第25話

 なんとなく頭に思い浮かんで、なんとなく声に出したその言葉は当然そのまま隣で俺を心配そうに見つめる夏に伝わる。


「えっ?」


 その直後に彼女の口から零れ落ちたのは言葉に変わる前の動揺。

 その時点ではまだ事の重大さに気づいてなかったが、何度か口に出した言葉を頭の中で読み返していくにつれて遂に自分も言ってはいけない言葉を口走しっていることに気づく。


「待って、今のは……」

「ど、どういうことですか……?」

「今のはなんでもない、わけじゃないけど……。どうして俺は……」


 なぜ俺はあんな発言をしてしまったのか。

 なぜ俺はそれを頭で理解するよりも先に口から出してしまったのか。


 そんなどこからともなく浮かんでくる疑問を解決しても、今から慌てて口を塞いでも、あの言葉を取り消すことはできない。

 その事実が夏と同じかそれ以上の動揺、あるいは混乱や焦りといった一言では言い表せない感情を俺の胸に溢れさせ、さらには正常な判断力を奪っていった。


「あっ」

「わっ」


 突然、目の前に迫ってきた顔に驚いて反射的に出た二人の声。


「ご、ごめんなさい。ぶつかりそうですね……」

「ああ……」

「と、とりあえず退きますね……」


 そこで起きたのは慌てて夏の方に向けた俺の顔と元々俺の方を向いていた夏の顔が至近距離で向かい合うという、なんとも空気を読めない事故。

 だがその事故のもう一人の被害者である夏は狼狽えるような姿を見せつつも、俺から距離を開けるために落ち着いて体を横に傾けようとする。


 普通に考えれば俺と彼女が至近距離で見つめ合う時間はそこで終わるはずだった。


「あれっ、祐樹くん?」


 ついさっきまでは確かに俺から遠ざかろうとしていた夏の体が、まるで何かに引っ掛かったように途中で動きを止める。

 一見すると不思議な現象にも見えるそれは、夏が一番最初に俺の名前を呼んだことですぐに原因を明らかにした。


「て、手を離してくれないとこのままじゃ動けないです……」


 夏が震える声で主張したのは、自分が動けないのは俺に触れられているのが原因だということ。

 それとあり得ない話だが、俺は今ちょうど夏の細い腕を力強く掴でいる。


「ど、どうしたんですか祐樹くん……」

「……」

「どうして何も言ってくれないんですか……」


 自分の行動がこうも立て続けに状況を悪くしていくわけも、自分がどうしてそんなわけのわからない行動を取ろうと思ったのかもわからない。


 ただ俯瞰して見ていた光景が徐々に自分の視点に置き換わっていく過程で一つわかったのは、鼻先が触れそうなくらいの距離で見つめ合うというこの状況を今度は俺が意図して作り出していること。

 もちろん夏はその後すぐに俺から視線と顔を逸らしたが、俺はそんな彼女の姿を見ても、自分の中に潜んでいた衝撃の感情を知っても、何故か掴んだ腕を離そうとする気持ちが少しも起きない。


