振り返ると、そこには制服を見に纏った二人の男女がちょうどこの砂浜に入ってくる姿があった。


「ほんとだ……。高校生くらいの子たちかな」

「そうみたいですね。それに二人で来てるってことは私たちと同じで恋人同士なのかも」

「どうだろう。でも手を繋いでるってことはそういうことなんだろうな」


 手を繋いではしゃぐ微笑ましい姿や、海を見て驚く姿はさっきまでの俺たちと同じだった。


「なんて言うか恋人なら当たり前かもしれないけど、楽しそうだな」

「そうですね。ただ並んで歩いてるだけなのにすごく幸せそうです」

「うん。慣れてないって言うか初々しさが残ってるって言うか。なんとなくだけど一緒にいられるだけで嬉しいって感じが伝わって来て……」

「祐樹くん、どうしたんですか」

「いや、なんか懐かしくてさ」


 キスをする途中だったことを考えたらこんな話をしている場合ではないのかもしれない。

 でも終わることなんて頭の片隅にも無いような綺麗さで笑い合う二人と、夏を好きだった頃の思い出が重なって見えたせいで俺はその光景から目を離すことができなかった。


「祐樹くん……」

「あ、別に夏を責めてるわけじゃないんだ。説明が難しいけど、一年も付き合ってたら流石に落ち着いてくるっていうか……。むしろ慣れてないって意味なら今は違うんだよ」

「今は?」

「ほら、俺たちって夏が記憶喪失になってからまだ三回しか遊んでないだろ。それってあの二人の関係に似てると思わないか?」


 恐らく彼女は俺が記憶喪失になる前の夏が恋しくなっていると思っているのだろう。

 もちろんそれは彼女の勘違いなのだが、その事実をそのまま伝えるとさらに誤解を招くことになってしまうので、俺はそうやって少し表現を変えて説明する。


「確かに……。でも私から見たら祐樹くんはいつでも大人っぽく見えます」

「大人っぽく? いやいや、そんなことないって。俺だってさっきは緊張してたし」

「そうだったんですか? うーん、じゃあやっぱり私はまだ祐樹くんのことをちゃんと理解できていないんですね」

「いや、そこまで否定してるわけじゃないけど……。まあでもそうだな。俺もまだ肝心なことは何も言えてない気がする」

「それこそ出会ったばかりですからね。だから祐樹くんこと、これからももっと教えてくださいね」


 夏が早くに理解を示してくれたことで、思っていたよりもすぐに逸れた話を元に戻すことができる状態になった。

 だが会話が噛み合っていない気がしたのと、この話に漠然と興味が湧いてきたのとで、俺はもう少しだけこの話を続けてみることにした。


「だったら俺も夏のことを知りたい」

「私のこと? うふふ、祐樹くんはもう私のことは知ってるでしょ?」

「そうだな……。そう捉えるのが普通だよな……。よし、なら言い方を変えるよ。今の俺たちだったら、あんな風に戻れるかな」

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