第23話
前に海を訪れた時の季節は彼女の名前と同じ夏。
再び海を訪れようとしている今の季節は冬。
それが海の季節かと問われたら当然そうではないと答えるが、見に行くだけならどの季節もそれほど変わらないし、そもそも楽しむために行くわけではないので、俺たちにとって季節はあまり関係ない。
ただそれで問題なく海に行けるのかと問われたら残念ながらそうではなく、もっと具体的に言うなら現在俺が抱えている問題は二つある。
一つ目は単純にその日の天気。
そして二つ目は取るに足らない自分の気持ち。
「海、すごく楽しみですね」
雲一つない綺麗な青空に見下ろされながら進む電車の中、隣に座っていた夏が不意に声をかけてくる。
彼女の言っている通り今日は二人で海に行く約束をしていた土曜日。
つまりこの時点ですでに天気の問題はクリア出来ていることになるが、それに加えて気持ちの方も今の夏のためという前提があるので、これも現時点ではクリアだと言える。
ちなみに今日の俺は一度目の時の過ちを繰り返さないように寝坊も遅刻もしなかった。
もちろんそんなことは当たり前だし、もしそうなった場合でも今の夏なら怒らなかったと思うが、何はともあれ今日は一度目の時とは違って順調に一日が進んでいる。
「それは俺もだけど、何となく今日の夏はいつもより楽しそうに見えるな」
「そうですか? うーん……あんまり自覚はないですけど、ここに来たいって言う想いが強かったのかもしれないですね。あとは単純に祐樹くんとの関係に慣れてきたのかも?」
どちらもありえる話だ。
ただどちらにしても夏にストレスを与えていないという観点から見たら良い変化と言える。
「どっちにしても夏が喜んでくれているようで安心したよ。でもはしゃぎすぎて海に落ちないようにだけは気をつけろよ」
「もう、子供じゃないからそれは心配ないですよ。まあ使うかもしれないので一応タオルは持ってきましたけどね」
「今は冬だから間違って落ちない限り海に入ることはないんだけどな……」
砂浜ではしゃごうと意気込んでいるのはいいことだが、冬の海に入る予定はないのでタオルの出番は来ないことを願いたい。
そしてそんな呆れるような、でもどこか微笑ましい会話を俺たちが繰り広げていた時、不意に窓の奥から懐かしい光景が飛び出してきた。
「夏、後ろの窓から海が見えるよ」
「ほんとですか?」
前回と同様、電車が鉄橋に差し掛かったところで後ろの窓に目を向けると、柱の隙間から太陽に照らされて輝きを放つ海が顔を覗かせる。
「前に来た時も見たんだけどよかった。あの日と変わらずそこにあって」
「えっと……」
「まだ見つけられないか? ほら、光ってるあそこ……って、夏?」
一度目の時の不機嫌だった夏とは違い、今の夏ならその海を嬉しそうに見てくれるはず。
そう期待して俺は海のことを夏に伝えてみたのだが、どういうわけか夏は一向に海を見ようとする素振りを見せない。
「ど、どうした。見なくてもいいのか」
「うーん……。すごく見たいんですけど……」
「なら早くしないと。もうすぐ橋を越えるから見えなくなるぞ」
「そうですね……。でもやっぱり今はまだ見ないでおきます」
その瞬間、のんびりとしていた俺の心に小さな波が立つ。
「……何で?」
「気にしすぎかもしれないけど、向こうに着いた時に楽しさが薄れちゃう気がして」
「薄れる? あ、あー、そういうことか」
「せっかく教えてくれたのにごめんなさい。祐樹くんが絶対に見た方がいいって言うなら、見ようと思いますが……」
「いや、そういうことなら別にいいんだ。そういうことなら」
拒否された時は前回のことを思い出して焦ったが、そんなしっかりした理由を聞かされては俺も納得せざるを得なくなる。
「早く見たいですね」
「おう……」
そんな会話をしている間に俺たちを乗せた電車は快調に進んでいき、渡っていた橋を抜けて次の街に入る。
それと同じタイミングで名前も知らないあの海も何処かへ消えてしまった。
もちろんあの海は初めて見るわけでも、絶対に見てほしいと思うほど綺麗なわけでもない、どこにでもあるような普通の海。
でも見えなくなったその普通の海が俺は何故か少し名残惜しく思えた。
目的の駅に着いて電車を降りた俺たちの話題はもちろん今日の最終目的地である海のことだった。
「この近くに海を見れる場所があるんですか?」
「まあ落ち着けって。ここから少し歩いたところにあるんだ。だからゆっくり行くけど疲れたら遠慮せずに言えよ。その時は休憩を取るから」
「わかりました。なら無理しない程度にがんばります。あと祐樹くんも無理しないでくださいね」
「はいはい。わかったよ」
心配したら逆に心配されるというよくわからない状況になったが、今の夏に余裕があるということは伝わってきた。
「よし、それじゃあグダグダしてても仕方ないしそろそろ行くか。詳しいことは歩きながら話せばいいし。夏もそれでいいか?」
「はい! もちろん大丈夫です!」
「おっけー。まあでも正直どの道だったかあんまり自信ないんだよな……。確かあそこの道をまっすぐ行けば良かったはず……」
「あの、祐樹くん」
