第24話

 駅から歩いて十分ぐらいが経った頃に俺たちは例の場所を発見する。


「……なんて言うか、静かな場所ですね。寂しいっていうか、不気味っていうか」


 到着して最初に目に入ってきたのは俺たちが歩いてきた道の続きと、その道沿いに高々と建つ使われている痕跡のない何かの工場。

 そしてその工場を囲う所々錆びのついた壁と、その壁に僅かにある突起の下。


 屋根とは到底呼べないそこが夏が雨を避けていた場所だった。


「あの時は雨で視界が悪かったから気づかなかったけど、こんなにも寂しい場所だったんだな」

「夏さん、心細かったでしょうね」

「ああ……」


 彼女がここを見てそう感じたということは、あの日ここに一人で来た夏も同じようなことを感じていたのだろう。

 もちろん俺もここに一人で来たとしたら孤独感とか恐怖感とか、そういう厄介そうなものを一番最初に感じていたと思う。


「それで、夏さんはどの辺りで祐樹くんのことを待ってたんですか?」

「それは確かこの辺だったと思う。ここの壁に膝を抱えてもたれかかってたんだ」

「なるほど。ここがそうなんですね」


 わざわざ指を差して教えた立場ではあるが、何処からどう見ても何の変哲もない壁なので、ここだけ見て意味があるのかは正直わからない。

 だがここで蹲っていた張本人である夏は少し異様に感じるくらいの集中した表情を浮かべながらその壁を見つめ始めた。


「どう……」


 そのとき俺はまた記憶の変化についてのことを夏に直接聞こうとしたが、直前でさっきのことを思い出して我慢した。

 さらに自分が近くにいることでも夏の気を散らしてしまうと考えた俺は彼女が見つめている場所から少し離れたところにある壁の前まで歩いていき、そこにそっと腰を下ろした。

 後になって腰を下ろすことまではしなくてもよかったかもしれないと思ったが、どちらにしてもこれでいつもより自分の記憶と向き合う時間を集中して過ごせるはずだ。


 そんな感じで夏が自分から話しかけてくるのを待つこと僅か数秒。


「祐樹くん」


 無言でその場に佇んでいるだけだった夏が俺の名前を呼びながら近づいてくる。


「……もういいのか?」

「はい、もう大丈夫です」

「そっか。大丈夫か」


 結果がどうだったのかは夏の元気のない声と落ち込んだような表情からすぐにわかった。

 まあ元々ここに来る予定はなかったから、それほど期待はしていなかったが。


「……それじゃあどうしようか。とりあえずこれからのことを決めるか?」

「そうですね……。あ、祐樹くんはそのままでいてください」


 今後のことを話し合うためにその場から立ち上がろうした時、なぜか彼女がそれを制止させる。

 そして有無を言わさず俺の隣まで一直線に歩いてくると、そこに俺と同じような姿勢でしゃがみ込んだ。


「どうした、急に」

「提案なんですけど、ここでちょっとの間だけ休憩しませんか?」

「あれ、確か休憩はいらないって言ってなかったっけ」

「あの時はそうでしたけど、だんだんゆっくりする時間も必要かなって思い始めて」

「なるほどな……。まあ最初からそのつもりだったしもちろんいいよ」


 どんな心境の変化があったのかはわからないが、夏の提案を断る理由がどこにもない。

 だから俺たちは不気味なほどに閑散としているこの場所で肩を寄せ合いながら休憩を取ることにした。

 そのとき気付いたことだが、ここから見渡せる景色は夏があの日に見ていたであろう映像と同じだ。


「夏、ここの景色は覚えてるか」

「そのことならダメでしたよ」

「そうじゃなくてここから見える景色はあの日、夏が見てた景色なんだ。だからここからの視点なら記憶に効果があるかもしれないだろ?」

「あー、なるほど」


 別の視点というのは我ながらいい着眼点だと思ったのだが、本人から返ってきたのは想像していたような反応ではなかった。


「その反応は無理そうってことだよな?」

「多分そうですね。でも今はそれよりも……」

「ん?」

「近いですね」


 夏の言う通り確かに今の二人は俺が何も考えずに横を振り向いたら、鼻と鼻がぎりぎりぶつかるかもしれないほど近い距離まできている。

 でも夏からそんな言葉が出てくるとは思っていなかった俺は思わず取り乱してしまった。


「ち、近いって俺たちの距離がってことだよな」

「はい、そうです」

「そっか……。ならもう少し離れようか?」

「いえ、そうじゃなくて」


 知らず知らずのうちに彼女に迷惑をかけていたのかもしれないという俺の心配を即座に否定した夏はさらに次の瞬間、俺の肩に頭を乗せて寄りかかってきた。


「な、夏? ほんとにどうした?」

「なんていうか、今ここで祐樹くんに言っておかないといけないなって思って……」

「言っておかないといけないって何を……」

「私には何があったのかはわからないけど……元気出してください」

「元気って……え?」


 俺は夏が何を言っているのか理解できず、言葉に詰まる。


「今の祐樹くんがいつもの祐樹くんじゃないってことくらい私にだってわかりますよ」

「どういうことだよ。俺が俺じゃない?」

「いくら私が今日のことを楽しみにしてたからといっても、祐樹くんが楽しくなかったら私も素直に楽しめません」

「えっと、それはつまり俺が楽しそうじゃないって言いたいのか?」


 夏は寄りかかっていた頭を再び持ち上げた後、ゆっくりと頷く。

 そこでようやく夏の言いたいことがなんとなく見えてきた俺は、当然そのことについて考えるために余裕のない頭を巡らせ始める。


 そして夏にそう言われても、今までのことを思い返してみても、自分の心の中に問いかけてみても、全く心当たりはない。

 だから俺が夏との時間を楽しんでいないわけがないし、ずっと前から今日のことを楽しみにしていた俺に元気がないわけがない。


 と、最終的に咄嗟に否定できない自分がいることに気づいた。


「……どこを見てそう思ったんだ」

「表情を見てたらわかりますよ」

「そっか。顔に出てたのか」


 もちろん自覚はない。

 でも俺を見つめる夏の心配そうな表情が嘘をついてるとは思えなかったことと、何より俺の心の中にさっきまでにはなかったざわつきのようなものがあること。

 そんな風に否定する材料よりも肯定する材料が多い時点でもはや答えは出ていた。


「祐樹くん、もし嫌なことあるんだったら私に言ってください」

「嫌なこと、か……。心当たりが多すぎるな」

「もちろんそれが私のことだっていうのはわかってます。でもだからこそ祐樹くんの優しさに甘えてばかりにならないように知りたいんです」

「そうだな……。そう、だな……」


 失った記憶と向き合う夏に寄り添おうとしたことで、知らず知らずの間に自分も夏との思い出に向き合わなければならなくなっていたこと。

 もしくは向き合わなければならなくなったことで、なんとも思わないようにしていた思い出の場所に辛さを感じるようになったこと。

 他にも夏と夏の知り合いが俺のせいで仲違いしてしまったことや夏の記憶が戻った後についてのこと。


 俺はそうやって思いつく限りの心当たりを頭の中に並べながら、さらにそれらを慎重に精査する。

 その結果、その中のどれが俺から元気を奪っている元凶なのかはわからなかったが、一つだけ何となく頭に浮かんでくる言葉があった。


「私の何が祐樹くんを困らせてるんですか?」

「夏の記憶が……」

「はい」

「記憶が戻らなかったらいいのに」

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