第26話
俺たちは休憩を挟んだところからさらに五分ほど歩く。
「あれ、また行き止まりだ。おかしいな。地図にはちゃんと道が表示されてるのに」
「多分こっちじゃないですか? ほら、あそこが通れるみたいですよ」
「あ、ほんとだ」
雨宿りの場所から奥は初めて通る道。
そのせいで何度か道に迷いそうになることがあったが、こうやって夏の力も貸してもらうことで着々と海岸に近づいていた。
「この先にある海のことを想像しただけでなんだかドキドキしてきました」
「そうだな。けどもうすぐ着くからってあんまり一人で先に行かないでくれよ。ここら辺の道はまだ完全に整備されてないみたいだし」
「わかってますよ。でもそれなら祐樹くんも気をつけてくださいね。ちょうどその辺りに小さな段差があったので」
「えっ」
最後まで気を抜いてはならないと夏に注意を促した直後に、何かに足を引っ掛けて転びそうになる。
恥ずかしくなった俺はそこで抗議しようと思ったが、「伝えるのが遅くなってごめんなさい」と謝りながら小さく笑い始めた夏を見ると、ため息をつくことしかできなかった。
「……今度こそもうすぐだ」
そんな一幕がありながらも気を抜かずに殺伐とした道を降っていると、周囲にポツポツとあった建物がいつの間にか見えなくなる。
つまりそれは今日の最終目的地である砂浜のある海がすぐそこまで来ているということ。
その事実に浮き足立つのを抑えられない俺と夏はそこで一度、視線を合わせる。
そうやって心の足並みが揃っているのを確認した俺たちはさらに一呼吸置いた後、再び足を動かし始めた。
そして———
波が打ちつける音。
柔らかい砂を踏みしめる感触。
潮の匂い。
何より扉のように聳え立つ2つの岩崖に挟まれた小さな砂浜の奥に広がる光景。
「ここだ……」
「わぁ、すごい……」
濃い青の海の上を水平線を挟んで続く淡い青色の空。
それを縁取るように覆う上空の雲と遥か遠くの方にある霞がかった雲。
それらがグラデーションを描くように一体となったこの光景はまさに絵画そのもの。
さらにその絵画は今にも混ざり合いそうな二つの異なる広大な世界を穏やかに、そして見事なほどに美しく共存させていた。
「綺麗だな……」
もちろん俺にとってここはただ綺麗なだけの場所ではない。
それでも俺がこの景色から目を逸らさずにそんな素直な感想を口にすることが出来たのは、この海を見ることを誰よりも楽しみにしていた夏が隣にいたから。
喧嘩をしたせいで見ることのできなかったこの景色を本当に俺は見にきてもよかったのか。
別れを告げたせいで見ることなどもうないと思っていたこの景色を夏は今も見たいと思っているのか。
そんな不安に苛まれても、隣にいる夏が今どんな反応をしているのかという想像を膨らませただけで嘘みたいにその不安は安心に変わる。
だから俺がこの海を純粋に楽しめるのは記憶を無くした夏が隣にいてくれたおかげだった。
そしてそんな俺が今一番気になっているのはもちろん自分の反応よりも夏の反応だ。
目をキラキラさせてはしゃいでいるのか、それとも口をぽかんとあけて驚いているのか。
とにかくあれだけこの砂浜のある海に来ることを楽しみにしていた彼女なら俺とは違ってきっと面白い反応を見せているはず。
「夏、どうだ」
この光景を目に焼き付けたそのすぐ後に俺は、期待を持って夏がいる方に目を向けた。
「……やっぱり、すごく綺麗ですね」
夏が口にしたのはごく普通の感想。
それに俺が一瞬、言葉を詰まらせてしまったのはそこで見た彼女の表情が予想していたどの表情でもなく、まるで見たくないものを眺めているようなそんな儚い印象を与えるものだったから。
「夏……大丈夫、なのか」
「大丈夫? 何のことですか?」
「いや、なんていうか夏がここに来れたことを本当に喜んでるのか心配になってさ……」
「それはもちろん喜んでますよ。またここに来ることができて良かったって思ってます」
「またって……。夏、君は……」
やはりさっきまでとは様子が違う。
何より今の発言。
自然と胸の鼓動が速くなる。
「さっきからどうかしたんですか、祐樹くん」
「気のせいだったらごめん。君は夏なのか?」
「はい? もちろん私はずっと私ですよ?」
「そうじゃなくて今の君は記憶が戻っている方か、記憶が戻っていない方かどっちの夏なのかって話だよ」