前回のことを頭に思い浮かべながら海までの正確なルートを模索していた時、夏が何の前触れもなく俺の名前を呼んだ。
「どうした。やっぱり休憩が必要そうか」
「いや、そういうことじゃなくて」
「じゃあ一体どういう……」
疑問の言葉を口にしたその直後に俺が見たものは恥ずかしがる夏の顔。
次に自分の右手と、自分の右手を掴む彼女の小さな左手。
そこまで来てようやく俺は夏に手を握られたということを認識する。
「……つ、繋ぐなら先に言っといてくれよ。急にされたらびっくりするだろ」
「ごめんなさい。もう何回も繋いだから大丈夫だと思ったんですけど……あ、もしかして照れてるんですか?」
聞こえてきた言葉が理解不能すぎて俺は思わず「え?」と情けない声を出してしまう。
「やっぱりそうなんですか?」
「いやいや、そんなわけないだろ。何回手を繋いだことがあると思ってるんだよ。流石にもうそんな感情はないって」
「えー、絶対そうだと思ったのに」
「どこを見てそう思ったんだよ。しかもどっちかというと照れてるのは夏の方だろ」
「えー! どうしてわかったんですか!」
夏の能天気な行動にらしくもなく動揺させられていたが、最後の最後で一人芝居を始める彼女を見て俺はその動揺をため息に変えた。
「……もうそれはいいから。ほら、変なこと言ってないで行くぞ」
「はーい」
「ほんとに頼むぞ……」
夏の気の抜けた態度に不安を感じつつも、気を取り直して足を動かし始める。
もちろん離す理由は見当たらないので手は繋いだままで。
「久しぶりに来たけどどこも変わってないな」
「そうなんですか? 私は知らない土地なのでちょっとだけ緊張します。まあ今はどこに行ってもそう感じますけどね」
「えーっと……確か海を見たことがあるのは思い出せたんだよな?」
「はい。映像とかじゃなくて心残りって言うんですかね。上手く説明できないけど砂浜のある海という言葉にすごく惹かれるんです」
「あー、なるほど」
心残りという言葉で夏の言いたいことは大体
伝わった。
「だからその海を見たら何か思い出せるような気がしてて。というか思い出さないとダメですよね」
「……まあな。でもそんなに焦る必要はないと思うぞ。海、楽しみにしてたんだろ? ここから少し遠いけどすっごく綺麗らしいから期待しててくれ」
緊張を和らげるつもりでそう言った。
だがそこで夏が浮かべたのは何とも言えない表情だった。
「……らしい? あれっ、二人で海を見たんじゃないんですか?」
その言葉で気づいたが、俺は一度目にここに訪れた時のことを夏にまだ詳しく説明していなかった。
「……そうだな。これは今の夏にもちゃんと言っておかないとな」
「もしかしてその日に何かあったんですか」
「なんていうか、情けない話になるけど俺の遅刻が原因で喧嘩しちゃってさ。それで夏は海を見に行ったけど、俺だけは海を見ずに帰ったんだ」
「海を見ずに? そ、そうだったんですか?」
「普通に考えたらおかしいよな……。誰だってあそこはすぐに追いかける場面だってわかるのに。ほんと、あの時はごめんな」
元恋人の、しかも喧嘩をしてしまったという思い出はもちろん話していて楽しいものではないし、出来るなら話したくないというのが本音。
だが夏の記憶を取り戻すという観点から見たらこの会話は避けては通れない。
「恋人同士でも喧嘩はしますもんね……。でも、恋人関係が今も続いているということは私たちは仲直りはできたんですよね?」
「そうだよ。帰る途中で急に雨が降ってきて、それから一人で海に行った夏に急いで傘を届けに行って。最後にそこで俺は夏と……」
「私と?」
「あ、いや、悪い。そこで俺は夏と仲直りしたんだ」
罪悪感のような感情が随所に空白の部分を作ったが、俺は今の夏のためにあの日に起こったことを出来るだけ誠実に説明した。
そのとき俺は夏に頭の中を整理する時間を与えるために気になっても「何か思い出したか?」とすぐに聞くのはやめておいた。
「まあ簡単にだけど、これが俺の海を見ていない理由だよ」
「あの、祐樹くん」
「どうした。気になるところがあったなら何でも答えるぞ」
「えーっと、その……。い、いえ……。やっぱり何でもありません……」
理由もなく名前を呼ばれたことでさっそく何か思い出せたのかもしれないと少し期待したが、どうやらそうでもなかった様子。
ただ本人も意識していないところで何かが現れ始めているという可能性もあるのでこれだけでがっかりする必要はない。
「そうだ。海岸までのルートからちょっとだけ外れるけど、今から俺が夏に傘を届けた場所まで行ってみないか?」
「いいですね。まだまだ歩けるので行きましょう。私も気になりますし」
「夏も気になるのか。じゃあ決まりだな」
もちろんそこに行ったとしても何かを得られる保証はないし、何ならまたあの日のことを思い出して心が痛くなるだけかもしれない。
だがそこに行けば無くしてしまった大事な何かを拾えるかもしれないという漠然とした想いが俺たちを急遽、夏が雨宿りしていた場所へと誘った。
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