 それどころか、一時の気の迷いはそこからさらに加速していく。


「夏」


 真剣な声で名前を呼ぶと、夏は逸らしていた顔を少しだけ俺の方に向ける。


「祐樹くん、ちょっと近すぎませんか……。さっきのは退こうとしただけで転びそうになった訳じゃないですよ……」

「……知ってる」

「じゃ、じゃあこれって……。あ、嫌じゃないんです。だけどびっくりしちゃって」

「……」

「さ、さっき言ってたのも私の聞き間違いじゃないんですよね……?」


 嫌でも耳に入ってくる夏の戸惑ったような声。

 それに俺がまた聞こえないふりをしたのは、別に都合が悪くなったからというわけではない。

 たださっきも言ったように今は正常な判断力も、夏の疑問にいちいち答えている余裕も自分の中にはなかったというだけ。


 そして俺の態度に痺れを切らした夏がゆっくりと視線を動かし始めたタイミングで、俺は魅入っていた彼女の瞳から視線を下へと落とした。


「あの……」


 目に見えて瞬きの回数を増やしていく夏を置き去りに俺の視線が辿り着いたのは、この一年間でなんとなく目にしていた彼女の鼻先。

 だが俺にとってはその場所もまだ通過点に過ぎず、俺の視線はそこからさらに下へ下へと進んでいく。

 そしてその視線が彼女の唇に差し掛かったところで急激にスピードを落とし始めた時、ようやく今までの俺の行動が全て線で繋がった。


「これって……」


 恋人同士がこの状況になったらすることは一つ。

 それを夏も自分なりに察したのか、徐に空いていた口を塞ぐ。

 もちろんそれだけではまだ彼女が受け入れる覚悟をしたかどうかの判断までは出来ないが、今の俺たちは偽りでも恋人。

 今からすることに対してわざわざ彼女の許可を取ることも、拒絶されるかもしれないという心配をすることも全く必要ない。


 もし必要なものがあるとするならばそれは最後にもう一度自分の意思を確認することだけ。


「祐樹くん……」

「……今は、恋人だ」


 そう言い聞かせることで無理やり自分を納得させた俺はそこで遂に目の奥に捉えた彼女の唇に向かって少しずつ顔を近づけていった。


 その距離僅か数センチ。


 この頃になると騒がしかった夏の瞬きはようやく終わりを見せ始め、数秒後には瞼が迷子になっていた視線を完全に呑み込む。

 それを見たことで生まれた緊張から僅かな冷静さを取り戻した俺も、自然と今からすることに対して疑問のようなものを抱くことはなかった。


「んっ……」


 触れるまであと少し。


 夏の背中にゆっくりと腕を回す。

 そこで俺が感じたのは、ショッピングモールの帰り道で彼女と抱き合った時に感じたものと同じ。

 五感が受け取る情報はちゃんと記憶をなくす前の夏の時と変わらないのに、俺の心だけはあの時と違って満たされた気分になる。

 まるで俺が俺じゃないみたいに。


 もしくは今向かい合っている夏が夏じゃないみたいに。


 あと少し。


 夏の呼吸が俺の肌に届く。

 それはつまり俺の呼吸も夏の肌に伝わっているということ。

 その証拠に夏は体を一度ビクッと震わせた後、少しだけ口元を窄めた。


 あと少し。


 一番近くて一番遠い残りの一歩を踏み出すために記憶を、過去を、未来を、嘘を、全てを飲み込んでこの流れに身を委ねる。


 そして最後に俺は目を閉じた。


 あと———




「夏」

「あっ、えっ……」


 再び動き出した時間。


「ありがとな、心配してくれて」

「ど、どうして……」


 俺が耳元で囁いたその言葉でようやく自分の身に起こったことを理解したのか、緊張で強張っていた身体が徐々に和らいでいく。


「祐樹くん、私……」

「嫌だったか?」

「いえ、そうじゃなくて……」


 あれだけ受け入れるような体勢を取っていた夏が、今になってどうして状況を飲み込みきれていないような態度を取るのか。

 その理由は至って簡単で夏の唇に向かって進んでいた俺の顔が、触れ合う直前で急に方向を変えて彼女の肩の上を通過したから。


 つまり今は唐突に求めたキスを受け入れてくれたにも関わらず、結局俺がキスをせずに夏を抱きしめることしかしなかった直後の状況だ。


「祐樹くん、本当にどうしちゃったんですか……」

「どうしちゃったんだろうな」

「それは言いたくないってことですか」


 偽物の恋人にキスをされる今の夏がかわいそうに思ったからなのか、唇が触れる直前に記憶を無くす前の夏が今の夏と重なって見えてしまったからなのか。

 そもそもどうして俺は元恋人である彼女にキスをしようとしたのか。


 どう足掻いてもこの状況が俺にとっても理解し難いものであることは今も変わらないし、夏の言葉通りそのことについて考えることや説明することを躊躇っている節があるのも事実。

 だから俺はこれ以上夏との関係に入った亀裂を広げないために、自分が今一番しなければならないと思う行動を取ることにした。


「さっき言ったことだけどさ」

「言ったこと……?」

「記憶が戻らなかったらってやつ」


 俺の言葉に夏はあまり動揺を見せない。

 その理由はおそらく俺にぶつけてきた疑問の中にそのことも含まれていたからなのだろう。


「なんて言うか、俺ってここに来るの二回目だろ?」

「に、二回目……」

「そう。だから俺もあの日のことを思い出さなかったら夏みたいにもっと楽しめるのになって思ってたんだ。ほら、夏も電車で言ってただろ。感動が薄れるって」


 結局、それっぽい言葉を並べて誤魔化すことを選んだ俺は口走ってしまったあの言葉の意味を説明する。


「た、確かにそう言いましたけど……」

「それと同じ。まあだからこそ今から行く海はちゃんと楽しめると思うからそこは安心してよ。それに今ので結構元気出たし」

「そ、それは本当なんですか……」

「うん。本当だよ」


 今さらこんなありきたりな話を聞かせても、ただの言い訳としか思われないだろう。

 だがもしそうだったとしても今の夏なら俺に気を遣ってそれほど深く聞いてくることはないはず。


「そこまで言うならわかりました」

「納得してくれるのか?」

「はい。今は祐樹くんを信じようと思います。ただ……」

「ただ?」

「いつかは聞かせてくださいね」


 戸惑うような声でもなく、疑うような声でもない、いつもの夏の声によって紡がれたその言葉はほぼ俺が望んでいた通りのもの。

 だからもちろん俺は夏に向かって自然に出た笑顔を浮かべながら頷いた。


「ごめんな、夏。気を遣わせてしまって」

「いえいえ。そもそも私に祐樹くんを責める資格はないので、何日でも待ちますよ」

「いや、そんなことはないと思うけど……。まあ無理もない、のか」


 少し引っ掛かる言葉だったが、これも気を遣ってくれた結果なのだろう。


「……よし。それじゃあここに来た用はもう済んだし、ぼちぼち休憩を終わらせて行くか。俺たちが見たかった海に」

「そうですね、二人で見に行きましょう」

「おう、二人で」


 夏の優しさに甘える形で今回の出来事を整理した俺は、今までのことを一旦忘れるためにその場で大きく息を吐く。

 そして元通りとまではいかないものの、いつもの調子で息を合わせた俺たちはその後すぐに砂浜のある海に向けての出発を再開した。

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