噛み合わない会話に嫌気がさした俺は核心を突く言葉を放つ。
だが彼女はそれを聞いても表情を一切変えなかった。
「えーっと、勘違いしてるかもしれませんが、記憶はまだ戻ってないですよ」
「え……?」
「あ、正確に言うと海を見に行ったことは何とか思い出せましたけど」
「海を見に行ったことって……。それは本当なんだろうな……?」
「こんなところで嘘をつくはずがないじゃないですか」
記憶がまだ戻っていない夏目線から見たら、嘘をつくのが何の意味もないことだというのはもちろん俺もわかっている。
でも記憶が戻ったことで全てを知った夏が気まずくなるのを避けるために、あえて知らないふりをするというのは全然あり得る話。
それに夏が海を見ている時に見せたあの表情も見間違いではなかったはずだ。
「本当の本当に戻ってないんだな? 俺に隠そうとしてるとかじゃなくて」
「どうしてそんなに疑うんですか。しかも戻ってない方を」
「だ、だって海を見てる時に寂しそうな表情をしてただろ? まさかあれも俺の勘違いだっていうのかよ?」
「だからそれも気のせいですって。何度も言いますけど、私が思い出したのは懐かしさみたいなどうでもいいことだけですよ」
そこで俺は再び言葉を詰まらせる。
「ど、どうでもいい……?」
「あ、どうでもいいは言い過ぎたかもしれません。でも私の思い出したいことも、思い出さないといけないことも、結局は思い出せないままだから」
次から次へと流れてくる情報に、俺の頭は遂に処理が追いつかなくなる。
「ちょっと待ってくれ。一回頭を整理させてくれ。結局全ての記憶は戻らなかったんだよな?」
「はい」
「そ、そっか。それはわかった。じゃあ夏が言ってる思い出したいことって……。もっとわかりやすく説明してくれよ」
「私、雨宿りをしていた場所で祐樹くんに抱きしめられた時にキスされると思ったんです」
「は?」
情報の処理が追いつかないまま、それでも夏の話は進んでいく。
「もちろん恋人だから素直に受け止めようと思ったんですけど……できなかったんです」
「できなかった……?」
「どうしても抵抗感のある自分がいて。結局最後は祐樹くんを傷つけないようにって身を任せることしかできなくて」
「ああ……」
「祐樹くん」
記憶喪失になって失うのもは記憶だけではなく、その人に向けていた気持ちも含まれる。
そんなことは最初から知っている。
だから見落としていたわけではない。
ただ勘違いをしていた。
「好きな気持ちって、こんなに簡単に忘れられることなんですね」
夏の言っている思い出したいこととは恋人である俺に抱いていたはずの恋心。
そしてそのどうでもよくない事実はさっきまで呑気に海のことを考えていた俺の目を覚まさせるには十分すぎるものだった。
「夏の思い出したいことはつまり、俺を好きな気持ちってことだよな」
「そうです」
「それじゃあ夏は今まで俺のこと、好きだと思ってなかったってことだよな」
夏が記憶を取り戻すことさえ出来れば二人の関係がギクシャクしていても問題ないということはもちろんわかっている。
記憶喪失になった今の夏が俺のことを恋人として見ていなかったという事実を知っても傷つく必要なんてないことも。
「ごめんなさい。ここに来る前は祐樹くんのことを好きなんだって思ってましたけど、それはまだ中途半端なものだったみたいです」
「中途半端なものって……」
「酷いですよね。恋人なら一番に思い出さなくちゃいけないことなのに。私もこんなことで祐樹くんを苦しませたくなかったです」
別れてから一週間が経って夏の中に俺への気持ちが残っていなかったとしたら、それはもう思い出すことのできない感情だということはもちろん理解している。
彼女の無邪気さを、彼女の優しさを、彼女がたまに見せる大胆さを、好意だと勘違いしていた事実を知っても傷つく必要がないことも。
「でも祐樹くんと過ごした楽しい時間は絶対に嘘じゃないから……。だからもう一度チャンスをもらえませんか?」
「チャンス……?」
「もっと祐樹くんのことを知るために、そしてもっと祐樹くんのことを好きになるために……」
夏はそう言いいながら海を遮るように俺の前に立った後、続けてこう言った。
「ここで私とキスしてくれませんか?」
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